第五話 神南(五)
祀堂の入り口から青年は川面を見下ろし、つぶやく。
「意のままにならぬなら、我の水で封じこめ連れ去ってくれようか」
荒れ狂った渦巻く奔流にとらわれ、れんは息もできずひたすらもがきつづける。五感はおろか冷たささえ忘れ、意識が薄らいでゆく。
(いや……)
てのひらの数珠をつよく握りしめた。意識をつなぎとめるため、決して離すまいと。
(し……ずめ……ないと……わたく……)
――目を開き……見よ……。
誰かが命じる。
れんは従った。ふたたびまぶたを開く。
泥の中なのに前が見える。なにかが見える。
(……蓮)
幻か。蓮は泥沼の中で咲く。でもここは川……
れんは手をのばす。手首に揺れる数珠が輝く。蓮の茎に、手が届く。
(もう少し……)
――思いどおりにはならぬぞ。
龍神は息をのんで頭上を見上げた。
「荷葉の座」
荷葉――蓮の葉がゆっくりと、龍神の目線までおりてくる。
葉の上には、白土一色に染まった異形の者が胸をおさえて激しく咳きこんでいた。それがれんだということは即座に分かった。
「中将内侍、いや観音菩薩のしわざか。我が術を……かくもやすやすと破るとは」
れんは蓮の葉の上で荒い息を整えていた。川から引き上げられたばかり、無理はない。全身泥まみれだが、ぬぐうことも忘れて空気を確保しようとしていた。しかし、れんはなさけない顔で龍神を見上げた。
「りゅ、龍神さま」
龍神は黙ってれんに険しい目を向ける。
「仰いましたね。まだ道半ば。参るのは、ここから、と。わたくし、お供するのは、かまわないのです」
と言うとれんは空咳をし、そのあと深呼吸をしてから続ける。
「……ですが、時を、くださいませ」
「時をとな」
「はい。まず……わたくしは家に帰り、父上に安心してもらわねばなりません。そして美濃に、観音菩薩のもとに、お参りせねばなりません。おばばさまの為に、代わりに参りますと、そう約したのです」
「本当に父とおばばさまのみが為か」
「本当に、と、お疑いなのは」
「分からねばよい」
龍神はわずかに笑った。
「それから、まだあります。どなたかから、川を鎮め彼を助けよ――とのお声を聞いております。あの声の方は、あなたさまではございません。声の主がどなたかは存じませんが、わたくしはその方を助けねばならないのです」
「ふむ」
龍神は氷のごとく厳しい容貌に戻る。
「だれがそなたに乞うているか、我は知っておる」
れんは狼狽した。
「ど、どなたですか」
「教えてやろうほどに、そなたは時来れば我が元へ来い」
「ほんとうですか。教えてくれるのですか」
れんは満面の笑みで龍神にすがった。
「偽りは申さぬ。一度そう言った」
「ほんとうに、教えてくれるのですね」
「そなたの名に誓えば」
「はい。中将内侍の名に誓って」
「よろしい。龍田神南明神の名に誓おう」
龍神は大きく気を吐いた。その深い息づかいに木々は震撼し、小枝は折れ飛び、地面の泥が宙に乱れ散った。
れんも風にあおられ、重い袖を上げて顔をおおう。
やがて、風がおさまると、れんはこわごわと袖をおろす。眼下に龍神の姿をとらえた。
龍神はれんを見上げている。
「蓮の葉!」
れんは今さらながら座っている場所の異常さに気づく。
「それも、宙に浮いて」
龍神が片腕を上げ、なにかを指し示す。蓮の葉の下には荒れた川が轟々と流れていた。そして――老木一本、川の半分に覆いかぶさっている。その木がある場所は濁流に地面がえぐり取られ、埋まっていたはずの根がむきだしに見えた。
「見えるか。あの年老いた」
「木でしょうか」
「そなたを呼びだてたのはあの川辺に生きる桜の親子」
「桜の、親子」
その桜に人の姿を認め、れんは腰をかがめて目をこらした。
老木の根から面に降りんとする若者。その彼をささえ縄を引っ張る僧たち。
「春時どの!」
れんは目を大きく見開いた。
「それに、聖のかたたち」
春時が手を伸ばす先には、まだ腕一本分にしかならない若木。
(わたくしを呼んだ方を、わたくしが申し上げた方を、春時どのが助けようと……)
れんは声も出せず涙があふれた。
(春時どのが)
「しかし、助け出せるかな」
龍神の声をとらえ、れんはふり向いた。
上流から――流水の音が激しくこだまする。れんはその音をとらえ、その正体を追った。いや、正体は分かっている。濁流だ。濁流が激しくうねり、崖を削り木々を幹までのみこみ、迫り来ているのだ。
春時たちのいる場所はすぐ間近。
れんは悲鳴を上げ、春時に届けと叫んた。
「春時どの! 逃げて、逃げて!」
龍神は冷笑し、つぶやく。
「拝見させてもらおうぞ――仏の遣わせし女、中将内侍の力の源を」
叫びは春時には届かないのか、春時たちは気づきもしない。れんは自分を乗せている蓮の葉を力いっぱいたたいた。
「蓮の葉さん、降りて、降りて」
蓮の葉はただ、川の上をふわふわ浮いているだけ。
「降りて! 春時どのに知らせないと」
桜を助けるどころではない。桜も春時も、濁流にのみこまれてしまう。
勝手に一人で龍神について来なければよかった。いや、平群に戻ることに異をとなえなければ。助けを呼ぶ声がすると話さなければ。私がよけいなことばかりを――後悔の念がれんの心をさいなむ。
れんは大きく首をふった。
「考えても、なんにもならない」
れんは立ち上がる。眼下の桜を見すえ、
「いざ――」
と、荷葉の縁から足をふみ出した。