第五話 神南(四)
「厳妙どの!」
練行僧が叫んだ。
その先には中年の僧。沈みかけて、首から上だけを川面から出し、なんとか命をつないでいる有様であった。
「おお、厳妙どの、よくぞ流されずに」
「あの細木が命綱となっていたかと」
春時が指摘したのは僧厳妙の両腕が抱えている細い木の幹だった。
「しかし細すぎる。早くせねば木もろとも流されて」
まさに厳妙の命は風前のともしび。川の流れは強い。つかまっているだけで精一杯。自力で岸に上がる力は残されてはいまい。
「厳妙どの、今、お助けします!」
かたわらの僧が喜び半分に呼びかける中、春時は落胆していた。
(れんはいない)
声に従ったがれんはいなかった。
れんが訴えていたのもこの僧たちではない、と春時は結論付けた。練行僧らは今朝、山に来たと言った。一方、れんが助けを求めていると訴えはじめたのは昨晩から。時間が前後している。ゆえに、れんに救いを求めた「別のだれか」が存在するはず。
しかしそれは何処にいる?
――助けてください!
今度ははっきりと聞こえた。
「だれを? だれを助けろと」
せかされた春時はいらだちをあらわにした。
――道連れに、流されてしまいます!
「道連れ。ということは僧とともにいる」
僧は一人だ。では人ではない?
信じ難いが、衣服か、持ち物か。
厳妙が手にしているのは細枝くらいだ。その木の根元は脆弱で、厳妙が引っこ抜くが早いか、根こそぎさらわれるのが早いか――厳妙か木か、いずれかが力つきれば、いずれかの「道連れ」に――。
「あの細い木が!」
「たっ、助けてください」
厳妙がかすれた声をしぼりあげた。
「玄岳どの、どうか、後生です、お助けを」
「厳妙どの、今少し耐えてください!」
僧玄岳が岸から身を乗り出し、やみくもに腕を伸ばした。
「危ない」
春時は彼をとりおさえ、
「貴僧まで巻き添えになる」
と言いながら考えをめぐらせた。
(まず僧、それから若木の順だ)
時間はあまりない。木の根元はすでに危うい。厳妙も力尽きるにはほどないだろう。
春時は周囲を見まわした。道のわきの折れ枝が山積する中、太く長めの枝がある。それを春時は見てとった。ひっぱり出すと三尺はあり、しっかりした枝ぶりである。
春時は肩にかけた剣の革ひもをはずし、枝に結びつけた。
「剣をかける輪の部分に手を入れれば、水からひき上げやすい」
「名案!」
僧と春時はさっそく枝を降ろした。
「つかまってください」
「輪に手を通して」
厳妙はおそるおそる小枝から片手を離したが、
「おお!」
と叫んだと同時に流されかけた。
が、離した片手はしっかり革ひもを握っていた。
「今だ」
玄岳と春時は一息に引き上げた。
「今、少し!」
引き上げきったとたん、彼らは泥の地面にそろって崩れ落ちた。
春時が身を起こしながら、
「御身ご無事か!」
と叫ぶと、声ならぬ呻きを厳妙は声をもらした。玄岳も厳妙も身を起こす余力もないのか、そろって顔だけ上げ荒い息を吐いていた。
春時は苦みまじりの笑みを一瞬のみ浮かべ、泥から起き上がった。
若木の枝。すでに葉は流されあわれな姿だ。やがて枝も折られ、根元から濁流の藻屑と消えるだろう。
どう「救う」のかは難題だった。相手が人なら「つかめば引き上げよう」と言える。相手が動けない木では、春時が動くしかない。人ひとり助けるより危険かもしれない。
(なぜこんなことに必死になってるんだ)
ふと思ったが、春時は腕を伸ばした。
届かない。
さらに身を乗り出した。
「若木を抜こうというのですか」
玄岳が背後から尋ねた。
春時は無理な姿勢でいて、声も出せないでいる。玄岳はそれ以上尋ねなかった。
「手伝いましょう」
春時はちらりと彼らを見、「ありがたい」と口だけを動かした。
「我はここで枝を支えています。貴殿は革ひもを身にしばって下へ」
春時は再度言い直した。
「ありがたい」
玄岳の申し出どおり、春時は革ひもで自身をしばりつけた。厳妙なる僧も回復したか、二人がかりで地面にさした棒を支えた。地面が泥まみれなため、それでも万全ではない。僧たちは力をこめた。春時もできるだけ上の二人の負担にならぬよう、そろりと岸の斜面をつたい降りた。
枝葉の上で足をとどめた。若木は足元、すぐ下だった。
春時はそろりと中腰になり、手を伸ばした。平地ならばなんのことはない姿勢も、ぬかるむ岸の斜面では厳しい。無理な体勢をじわり、じわりと動かし、ようやく枝に触れた。指がふるえる。
春時が息をのんだ。刹那、根元をにぎりしめた。
(抜けるか)
手元を動かした。根元はゆれている。
いま少し春時が体を伸ばす。と、
「水がっ!」
僧たちが狼狽の態で叫んだ。
春時が顔を上げると、土色の龍が牙をむき襲いかかった。春時と僧たちもろとも呑みこもうとするその時、彼らはただぼう然と、その恐ろしき顔を眺めるだけだった。