第五話 神南(三)
春時は目を細めた。
川岸に打ち上げられている、黒い姿に気づいたのだ。
「人、か」
れんではない。黒衣ならば。
春時はそれに速足で近づいた。
なんでもいい、てがかりが要る。闇雲にれんを探すよりはましだ。
足元は泥まみれで、走ることさえままならない。速足もひと苦労で、下手を踏むとぬかるみに足を取られ、川に転落しかねない。背負う剣を杖がわりに、慎重に、しかし急いで、岸に身をよせた。
黒い姿は剃髪の僧形一人だった。
ぐったりと体を横たえ、意識は失っている。
春時は僧の胸元に手と耳をあてた。
息づかいがほとんどない。しかし胸の鼓動はしっかりとある。
胸を何度か圧迫した。
僧が息をふきかえした。苦しげにあえぐ。
川上から流されてきたらしい。着衣はさほど乱れていない。つい今しがた川に流れつき、運よくすぐに助かったところだろうか。
そういえば室屋を出るまえ、社殿のある方角に鉦の音を聞いた。治水祈願でも行う練行僧が打ち鳴らしていたのだろう。だが今はその音もやんでいる。ということは呪法は終わったのか。それもこの川の流れだ。結果は失敗に。
とすれば、この御仁は。
「しっかり」
「は……」
僧があえいだ。
春時が背中をたたくと、僧は少し水を吐いた。
「上の社で」
僧はときおり咳をまじえつつ、息を整えゆっくり話した。
「聖上の御勅により、龍田の川を治める祈願を」
「人を見ませんでしたか」
春時には天皇の勅願などどうでもよい話だ。
「人を」
「童子頭の女子です」
「い、いや」
僧は幾度となくかぶりをふった。
「我らは朝から川下の、水びだしの里からここへ登り着いたが、道途もそのような者は、見かけなかった」
「確かですか」
「確かだ」
春時はひとたび黙した。
(一体どこへ行ったのだ、れん)
「若者よ。その童子とやらはそなたの」
「血縁の者」
「然様か……残念だが流されてしもうたのでは」
(そんなことはとっくに考えたさ)
といらつく春時だったが、
――助けて。
「えっ」
と、とっさに身をこわばらせた。
「いかがした」
僧がけげんそうに春時を見る。
春時はすぐ冷静さをとりもどした。
「いえ、なにも」
僧には聞こえなかったのだろうか。では先ほどのは空耳か。
(いや、今、是非を問うのは早計)
空耳か否か。よく見きわめて……
――助けてください。
今度こそ春時は確信した。
夢で泣き叫んだ母親だ。春時にとりすがった女だ。
確信するだけではない。彼はさらに推測を深めた。
(もし、れんが聞いたのと同じ者ならば)
れんもさがし回っているのではないか。
闇夜の中でさえ飛び出して行かんばかりだったのだ。いてもたってもいられず、朝一番で室屋を出たのかもしれない。ものおじせず、後先も考えず動く姫のことだから。毎度、迷惑な行動だと思うが、もうどうでもいい。
それならば。
世間知らずの姫にしつこく「助けよ」と告げた、いっそうはた迷惑な願主とやらをさがし出せばいい。れんも同時に見つかるかもしれない。
ほかに手がかりもない。だめで元々だ。
(もっと呼びかけてくれないだろうか)
春時は神経をとぎ澄ませた。
やがて、か細くすすり泣くかのような嘆きを受けとめる。
――わが子が、流されてしまう。
「もっと上に」
春時は即、ぬかるむ坂を登りはじめた。
「上は行けぬぞ、危なすぎる」
僧が忠告したが春時は聞く耳を持たなかった。
(あんたは黙っててくれ)
うつつの声は聞き取りの邪魔となる。夢とおぼしき声のみが頼みの綱。その綱をたぐり寄せながら、追いかけ、進む。
――春時どの。
「れん」
春時は心高ぶったが、落ちつけと自らに言いきかせた。かすかな希望に期待が過剰に高ぶり、無意味に空回りせぬように。
「待ちたまえ!」
僧もまた、春時の背を追ってあやうい足取りで泥道を登ってゆく。
やがて彼らは川面に人ひとりの姿を認めた。