第五話 神南(二)
「ああ……」
れんは嘆息をもらし、なすすべなくしゃがみこむ。
残酷な光景はまぶたを閉ざしても、目に焼きついている。
二人の僧たち。
その、流されるその瞬間。
(流されていった、目前で。なのに、わたくしはただ)
なにもしなかった。
この祠堂の中でつまらない言い争いをしているより、誦経を聞いているより、他になにかができただろうに。
(そう、なにかができたはず)
彼らは闇中、並んで端座し呪詞を唱和していた。
(川を鎮めたい、それはわたくしの祈りと同じ。でしたら)
その一言一句、れんは思い起こす。
龍田の川よ鎮まりたまえ、
頭に、身体そのものに、じわりと染み入ってくる。
龍神よ怒りを鎮めたまえ、
ちからなき人々を救いたまえ……
「神南大龍神、結界三里内、
使打出水流、急急如律令」
節回しをそえて自然と口をついて出た、それは僧らのと違わぬ呪言。
「何だと」
しかし違うのは青年――もとい龍神があわてはじめたこと。
れんは変化に気づかない。僧たちの鎮めの祈りをなぞることだけに集中する。
「やめ……」
龍神は激しく息をつぎ、身じろぎする。やがて苦しげにひざをついた彼は、れんをつかもうと腕を回しもがく。しかしその腕は空を切り、やがては行き場もなくだらりと垂れる。
やめろ。
さらには口を裂けんばかりに開いて叫んだ――やめろ、中将内侍!
れんは望みに従ったかのように、誦経を止めた。
「あなたこそやめてください」
そして手のひらを龍神にかざし、印相を結んでその双眸をとらえる。
「きっとお困りになるのは、きよく、おばばさま……みたいな、いつも困っている人たちなんです。みかども、民のことを考えているはずです。だからあなたを鎮めよと、聖の皆さまにお命じになられた」
ようやく龍神の口から音がもれたが、うなるだけで声にならず、ただ口惜しそうにれんを睨めつける。
「あなたさまも、苦しみから逃れたいはず」
れんはたじろがなかった。
「さあ、川を、鎮めてくださいませ!」
龍神の白い顔はなお蒼白になり、懇願とも怒りともつかぬ相貌があらわとなった。
――はじめに約したとおりだ。
「わたくしが行けば、よろしいのですか」
龍神はうなずいた。
「偽りではありませんね」
――我は神。神は偽りを口にせぬ。言挙げの力を備えるため、偽りは許されぬ理。
「言挙げとは、発したことばがほんとうになるという」
――そうだ。
れんは思案した末、
「あなたからお先に、川をお鎮めください」
と、龍神に要求した。
――そなたが先じゃ。譲れはせぬ。
「どうしてです」
――人は嘘をつく。
「わたくし、嘘なんて申しません!」
れんが印相を結ぶ手に力をいれた。
龍神はわずかに顔をしかめるが、れんはそれに気づかなかった。
「だいたい、あなたが急きたてたのではありませんか! 早く来ねば室屋を流してしまうぞ、って。わたくしは、せめて文でも置いて行こうかしら、と思っていたのです。それをあなたさまが、あんまりおっしゃるから」
――我が知ることではない。
「龍神さまは、ずうっと、このままでよいのですか」
――よかろう。術が解けるまでこのままでいよう。
龍神は笑うそぶりをみせた。
――そなたより我の方が長く生きるであろうしな。
「そんな。ずるいわ!」
確かに今は自分が優位にある。しかしそれは龍神にとって脅威ではないのだ。ただ待てばいい。
龍神の傲岸な態度ははったりなどではない。
(春時どの)
れんは頼りなげな目を泳がせる。
(どうしよう。このままだなんて。春時どのは、わたくしをさがしまわっているかしら)
さがしていれば申しわけがない。
さがしていなければ?
(やっかい払いできた、と思っているかも)
ふとれんは悲しく思ったのだが……。
(いいえ、そんなことを考えている場合ではないわ)
れんは気をとりなおす。
「龍神さま。そもそも、わたくしがここに来たのは、川を鎮めてもらうためです。助けを呼ぶ声がどなたなのか、それで助けることはできはしないかと、やって来たのです」
呪詞を返されて川にのみ込まれた僧たち。かれらは「助けよ」とはじめに告げた者とは違った。声が違う、そして雰囲気も。
では、だれなのか。
(声を聞いたのはわたくしだけ。このままでは、川は鎮まるかもしれないけれど……わたくしはすべて……投げ出してしまう)
難波津にゆき、味方になってくれるという右大臣家別業の者に会わねば。
美濃に行くこともできないかもしれない。きよくの老母に約したはずなのに。
それに。
(春時どの……)
れんの印相がゆるむ。
龍神はそれを見逃しはしなかった。
「解!」
龍神、渾身の雄叫びが轟いた。
周囲の水が一斉に水滴をはじき上げ、何本もの水柱が激しく天上へと噴き上げる。
叫ぶ間もない。れんははじき飛ばされた。
思わずかたく眼をつぶった。
落下する。驚愕の声すら上げられぬまま――いつまでもいつまでも、落ちきる先もなくひたすら落ちていった。それを「落ちる」と呼ぶのか――「下」から抵抗を受けながら「上」からも抑え込まれる感覚に包まれていた。
れんが怖々、眼を細める。
ただ下へ下へと暗闇に向かっている。
(せめて、わたくしは、川を鎮めねば)
今度はしっかり両目を開いた。
八つ頭の水龍が視界にとびこんだ。
水柱が林立する中、獣は誇るがごとく咆哮し、その声はれんの全身を震わせた。
「龍神」
逆さまに浮遊している。
落ちてはいない。
上下が逆転しているなんておかしい。
「これは……」
なにかが分かりかけた――とたん、れんは水の中に投げ出された。
れんはもがいた。泥水に袖がからまり腕が動かない。衣は水を吸い重くなり、いずれ溺れ沈もうとしている。それでも、もがく。ほかになすすべがない。