第五話 神南(一)
朝ぼらけの光にれんは目を細めた。
堂宇の桟の間から崖下に、ぼんやりとした視界の中に双影が形をなしてきた。影はふたり、いずれも僧形。ひざまで泥にまみれ、身を包む衣も朱塗を引きはがしたようなまだら模様であった。彼らは速足で川沿いの土手を歩んで来る。朝日を望むや、平群の里から上って来たのかもしれない。
「治水を祈願するそうな」
白い唐様の若者が一歩、れんに近寄る。
「朝から御苦労なことじゃ。無駄なことと知りつつも祈祷をあげ、説法し、仏典を読む。今日は幾人が川に飲み込まれるのであろうな」
「無駄なこと。どうしてそうはっきりと、無駄と断じるのです」
「龍田の川の龍神の怒り、望み。それを知ろうともせぬ。ただ形ばかりの祈祷に頼ろうという心積もりらしい」
「それは」
れんは迷いつつ弁明を述べた。
「あの方々は、命ぜられてここにいらしたのでしょう。ですから」
「命令ゆえ、いささかの思量もなくともよい、か」
れんは黙って考える。
「すめらみことは元来、我のことばを聞く義務がある。ゆえに衆生より推戴されまつりごとを執る。にもかかわらず義務も果たさず、僧どもに我を治めよと命じたのだ。本末転倒とはこのことぞ。すめらみこととは残酷なものであるよ」
「あなたも残酷です」
れんは思ったことをそのまま口にした。
青年が冷笑する。
「そなたに何が分かろうか」
れんは一瞬、とまどった。
(いえ、もの知らずがなんだというの)
しかし首をふり、思い直して言った。
「世の人々が困っております。お誘いどおり、わたくしは参りました。ですからわたくしの望みを叶えてください。どうか川を鎮めてください」
「中将内侍。ここは道半ば。参るのはここから」
「ついて参りましたら、鎮めてくださいますか」
青年がれんの顔を見下ろした。
美しい顔立ち。だが微笑をたたえる冷たき面相は、人間離れしていた。
れんは心底寒気がした。畏れ、だろうか。これ以上目をあわせていられず、ごまかすようにみずからの衣を見直した。
乾いた泥がこびりつき、さながら灰色の衣のようだった。僧と同じ目にあったのだから。
この堂にたどり着くまで、どれだけ難渋したことか。峠を越すと道は下り、曲がりくねっていた。しかしすぐ左手は山、崖がそびえ立ち、右は川が濁流を作りだしている。山道はひどかった。ただでさえ狭隘な足元は泥まみれで、ごつごつした石がいたるところに転がり足をとられる。土崩れで半ばふさがれている箇所もあれば、水びだしですねの半ばまでが浸かってしまうぬかるみもある。ひどいところは濁流に道の半分が流されかけていた。
青年はそんな道を雲の上を歩くように進み、れんをこの堂に導いたのだ。
(この方は人にあらず。もしや、龍田の神)
「始まったぞ」
摩迦補陀羅――陀羅尼の誦経、それは先程の僧たちの仕業であろう。
神南大龍神、
結界三里内、
使打出水流、
急急如律令――束、
青年の身に葛で編んだ縄がからみつく。
「こざかしい練行僧ども」
彼は嘲るような笑みをうかべた。
「踊れ」
彼は両手指先を動かした。大きく、円を描くように。やがて川面はゆるやかに、渦を描きはじめる。
一方、鉦の連打とともに僧らが唱和する。
縛――大龍神、
緊――大龍神、
(この方は龍神)
やはり、とれんは思った。
(龍田の川の龍神。この方が、この川を荒れ狂わせて)
ぎりぎりと葛縄は青年を締めつけた。まるで意志を持つ生き物のように、捕らえた獲物をけっして逃すまいと、腕・足・胴の動きを許さない。青年の真白い束帯もろとも幾重にも重なりあい、指の動きすら封じこめ、首から下は身じろぎすらかなわなくなっている。
「しつこい奴らめ」
青年がふっと笑い、そして大音声を発した。
「解!」
突如、川に渦巻く中心から一筋の水が噴きあげた。激しく空をはしる水は青年の体をかすめ、荒縄を切り裂いた。断片を霧が包みこむ、縄は微塵になり、全く形をとどめず消え去った。
「それ、返り討ちにしてやろう」
彼が腕をふり上げるや、
「返!」
川から泥水が噴きあがる。
あっ、とれんは叫んだ。
二僧は鉦を投げ出し、立ち上がって逃げようとした。が、なすすべなく中腰で――叫ぶ時すら与えられぬまま、濁流に丸飲みにされた。
れんは再び震えた。ぼう然と、龍の背のごとき乱れた川面を見つめた。
青年はふふ、と笑う。
「すめらみことの病の治癒は得意なれど、水難は不得手と見ゆる」
――助けて、助けてくれ。
れんははっと息をのんだ。
(助けなくては!)
思うや否や泥のこびり付く袖をなぎ、堂の外へと飛び出そうとするも、寸前で足をとどめた。
「そんな……」
走るべき道はなかった。この祠は荒れ狂う川を目下に、中空に浮かんでいた。