第一話 琴韻(三)
「神妙な振る舞いに感じ入った次第」
男はやや切り捨てるように言った。
「わたくし、ですか」
「理不尽な命令に従う気も失せた。それだけのこと」
「理不尽な命令」
姫が首をかしげる。
「確かに、父がむすめの私の命を奪うよう命じたのは、悲しいことです。ですが、なにか理由あってのことと思います。父上が意味のないことをなさろうはずがありませんから。
……黒衣どのは、いかなることを理不尽とおっしゃるのですか」
問いかけた相手の目に迷いがうかぶのを、中将の姫は見てとった。
男はそれを隠すように顔をそむけた。
あやまたずそれは図星かと、姫は直感する。
唐突に男は立ち上がって、静かに妻戸を開けた。そして、
「すぐに戻る」
と背中越しに言い残し、廃屋から立ち去った。
廃屋には姫ひとりが取り残された。
姫は目をふせた。
胸がつまる。恐怖はもはや捨てた。これは不安の塊だ。先知れぬ身の上への不安、敵か味方か見定め難いがゆえの不安。
しかし、それに増して姫はもの悲しさを覚えた。胸苦しさは不安だけではなく、悲しさも原因だった。
「なぜ、悲しいなんて思うのでしょう」
黒装束の男は問いかけに答えなかった。一瞥をも示さず出て行った。それが悲しいらしいのだ。この身に刃を向けた凶徒なのに。
「どうしてなのかしら……」
長谷寺、泊瀬の谷。
あの人は「逃げよう」と誘いかけた。だから逃げた。そしてこの地に来た。
だが、果たしてほんとうに「逃げて」来たのだろうか。
命を奪おうにも、仮にも前の右大臣の邸だ。邸内での刃傷は障りがある。だから逃げよと誘いかけ、連れ出したのではないか。……いや、そもそもここは、ほんとうに泊瀬の谷なのか。証拠はない。ただ男の口から「長谷寺付近」と聞いただけだ。
「すべては虚言かもしれない」
中将の姫はひとり思う。
「でも、すべてが虚言であったとしても、わたくしにはなすすべがない。ここから都まで独力で、どう帰ればよいのでしょう。すべてが罠であったとしても、どう……」
ならばあの人を信用しよう――それが姫が導き出した答えだった。馬は裏手にと告げられ、即座に逃げたあの直感も、信じよう。
とはいえ不安は去らない。なお増すばかりだ。
今の我が身をふり返ると、この山里の破れ屋にただ独り。すぐ戻ると言い残したあの男は戻らない。やはり取り残され、置き去りにされたのではないか。
同じ不安に再びかられる。
歌でものして気をまぎらわせようとしばし考えたのち、朗じるが、
こもりくの泊瀬の山に照る月は
「下の句が出ないわ」
歌は、そこで止まってしまう。
「やはり、わたくしって、歌はからきしだめね」
あきらめて部屋中に視線をはわせた。
壁に立てかけてある琴には、訪れた時より気づいている。
「琴に触れれば気がまぎれるかしら」
中将の姫は立ち上がった。
壁際に寄り、琴に触れた。弦が二本ほど切れている。
「でも音は出るはず」
弦にかけてある爪を指にはめ、残る五弦を順にはじく。
軽やかな音。
これならば異存はない。姫は琴をかかえた。
「重、い」
琴ほど重いものを持ったことはなかった。
さりとて、心に決めたからにはやめたくはない。
ほこりを吸わぬよう息を止め、こわばる腕に力をこめて、板間の中央に琴をすえる。
「さあ、できた」
それだけで満足を覚え、笑顔ほころぶ姫だった。
がしかし、そもそも琴を弾いて気をまぎらわそうとはじめたこと。奏でねば運んだ意味がないことを思い出すと、ぺたりと座って指を弦にそえた。
「怖くない、怖くない。恐れも疑いも、消え失せたもう」
姫は月に、そしておのが心に祈りを捧げる。
琴は捨て置かれたものとは思えぬほど、澄んだ音を奏で出した。