第四話 蓬粥(六)
目を伏せる春時の耳に届く、童の声。
さくらさくら
その声の主を探すべく、まぶたを上げた。
行く手は乳白色の霧に包まれている。
しかし、旅の道程で見慣れた風景はここにはない。あの気の滅入るような湿気と行く手をさえぎる山々、その峰に重く垂れ込める雲はいずこへ去ったのか。草の薫りも血の臭いは。
ただ真白なる眼前の光景を――どこへ向かうかも分からず、春時は歩きはじめた。
童の声だけを頼りに、方角も定まらぬままに。
童はひとり川辺に座っていた。
黒い髪とほんのり赤い頬は、白い面にひときわ異彩を放つ。彼の足元には川が流れていて、その川は泥と岩を含んで濁り、折れた枝と河原の泥をも流していずこへと去ろうとしている。
童はそれをつまらなそうに、足をぶらりぶらりと揺らしながら眺めていた。
ふぶかぬままに ちりゆくを
にわかに風景が色づきだした。
川に沿って紅葉が並んでいる。穏やかな晩秋の光のもとならば、次から次へと競い合うように落葉した紅葉は、川面を紅に染めて流れて行く。そして、川は燃えるように咲きさかるはずだった。だが今、天は乱れている。紅葉は鋭い風にとばされ、否となく濁流へと身を投げる。すると美しい紅の色は、見る影も無く土色に染まり、やがて汚泥の中へと沈んで消えてしまう。
しかし、春時の思考は情景の妙に流されることはない。
なぜ紅葉の中で桜の歌を。まずはほんの小さな綻びを見つけ出す。
童の輪郭がはっきりと見えてきた。
歌声で春時を招いたのは、十歳に満たぬ、あどけない少女。髪を短く切り、顔は浅黒く汚れていて、粗末な衣服に身を包んでいた。
「真鷺」
春時はぐっと唾をのみ、そしてつぶやいた。
「いるはずがない。こんなところに。だから、夢まぼろしに相違ない」
女が泣いている。
振り返ると、女はすぐ近くにいた。
泣き叫び、狂ったように身もだえし、川へ飛び込もうとしている。
春時が走り寄ると、女はとびかかり彼に両手でしがみついた。そして異様な声で泣きわめき、髪をふり乱して地団駄を踏むのだ。
「わたくしの子が」女は叫んだ、「龍田の神にさらわれる、助けて、助けてください!」
「あなたの子……?」
あわれとおもえ たつたのかみかみ
すくいたまへ すくいたまへ
春時は女の手を振り払い、川へと駆けた。
すると目の前で、歌っていた童の下の土が川の流れにえぐり取られ、童は土の龍と化した濁流の中へとその姿を消してしまう。
「ああ!」
女の悲嘆が鋭く胸に突き刺さる。その一方、
――闇の、その奥から。
ほど近くから、ざああ、と流水の音が聞こえていた。
まるで大粒の雨でも降っているような音。石ころの転がる音も交じっていた。
「夢……」
うつつの世。
そういえば眠りに落ちる前もそうだった。
あれは龍田の川の音だ。童、歌、叫ぶ女、そして。
「真鷺」
何だったのか。
夢占など知る由もない春時は、それらがなにを意味するか、判じるすべもない。ただ、額から首から流れ落ちる異様なまでの汗が一層、得体の知れぬ不安をかきたてる。
「落ち着けよ」
彼は自分にいいきかせて汗を拭った。
そして周りの様子を改めて確認した。
ここは龍田神の祀堂の川下に建てられた室屋。格子窓から光がもれている。すでに外は朝を迎えていた。川と木々がせめぎあう音が耳につく。川が氾濫しているうわさを聞き付けてか、ここを仮の宿りとした旅人は、れんと春時のふたりきり。そのはずだ。
「……れん」
れんの姿はどこにも、ない。
春時の体に悪寒が走る。
「どこに消えた」
そして、新たな音。
龍田神の宮からだろうか。鐘音が響きはじめた。