第四話 蓬粥(五)
粥を食べ終わったところで、春時は寝床の準備をはじめた。
土の上にじかに薄い板が並び、その上に筵が敷いたなりになっている。寝床はこの筵だ。れんの昨晩の宿は床下のある小屋だった。さらにひどい寝床といえる。
さすがに春時も右大臣の姫には苛酷と思ったか、板を真ん中によせ集め、
「板を多く重ねれば少しはましになる」
「大丈夫ですわ」
れんは答えながら思った。
きよく親子の住まいを訪れていて良かった。かれらの住まいを目にしていなかったとしたら、今日はとんでもないところで眠らねばならない、と憂いたことだろう。
春時の心くばりも伝わってくる。頭ごなしのもの言いだから、そうとは聞こえないけれど。
「春時どの、お気遣いありがとうございます」
板を重ね終えて手をはたこうとした春時は、ふと動きを止めた。
「難波津に行くまでに体を悪くさせたら後味が悪い」
「ええ。ありがたく存じます」
れんはにこりと笑った。
それを見て、ことさら不愛想さを増した春時だった。
格子窓からのぞくのは闇。すでに外は夜のとばりを開いている。川の音は滔々と響きつづけていた。
恐怖こそおぼえぬものの、安心もできない。
れんは笑顔を崩し、うつむき加減の顔に悲しみを宿らせる。
「まだ、誰なのか分かりません」
あれから声は聞こえない。
だが思い起こせば、耳の中にその悲鳴は鮮明によみがえる。やはり声の主は分からない。ぴんとくるものもない。やはり知っている人ではないようだ。
ではなぜ、れんにだけ呼びかけるのだろう。
理由を知るためにはやはり、救いを求める声の主をさがし出すしかない。とはいえ今はその手立てどころか、きっかけすら見いだせない。
「困りました。このまま分からないのでは」
「あせることはないだろう」
春時はれんに背中を向け、かまどの炭を拾い入れながら答えた。
「あせります。助けを呼んでいるのですから」
「だれも行き交わないこのあたりで」
れんは訴えるように春時の背を見つめる。
「だからこそ、助けを欲しているのではないのでしょうか」
「正論だな」
「あれはきっと、幻ではありません」
「助けを呼ぶ者がいないと思ってない」
「でしたら、わたくしたちしか」
すっくと春時は立ち上がり、れんを見下ろした。
「足元も見えぬ中をさがし回るのか」
「それは」
れんはうつむいて口ごもる。
「今できることは休んで旅の疲れをとることだ」
「わたくし、それほど疲れてはおりません」
「居眠りして落馬しかけておいて」
れんは、ほおを真っ赤に染めた。
「わたくしは、馬に乗るのは、慣れていません、ですから」
「ここもいつ流されるか分かったものじゃないから、しっかり眠るわけにもいかないが」
春時はれんの弁解を聞き流した。
「春時どのは、意地が悪いです」
「危険を避けるべく考えをめぐらせているだけだが、なにが意地が悪いって」
「分かりました。もう眠ります」
れんはほおをふくらませ、すねたように言った。そして顔をつんと背けると、春時を背にして体を横たえた。
しかし――床に伏したはいいが、眠れなかった。
どうしてこう思う通りにゆかないのだろう。つらつらと考えていた。
(たしかにこんな夜中にわたくし一人で歩くのは無理だわ)
ついて来てもらわないと。もし頼む相手が春時ではなく、邸のだれかだったら。怖がる? いや、怖がるどころではない。夜闇の中、しかも氾濫する川辺、危なすぎる。だれがついて来てくれるだろうか。
そもそもこの室堂に来るだけでも無茶だった。室堂には他にだれもいない。万人にも危険だから、人がいないのだろう。その危険をあえて春時はおかしたのだ。れんの我がままのために――れんはそう考えると、自らの思慮のなさにあらためて落胆した。
なにも一人で歩けないのは夜中だけに限らない。陽光の下であれ、れんは方角を定めて歩くことすらできない。歩くだけでなく、どこかへ行くのも、食べるのも、眠る場所を用意するのも。万事に春時の手助けがなければ、なにもできない……。
それと、きよくについて行ったこと。頭ごなしに怒ることないのに、と思ったが無理もない。春時は出て行く前に忠告したはずだから、怒るのは当然のことだ。
迷惑ばかりかけている。
でも――ただ迷惑だけで終わりたくない。せっかくここまで来たのだ。
言い訳のようでも、話は聞いてほしい。
「春時どの」
春時はため息まじりに答えた。
「まだ寝てないのか」
自分こそ寝ていないのに、と少しすねる気持ちをおさえる。
「あの……春時どのは、猪を食べますか」
「猪を」
「はい。猪を」
「食べるが、それが?」
れんはうれしくなった。
「あの、実は、昨晩、猪をご相伴にあずかったのです。獣の肉を食べたのは、生まれて初めてでした。少し恐ろしかったけど、おいしかった」
春時のことばを少し待ったが、無言だった。
れんは続けて語った。
「だから……だからわたくし、お礼に美濃に行こう、と思いました。あのおばばさまの生まれ故郷で、いま一度、観音さまを拝したいとおっしゃっていました。あ、そのおばばさまが、わたくしに猪をご馳走してくださったんです。なにも聞かれませんでした。なにもわたくしのこと聞かないで、でも良くしてくれて。だから代わりに美濃へ、そう思って。
わたくしにできるのは、そんなことくらいですから」
春時がようやく、ぽつりと答えた。
「それで美濃に」
「はい」
しばらくお互いに沈黙を守る。
遠くで、ぱしゃあん、と水音がこだまする。川に大きなものが落ちたのかもしれない。
「いずれ機会はある。家に戻り着いたら全て望むがままじゃないか」
望むがまま。
果たしてそうだろうか。少なくとも二度と猪を食べることはない。あたたかな蓬粥だって。
「そうですね」
れんは筵をつかんでその身を包みなおす。
望むが、まま……そう声にせずつぶやくと、ふさいだ目尻から涙がひとすじ、こぼれ落ちた。