第四話 蓬粥(三)
「ああだめだよ、この先は。龍田の川が氾濫している」
「あれしきの雨で、ですか」
春時が首をひねった。
春時と同じく馬を曳いている壮年の男は、春時たちが向かおうとしている坂道を下って戻ってきたところだった。彼の馬の背には粗朶がのせてあり、粗朶の束にくくりつけた竹籠の中身は、まったく空っぽ。なんの仕事も果たさず帰ってきた、というところか。
「あれしきの雨でこんな具合だから、みな頭を悩ませているのだよ」
龍田の川の流れは川岸を削り、川がかき集めた泥の固まりが倒木を押し流している。轟々と音を立て、人が近づくことを許さない。近寄ろうとした祈祷の僧をも数人のみこんだらしいし、この前はどこそこの大連が濁流に流されたとか。川下の集落は農作物も水びだしでだめになり、自分たちが食う分はおろか、今年払う租の分さえ残っていない。里の者は飢え死にも覚悟し、悲嘆に暮れているとか。
そんなことを男は語って聞かせた。
「なにしろ龍田川が使えねば難波津への行き交いもままならない。困ったものだよ」
「回り道はないのですか」
「回り道を使って峠を越えたところで、龍田の川ぞいは避けられん。無理だな。泊まろうにもこの山中のどの室屋もひどいものさ」
「龍田の神をまつる社殿の手前、あそこの室屋もですか。一段高いところにあったはずですが」
「あれはまだ無事だったが、分かったものではないぞ」
春時はちらりと、あおの背に眠るれんを見た。
「きょうはもうすぐ夕暮れだ、山を降りて、平群で宿を借りなさい」
「相談してみます」
「悪いことはいわない、無理はせんほうがいい」
春時が礼を述べると、男は念押ししてから坂を下っていった。
龍田川沿いを通れないなら、斑鳩からひたすら北、生駒の山より北までゆくか、もしくは忍坂へ戻り南へ向かい、河内の方から。いずれにせよ難波津へ行くにはあまりに遠回りすぎる。
曇天で日陰もなく、時刻が解りづらいが、男が言い残した通り、夕闇がせまっているのは確かだった。はやく今夜の宿りを決めねばなるまい。
「れん、起きろ」
「はると……」
れんが、ふらり、と態勢を崩して落馬しかける。
横からさっと春時が支えた。そして、あおにうつ伏せにしがみつかせた。
れんはまだ、ねぼけまなこだ。
「平群へ戻る」
れんはふっと、目を開いて背を伸ばした。
「平群、平群ですって」
「この先は行けないようだ。一度出直す」
れんは目を丸くして、頭を横に何度も振りつづけた。
だが、春時はあおの方向を逆にして、坂を下りる方向へと向けようと手綱を曳いている。
主人に従い小刻みに方向を変えるあおのたてがみを、れんは必死で引っ張った。あおは勘弁してくれ、と訴えるように「ふるる」と鼻を鳴らした。
「やめて、困ります」
「そっちこそやめろ」春時は鋭く言った、「困っているのはあおの方だ、どうしろと」
「夢を見たのです」
れんは思いつめた目で、春時を見た。
「川をなだめ、彼を救えと、わたくしに告げるのです。幾度も、悲しそうに」
「だれが」
「それは」
「知り合いなのか」
れんはしばらく放心したようになった。ぶつぶつと「だれ、だれかしら、うかがうの忘れてた」と唱えている。誰が告げたのか、そんなことは全く問題にしていなかったようだ。
春時は軽くため息をついた。
「義理のない相手なら取り合うことはないだろう。それよりもう日が暮れる。このあたりは狼が出るから、宿を得ないと命が」
そこで春時は口を閉ざした。
れんはまぶたを伏せていた。春時の言い分など全く聞いていなかったろう。春時が「れん」と呼びかけると、れんはゆっくりとまぶたを上げ、どこを見るともなく宙に目をやって、ため息をついた。
「わからない、どなただったのでしょう」
春時は再び息をつく。まったく……この姫は。
「その夢は山に登りはじめてからか」
「えっ」
「里で昼をとる前にその夢を見たのかどうかだよ」
「里を発つ前は、なかった、はずです」
春時はうつむいて考える。
「――今度は俺が譲る番かな」
「ゆずる?」
「れんは巡礼だかなんだかに行きかったがやめた。俺は山を降りたいがやめる。これで、おあいこだろ」
れんはじっと春時の顔を見つめた。
春時がばつが悪そうに微笑をし、
「龍田神の室屋で休む」
坂を上る方角へ、あおを向け直した。
「夢の主とやらを探すには山の中にいる方がよさそうだし」
「春時どの!」
れんは飛び上がるほど喜び、また落馬寸前を助けられた。
現在、平群は「へぐり」と読みます。文中のルビは万葉かなの読みにあわせてみました。