第四話 蓬粥(二)
ぶるぶる、といきり立ち、馬が鼻を鳴らしている。
「まあ!」
れんは思わず声を上げた。
「まあ、お帰り、あお」
「あお?」
馬の陰からひょっこりと顔がのぞき、れんは驚いた。
「ああ、びっくりしました。春時どのですか」
今まで馬に隠れて見えなかったのだ。
春時はけげんそうな顔をしていた。
「ご無事でお帰りになったのですね。春時どの」
「この馬はあお、というのか」
「この子の名前です」
右大臣家の厩から家人に黙って拝借し(要は「盗み」)、右大臣邸から泊瀬、この里までの往復を連れ回った、この若い葦毛。名を「あお」というらしい。右大臣の姫が馬の名を知っているとは驚きだ。もしかすると「あお」は名を持つ駿馬なのか、いや、そうだろう、それだけの働きをこいつはしたんだからな――数日をともに過ごした春時は「あお」に対しかなり感傷的になっていたらしい。たてがみをなでて独り言じみたことを言う。
「頑張ってくれた。都の行帰り、品物の始末、いろいろと出来たのはこいつのお陰だな。よく休ませてやらないと」
(春時どの、人でも違ったよう)
彼の饒舌ぶりに、れんは「頑張った」ということばの重みを感じた。
「そんなに、大変でしたのね」
「この馬、あお、という名だったのか」
「今、わたくしが名付けました。良い名でしょう?」
春時は水をやる手を止めた。それは一瞬のことだったが、やがてまったく疲れきったように長く、ため息をついた。
「春時どのはお疲れですわね」
「まあね……」
春時はぞんざいに答え、小屋に荷を入れて整え直した。
つづらの中には小さな袋が十ほどあり、あしぎぬ数本はかなり質のよいものだ。高価なものを少量持ち歩き、道々で普段使いの品や食料に替え、暮らすつもりだった。
春時は、置いていった干飯がまだふたつ残っているのを見てとった。
余分に置いて去ったはず。ふつうであれば残るのはひとつだけ、のはず。
「食を抜いたのか」
「えっ」
れんは虚をつかれて答えあぐねた。
春時が厳しい目を向ける。
「人と会ったのか」
(なんと勘のいい人でしょう)
驚きつつ、れんは正直に話した。
「夕餉を馳走になりました。あの方たち、よい方たちでしたので」
「あなたにはよい方に見えただろうが、だましたり偽ったりするのは難しくない。まして」
春時は言いよどみ、
「などと今さら、しかたないことか」
と言葉を切った。
だが、れんの頭の中でせりふが続いていた。きっと春時はこう言いかけたに違いない。
おまえは世間知らずだ、分かるわけがない、と。
心にちくりととげが刺さる。
(たしかに、わたくしはものを知らないわ)
髪を切るくらいで猪を食べるくらいでおろおろと情けなく悩んだりした。食う元手のことを聞かされ、きよくたちの暮らしを見たあとは、なにも知らないのだと実感した。
それでも――分かることはある。
世の中にはたくさんの人がいる。食うために大臣の姫をさらう者もいれば、どこの者とも知れないのに親切な人もいる。それはものを知らなくても知っている。家を出てから知ったことだ。
(なにも聞きもせず、親切にしてくれる人が、いたのです)
それはまぎれもない事実。
この目で見た、全身で感じた事実。
れんは自らにいい聞かせるように言いかえした。
「あの方たちはよい方でしたわ」
あきれたといわんばかりに、春時は首をふった。
れんは腹立たしくてならかった。春時と目をあわせないよう馬に寄りそい、たてがみを優しくなでた。
「あお、あお。おまえはわたくしの話、聞いてくれるわね」
あおは、れんに応えるように鼻をすりよせる。
「よしよし、いい子ね」
れんはしつこい程に首をなでた。
「春時どの、短い間でしたが世話になりました。わたくし、巡礼の旅に出ます」
「は? 巡礼? なにを言っ……」
春時は口にしかけた愚痴をとどめ、れんに向き直って問いかけた。
「いや、巡礼とはいったい、どこへ」
そんな彼を見ないように前を見、れんは声高らかに宣言した。
「美濃の国!」