第三話 散華(八)
十中八九、疑われよう。持参したのは瀬雲の首と――照日御前は聡い女だ。
瀬雲のことを隠すわけにもいかない。物忌みに障るからだ。
命ぜられた通りにすればよかった。「山中に遺棄して戻った」と言えば、それで照日御前の望みを果たせた。なのに首を用意して虚偽を告げ、それがよけいな疑いを招く種となろうとは。
いや、後悔ばかりしている場合ではない、と春時は思案する。
行動は一刻を争う。照日御前が嗅ぎつけ追っ手をはなつ前に、春時はれんの身柄を確保し逃げおおせねばならない。
「ともかく早々に失礼致します」
礼もそこそこに立ち去ろうとする春時を、堅虫はとどめた。
「しばらく」
彼は机に向かうと木簡を手にし、筆を走らせた。
「この簡を持って姫さまをお連れになり、難波津へ」
「難波津」
「右大臣さまとなれば、かつての宮都には別邸がございます」
「つい先ごろまで、大臣ご自身は太宰府へ下らずお過ごしになられていたとか」
「左様です。その難波の別邸の司は我れの知己で、姫さまの御生母であらせられる紫さまにお仕えした者の縁者。姫さまをかくまってくれるに相違ありません。
そして我れよりは時宜をみて右大臣さまに事の次第を申し上げ、姫さまが晴れて都へとお戻りになれるよき折りをはかろうと思います」
春時はまたも自分の浅慮に愕然とした。
襲いかかる魔手から逃れるのは喫緊の回避策で、あくまで当面の話。それが堅虫の思案だ。中将の姫が家を逃れるのは不自然で、邸で暮らせるよう尽力するほうが自然なのだ。なぜなら中将の姫は前の右大臣の姫なのだから――家司である堅虫からすれば至極当然の考えだった。しかし春時は、逃れ続けることしか考えなかった。
春時は瀬雲の眠る姿に目をやる。
穏やかな顔で、悲壮な陰りはどこにもない。恐れもせず動じもせず、おのが身の最期を受け入れたのだろう。
そして堅虫。彼は認めたくない事実を受け入れ、別人のごとくやつれはしたが、判断力は衰えていない。
(それに引きかえ、前後なく浮き足立った自分は)
なんて未熟な、とおのれを責めたい。が、責めている時でもない。
「僭越な申しようかもしれませんが」
春時は顔を上げた。
「この堅虫、右公様のご悲嘆が今ようやく身にしみて分かりました。瀬雲を失って初めて……ですから、姫さまには瀬雲の分まで、お幸せであっていただきたい」
堅虫は力をこめて言った。
「貴殿にお任せいたします。貴殿の元にあらば姫さまはご無事でいられる。信じております」
声が震えていた。春時にも無理しているのが分かる。
春時も無理に力をこめ、
「承知」
そう言った。
――夕刻。
日は陰り、風が強い。
春時は都を発つ乗馬の背で肩を狭め、片手でつよく衣服の胸元をつかむ。
堅虫のことば――「信じる」ということば。
それは、思いもかけないほど大きい不安を春時に与えた。
(どうして俺を信じようとなど)
春時は苦しさに耐えかね、丘に至って馬をとどめた。
すすき原の向こうに都を望む。
日が昏くなり、風がさらに吹きすさぶ。晴天なら立ちのぼる炊ぎの煙は厚い雲で見えず、また風でかき消えた。枯れすすきがあおられ、はげしく揺れ動く。
早く都を離れよ、と心は急いている。
しかし春時は、まだ馬の背にあって遠方を眺め、胸をつかんでいた。
継母が憎悪に身をゆだね幾度も殺そうとし、一方では瀬雲という家司のむすめが身を呈する。双方向に両極端な感情を抱かせ、春時に畏怖の念を起こさせた、十五歳の中将の姫。その中将の姫を自分に任せれば、無事でいられる、信じられるという――なぜ彼は明言したのか、自分にはきっと力不足だろう、ましてや自分の未熟さに気づかされたすぐ後なのだから。
重い荷を背負わされた。そんな息苦しさを春時は覚える。
それでも彼は、自らに言い聞かせるように低くつぶやく。
「決して無駄にしやしない」
枯れすすきがつぶやきを受け入れるや、彼らは再び、夕陽の中を疾駆した。