第三話 散華(七)
堅虫は自らの上衣をむすめにかけた。
涙にまぶたを濡らすことを、おのれに禁じた。
平城京は霜月ともなれば真昼も冷える。火櫃の中には冷たくなった炭の燃えかすだけが残っている。堅虫はそれと知らず、ごく自然に指先をかざした。炭は燃えていず、指先を暖めるものもない、指先は堅くかじかんだままだった――ああ、炭がないのだ。しばらくして気づき、長い袖に腕をからませた。
春時が足音も立てず堅虫の寝所に忍び入る。冷たい指をさすりつづけている堅虫は、春時に気づかないままだった。
「堅虫どの」
堅虫がわずかに顔を上げた。
春時はなによりも先に、広げられた堅虫の上衣に目をやった。
「我がむすめ、瀬雲です」
唐突に堅虫が告げた。
その刹那、刑場の光景が春時の脳裏をよぎった。木の陰に隠れていた肉塊。青白い脚や、黒くくすんだ面、幾重もの筋が竹の枝で刻まれた体、横線と模様を入墨した腕――不吉な想像をすぐさま否定して頭から追いやった。
「看取ってやってはくれませんか」
堅虫の顔に日がさすと、春時は軽い衝撃を受けた。
堅虫の顔は急に老いたかのよう。白っぽく乾き、目の下がふくらみ、肩を落として小さく縮んでいた。昨晩の颯爽とした精気や意力がまぼろしのように残らず消え失せてしまっている。
春時はすすめにしたがい上衣を取った。
きっとそこには受け容れ難い事実があると分かっていながら、正面から受け止めるために。
ああ、と嘆息が漏れる。
「瀬雲どの。どうして」
「聞いていただけますか」
春時はただうなずいた。堅虫はうなずき返すと、あなたが去った後のことです、と思いつめた口ぶりで話しはじめた。
「むすめは私にかく申しました。『私の首を差し出して下さい』」
堅虫の切り出しに、すでに春時は気圧されていた。
堅虫は紫色の唇をなめると、続けて語った――瀬雲は中将内侍さまと同じ年で、同じ背格好です。お顔も恐れながら、似ております。瀬雲の首を持参すれば御前様も信用するでしょう。
死ぬというのか、と当然のことを問う父親に、瀬雲はかぶりを振った。
「姫さまの妙薬のおかげでいのち永らえていたこの身です。中将内侍さまがいらっしゃらねば病で先は長くありません。ほんのすこし、時期が早くなるだけのこと」
瀬雲の青白い顔はますます青くなった。しかしその唇には強い意志が、まなじりには固い決意が見える。堅虫は弁をつくして翻意を説いてみたが、瀬雲は肯首しようとしない。刻を重ねたすえ、どう説きふせようとも決意をくつがえすことはない、とみた堅虫はこれ以上、なにも口出しはできなかった。
「姫さまよりいただいた薬」瀬雲は笹の葉の包みを広げて話す、「多くを服せば体内の臓腑に力がかかり死に至る、朝夕にひとつまみずつ分けるようにと、姫さまはおおせでした」
その笹葉に乗せた白い粉末を、瀬雲は一気に口に入れた。
ささやきを春時は聞いた気がした。
いや、まさにささやきは確かに届いた。それは春時を心の底からふるえさせた。
「この首を、あのかたに……」
瀬雲の顔は静かにすべてを待つようだった。
その永遠に向かって眠る姿は、服用後に背中から転倒し、喀血して息絶えたという壮絶さを認めることができない。
春時は、荘厳とさえ感じる彼女のなきがらより目をそらせずにいた。
この親子に不幸をもたらしたのは、自分なのか。
春時の血にまみれた手と、研ぐほどに使いこまれ鋭い光をはなつ刀は、これまで幾つもの命を奪ってきたが、今回は罪業深い二つのものは使ってはいない。にもかかわらず――どうしてだろう、より深い後悔にさいなまれる。春時はひざの上で拳を握りしめる。
「私が参上したばかりに」
堅虫は首をふった。
「かように申されては、我らは救われません」
「しかし」
春時が苦渋に満ちた顔でつぶやいた。
「手をうった後なのです。替え玉の首を御前に……」
堅虫の目が大きく見ひらかれた。
「よもやその首、疑われはしまいか」
春時は顔をゆがめ、そしてさらなる後悔の念にうちのめされた。