第一話 琴韻(二)
中将の姫の瞳から、涙があふれてはこぼれ落ちた。
続けてくしゃみと咳。何度もくり返しせきこんでは、むせている。ひとつ足を進めるごとに、ちりやほこりが舞い上がり、中将の姫の袴にまとわりつく。
男は黙って座っていたが、その黒装束も白くなっていた。
中将の姫もほこりを払うことを止め、そのまま座りこんだ。
ここは破れ屋である。かつては貴人の屋形であったのだろうか、ほこりにまみれながらも、床几、几帳……調度はほとんどが品のよいものだった。しかし今は訪れる者もないのか、柱の脇には琴が、静かに眠りについている。かつての主の帰りを待つこの廃屋は、ひたすら朽ち果てる日を待ち続けているようだった。
「ここは、どこですか」
中将の姫が問うや、あわてて袖で口元をおさえた。
男が答える。
「長谷寺付近」
「長谷寺。では、十二面の観音様がお近くに」
中将の姫が上身を浮かせると、ほこりが舞い上がる。はっと気づいた姫は両手で口をふさぎ直すが、間に合わなかった。またしても姫はくしゃみに苦しみだした。
「けふ、けふ……わたくしって愚か……」
あらためて袖で口元を覆いなおし、肩をすくめた中将の姫は、男の様子をちらりと見やった。男は声をくぐらせ笑っている。
「……観音菩薩は」
姫は不安げな目を伏せて、ゆっくりとした口調で語る。
「観音菩薩はわたくしの守護仏なのです。
母は長らく子に恵まれませんでしたので、長谷寺に百日参籠して祈願しました。その百日目の夜更けのこと、夢に十二の顔をお持ちの観音菩薩が現れて、子を授けると母に約したそうです。
そうして生まれたのがわたくしであると」
姫の手の中でなにかが光った。
小さな黒石をつないだ数珠。
姫はそれに頼るように力をこめ、かたく握りしめた。
一息つき、姫は続けた。
「わたくしはそう、幼きころより教えられてまいりました。それで観音菩薩を守護仏と定めたのですが、命を与えたもうたこの地に向かって毎朝、手を合わせて経典を繰り、感謝の意を表してまいったのです。
それが今、黒衣どのに連れられて観音菩薩のひざ元にいます。この奇縁に、わたくし感謝いたしております」
ひとしきり話してなにかふっ切れたのだろう。
姫はしっかりした視線を男に向けた。
「あなたは、わたくしの命を断つおつもりでしたのに」
刹那、男の瞳に険しい色がうかぶ。中将の姫はそれを見てとったが、のどかな口調を変えずに続けた。
「父上の命令に背いて、いかになさいます」
壊れた軒から月がのぞいている。白い光が男に降りそそいだ。
彼はまぶたを薄く上げて沈思していた。なにか自問自答をくり返し、思い悩んでいるようでもある。
その心境を中将の姫が推し量れるでもない。姫はただ沈黙を守っていた。
月光の中、ちらちらと舞うほこりは粉雪のごとく星のごとく、瞬くさまが美しい。夜闇の静寂の中、姫はいつしか灰燼の舞いに見とれていた。
やがて男は中将の姫へと目を向け、口元を覆う布をはぎ取った。
姫は動きを敏感に感じとり、彼に意識を向ける。
両者、目があった。お互いの心底を探りあうように。
姫は緊張に体をこわばらせた。対する男は少し口元を歪めると、静かに話しはじめた。