第三話 散華(一)
横佩大臣が家の家司・堅虫の律義ぶりはつとに有名であった。
筒形に巻いた漢籍を入れ、積み上げた箱を背にし、謹厳そのものという顔で端座している。夜というのに衣乱れはなく、襲ねの色目さえ気遣っていた。応対する相手が、たとえ出自も知れぬ若者であったにせよ、だ。
「姫はご無事です」
夜半、春時は堅虫のもとに訪れ、ことの次第を告げた。照日御前に姫の身柄の遺棄を依頼されたこと。姫は無事であること。そして、れんから預かった上衣のあしぎぬの端切れ、切り落とした髪の束を示し、その身は無事でありこれらの品も姫の了承の上の持参、とつけ加える。
「これぞまさに証し。姫はいずこに」
「陰謀の正体をつかみ姫の安全が確保できるまでは、居場所は明かせません」
「そなた自身がかの御方の手先ではないとの証座は」
「証せねば、姫を救う手だては講ぜぬ、とでも」
堅虫がはじめて顔を曇らせた。
さらに春時は冷淡に言いはなつ。
「これを偽りとみるかは貴殿のご器量次第」
「そこまで申すなら了解するしかあるまい」
堅虫の声は平静なままである。
「ならば卒爾ながら尋ねたい。これよりいかにする所存であるか。私はなにをすれば良いのであろうか」
「私は姫を始末したと伝え、かくして油断を誘います。その間に貴殿には、女狐の悪事の尻尾でも見えぬか否か見張っていただきたい。大臣どのの耳に入る中将の姫にかかわる悪口雑言も、気づかれぬようにうち消すように努められたい」
「かの御方は疑り深い。ことばのみでは信用すまい。錦や髪だけでも不足とみゆるが、いかがであろう」
「おおせの通り」
春時が眉をよせた。
堅虫もまた、顔を歪める。
沈黙が続くなか、堅虫は目の前の若者をじっと見すえた。
彼の心を占めていたのは、今後の策よりも春時という男だった。
いや、もっといえば――惚れこんだのだのかも知れない。
貴殿の器量次第、とせまられたときには「この若造が」と思う一方、堂に入ったもの言いに納得させられた。それに加えて人品卑しからざる凛々しくも端正な面立ち。身分を隠したいずこの子弟ではなかろうか、とさえ思う。
さらには「照日御前は信用せぬ」とつっぱねると、彼は率直にみずからの策の欠点を認めた。若者にはありがちな、賢明さをことさら誇ろうとするがゆえの危うさもなく、思慮深い。切れ者だ。
「堅虫どの」
春時がようやく口を開くと、堅虫は眉をあげた。
しかし春時はことばを継がず、逡巡する。
そのときだった。几帳のむこうより、
「父上」
と呼ぶ、か細い声が届いた。
「父上、お話が」
「なんだ瀬雲、客人がいるのだ。あとにしなさい」
「……あの」
少女の声だ。ひどくふるえた声だった。
春時が一礼して堅虫に告げた。
「私にはおかまいなく」
「いいえ」
堅虫は憤激し声を荒らげた。
「どういうことだ、人払いしてよせつけるなと申しつけたはず」
「でも……」
少女は明らかにおびえていた。
しかしその声、春時にはなにか切羽つまった色も帯びているように思え、
「……では、私はひとまず退出いたします」
「待たれ、しばらく」
春時は几帳に向かい呼び止めた。
「今は一大事、わがむすめになどかまう時では」
「いえ、何か。どうぞお話を」
春時は座を立ち、几帳に歩みよった。
几帳のかげには白い寝衣に朽葉色の衣を羽織った少女が小さく座っていた。
「お邪魔いたしました」
春時のあいさつに瀬雲は顔を上げた。
ひどく顔が青白い。手もふるえていた。
(病持ち、か)
油皿の炎に照らされた瞳は、今にも涙をこぼしそうなほど潤んでいた。泣いているのか、それとも熱に侵されているのだろうか。瘧を起こして寒気がし、ふるえているのかも知れぬ。そんな身体をおして話があるという。よほどのことに違いない。
(れんは無事だろうか)
村の小屋に残してきた中将の姫を、ふと思いおこす。
姫は狙われている。それにあの姫を一人にしておくと、なにが起こるか分かったものではない。できるだけ早く帰らねば。
「堅虫どの」
ふり返って春時は言った。
「少し思案してまいります。つきましては、堅虫どのにお願いが」