第二話 落飾(五)
れんはまずしみず、つまり井戸から水をくんだ。
水を満たした桶は重かった。昨晩の琴など比べ物にならない。
しかも、くんだまではいいが疲れきってしまった。小屋へ運ぶことはあきらめ、その場にしゃがみこんで手ですくい飲んだ。といっても全て飲みきれず、井戸に水を戻したほうがいいのかどうか迷ったあげく、少しずつ周囲にまいた。
「今度からは、手間でも飲む分だけくみましょう」
今回学んだ教訓である。
それから小屋から離れ野に出た。食するための草をつむためだ。
「これはどうかしら」
しゃがみこみ、目の前の背丈の低い草に手をのばしたそのとき。
「食えねえよ。腹こわすよ」
どこからか声がした。
顔を上げ、あわてて周囲を探るものの、人はいない。
すると、また声がかかる。
「ここだよ」
自分のひざ元だ。れんは目を丸くした。
そして、見下ろした地面に声をかける。
「あなたなの」
「そうさね」
間違いない。声の主は、れんがつもうとした草だった。
すると右手からまたしても声がかかる。
「私なら食べてもいいよ。どうぞお取り」
ひと回り大きく育った草が、淡く小さな花を揺らしていた。
「あなたは」
「蓬。ゆでたら美味しいわよ」
れんは少し考えた。
「あなたが蓬だというのは承知しておりますが」
なぜ話せるのか尋ねたかったのだが。
(まあ、いいわ)
れんは思い直す。
昨夜までの緊迫した事態に比べたら、頭を悩ますほどでもない。
れんはのんきにそう考えた。
「蓬といえば」
れんは記憶を探った。
「煮出した汁は化膿止めになるし、消化にもいいし、お通じの悪い時には煎じて飲んだらいいし。乾かしておけば灸治にだって使えるし。いくらかお薬をつくっておこうかしら」
つくって……。
れんは思い悩む。
「だめだわ」
「どうして」
「だって、あなたをつんだら、なんだかかわいそう」
「かわいそうでもなんでもないわ。根さえ抜かねば、また伸びるもの」
「そうだよ。伸びるんだしさ」
ほかの草も横からすすめる。
普段、薬を煎じるのに草をすりつぶしている。
なのにいまさら「かわいそう」だなんて、変な話だとれんは思う。
でも、今はいつになく後ろめたい。
(お話してしまうとなんだか。ふしぎというか、困ったものね)
他の命のかけらをつむのは、健やかであるため。これまでも気づかずに命をもらい、健やかに過ごしてきたのだと思うと、れんはなんだか申し訳なく感じた。
「では、つみますね」
と断わって茎に白い指をのばした。
引きちぎる音がかすかにだが、耳に残った。蓬が「痛い」と小さく泣いたような気がする。
蓬も摘まれればその身を断ち切られ、痛さに泣くのでは。
「ごめんなさい、ありがとう」
蓬は返事をしなかった。
そんなれんの姿を、野辺の路から見つめる者がいた。
竹籠を背負った女だった。頭を布で覆いながら髪はほつれ、すりきれた袖からのぞく色の濃い腕は、泥が白くこびりついていた。
「どこかの貴きお方じゃろうか」
それにしては供もつけずにひとり。女は、何度か貴人が山を越えた寺社に参詣するようすを眺めたことがあるが、かならず目を見張るようにきらびやかな行列で、しかも車や馬を連ねていたものだった。このようにひとりで座っていようはずがない。
なにより、玉のように可憐な顔立ちの少女が草と語らうようすは尋常ではない。人ならぬ身であるならば天神地祇の類いか。
「もしや、天女が」
れんは立ち上がると視線に気づいた。
しまった、と思った。
女はふらふらとひきつけられるように近づいてくる。
「もしやあなたさまは」
れんは身をこわばらせた。
(どうしよう。逃げる、小屋の中へ逃げれば)
「もしや、天女さまではございませんか」
「……はい?」
れんはあっけに取られた。
「とんでもございません、わたくしが、天女さまだなんて」
と、細かく首を振ったそのときである。
ぐうう……。
と腹の虫が大きく鳴いた。