第二話 落飾(四)
(なにを今ごろ恐れているの)
右手の震えを左手で抑え、唇をかみ、無言で自らに言い聞かせる。
(わたくしは今、きちんとここにいて、息を吸い、吐き、つまらぬことに思いをいたし、今のありようを迷っている。
わたくしは今、助かっているのよ。あのお方はわたくしを助けてくれたのよ。なにも恐れることなどないはしないわ)
落ち着きなさい、と声に出さずに命じた。
掌中の数珠を揺らしてみる。
かち、かち、と石がぶつかる。
そのわずかな音だけに耳を傾ける。
やがて――自分の吐息に気づくと我にかえる。れんはてのひらを広げ、数珠を眺めた。からだの震えは知らないうちにおさまっていた。
軽いため息をつき、ふたたび思慮を重ねてゆく。
「そうだわ、はじめにわたくしが襲われたときのことだわ。わたくしが、春時どのの刀をかわせるはずがない。春時どのの気配に、眠っていたわたくしが気づくのも不自然なこと。あれだけの人だもの、何人も敵に回して切り抜けられる、そんなお方だもの。気配を絶つことだって、実は造作なかったのでは」
れんは手をきゅっと握り立ち上がった。
顔を下げたまま手を口元にあて、ぐるぐると土間を歩き回りはじめた。
「こうは考えられないかしら……春時どのはわたくしを観察する時間を得ようとした。この眠れる女は本当に横佩大臣の郎女、三位中将内侍であろうか。この邸よりつれ出すべき女であろうか。いざいざ、見極めん!」
そして、れんはぴたりと動きを止めた。
「ええ、これなら、きちんと説明がつきますね」
自分の推理に満足したのか、ほおがほころぶ。
「なんにしたって、怖がっているだけでは始まらないわ」
れんはそう自分に言い聞かせると、顔をひきしめ直し、腹に力をいれた。
きゅるる……。
おなかが鳴った。
「いろいろ考えたら、おなかが減ったみたい」
さっそく干し飯のお出ましらしい。
水を用意せねばならない。器は、春時が置いていった一式にある。
「水は筒にあるけど」
外にもある。
「水はかならず要りますものね。筒の水は夜に置いておくとして今は。裏にたしか、しみずがあったわ。明るいうちはあの水を飲みましょう。夜に出歩きたくはありませんもの。
ほらほら、やっぱり、春時どののおっしゃる通り、ここで、静かに、じいーっと、なんてしていられるわけないわ」
れんは喜々として独り言を述べては楽しんでいた。
すでに静かに、じいーっと、などこれっぽっちもしてはいない。
「そうだわ。外には干し飯のほかにも食せるものがたくさん、あるのじゃないかしら。草とか、草とか、草とか」
草の名がとっさに思いつかないが、自信たっぷりだ。
その自信の根拠は、彼女なりに確固としたものがある。
ものごころついたときから、母・紫御前は病の床にあった。幼いれんは医師の薫陶を受け、母に薬湯を煎じていたのだ。
「身分の低い者のすることですよ」
と諭されても、れんはかたくなに煎じつづけた。
父も困った顔で小さな姫に理由をただしたものだ。
「どうしていうことを聞きわけないのだね」
れんはうまく説明できなかった。
どうしてもやらなければと、つよく信じていた。
最後にはみな、あきらめてくれた。薬湯より祈祷を信じていたし、姫が涙に袖をぬらし続けるよりはいいと思ったのだ。
わがままを通した理由、いまのれんは分かっている。
(母上がわたくしを授かったとき、夢で観音さまが『子を授ける代わりに母上のお命をお縮め申しあげる』とお告げになった。母上のお苦しみはわたくしのせい。だから、みずからの手で母上をお救いしてさし上げたかったのだわ)
あどけない姫だというのに、れんは懸命に学んだ。
最初は薬師の言う通りにしかできなかったが、しだいに自らの判断も交えることもできるようになった。さらに興味が深まると唐土の薬書『新修本草』もひもといた。身近にいる家司のむすめにも処方したことだってある。
「食せるものも、お薬になるものも、きっとあるに違いないわ」
ない状況などいっさい考えていないらしく、
「どんなものがあるかしら、楽しみだわ」
と、期待いっぱいで外に出てゆくれんだった。