第二話 落飾(二)
「一時、都へ戻る」
春時は旅装を解かず、せわしなく荷物を床に置き直している。
手伝おうとしてかえって邪魔者扱いされたれんは、ちょこんと床に座っていた。
「わたくしは」
「ここで隠れていてもらいたい」
春時は包みをれんの前にすえた。
「入り口のかめには十分な水がある、この包みは干し飯が入っている」
「はい」
「干し飯の食べ方は」
「存じています」
「二、三日で戻るから、これを食してここでじっと静かにしているように」
「はい」
春時がれんに命じるさまは自称「右大臣家の門番」に似合わぬ居丈高さだ。
「我慢いただかねばならないことが」
「なんでしょうか」
「髪を頂戴したい。それもかなりの量を。童子頭になるくらいに」
れんは反射的に頭に手をやった。
まげを解くと腰まである、黒く染め抜いた絹のごとく艶のある髪。それを隠そうというのだろう。当然、隠せるわけがない。
れんはひどく動揺していた。
無理もない。髪を切る――「落飾」は出家し尼となること、切った時から世を捨てたと同じことだ。とはいえ、今のれんの境遇は世捨て人そのものだが――とにかく横佩大臣の姫、三位中将内侍にとっては恥ずかしくて、とても人前に出られる姿ではない。動揺するのもごく自然な反応だった。
「おまかせいたしますが、わけをお聞かせ下さいますか」
そう言ってから、れんはあわててつけ加えた。
「決して春時どのを信じないのではないのですよ。でも、その……」
うつむきがちになりながら、目は救いを求めている。
「こなた様を死んだこととします」
「……!」
「これ以上、追っ手が掛からぬようにするため」
「そこまでしなければなりませんか。継母上を謀るのはともかく、父上や義兄上たちがお嘆きになるのは耐えられません」
「ではこう申しましょうか、中将の姫」
春時が厳しい目を向けた。
「こなた様を始末した暁には、多くの褒美が約束されている。それが目当てです。なぜ褒美が必要か。いただかないことには、ほとぼりが冷めるまで逃げるにも食うに元手もない」
「食う、元手」
れんにとって食べ物は、決まった時間になれば女房が用意してくれるもの。継母の意地悪で食事を得られないことはあったが、食べるために元手、資財が必要と思ったことはなかった。
藤原南家、右大臣の家で食事の苦労などありえないし、父が左遷されたとて暮らし向きは変わらない。
「食う、元手」
れんは数度、くりかえした。
れんには思いもかけぬ話であったから、意味を正しく受け止められているのか、ことばを言いかえたしかめる。
「おっしゃっているのは、ものを食するにも食べ物が手に入れられぬ、ということですか。だから、わたくしの髪の束で購おうと」
「ご理解いただけましたか」
どうやら考えは合っているらしい。
れんは小さくうなずきかえすと、さらに考えた。
「でも……継母上に収めるのですよね、この髪を。この髪をして、わたくしに呪いをかけたりなどはしないでしょうか。河原で拾った髑髏に入れたり」
「死者を呪殺できますか?」
「あっ」
「怨霊祓いの呪法や祈祷くらいはやるだろうが」
「そうですね、たしかに」
まだ不安はぬぐいきれていない。
だが容赦なく、春時は宣告した。
「ご理解いただけたなら切らせていただく」
れんは「自分で切る」と口元まで出かかったところを、飲みこんだ。潔く切れればよいが、中途半端になってしまうと未練と思われる。
(そう思われるのは、いやだわ)
春時に任せて切り落としてもらうほうが、ましというもの。れんは黒い数珠を両手の指にかけ、包み込む。目を閉じ意を決し、きゅっとくちびるを引き結んだ。
「おまかせします」
春時は小刀を抜いた。
頭の頂点に軽い振動が伝わる。見ることはできないが、伝わる振動で分かる。髪がそぎ落とされてゆく。そしてひとふさ、ふたふさと、髪の束が床に落ちてゆく。
(軽くなってゆくわ)
髪が落ちるたび、頭が軽くなる。
(今までなにか、重いものを背負っていたみたい)
梅雨のころの湿り気のように、望まぬのに肌にまとわりつく。重くてわずらわしい、正体の知れぬなにか。今まさにそれをふり払っている、そんな気がしてきたのだ。頭が以前より研ぎ澄まされたようにも思えてきた。が、
――逃すものか……
突如、女の手がむずと後ろ髪をつかむ。
れんが息をのんだ瞬時、周囲は闇に満ちた。
れんはただ一人、女の声を聞く。
――けして逃さぬぞえ……中将内侍……