第一話 琴韻(一)
月は満ちている。
夜半、少女は目を覚ます。
羽織るものを探しあて、静かに立ち上がる。
灯皿の油は尽きていた。沈丁花の甘い薫りにいざなわれ、あふれる月あかりをめあてに、少女は縁台へ歩みを進める。ぬばたまの髪が揺れる。
少し肌寒い。それでも少女は月を眺めていた。
愛でるのは今宵かぎりやも知れぬ。
ならば、おのが瞳に月影を焼きつけよう。
そして月光の海を渡り、金色の仏のおわす彼岸へと旅立とう――そう少女が乞い願った月は、おぼろげな光を雲間に籠らせ、やがて静かに闇につつまれた。無情なる天の意志を見届けながらも、少女はただ、虚空の天をあおぐ。
懐に手を入れる。冷たいものが指に触れた。そのまま指をからめ、強くにぎりしめる。
「姿をお見せなさいませ」
少女が命じる。
凜とした声に続き、さあと風の音がした。
「わたくし、逃げも隠れもいたしません」
机帳の裏で影がうごめいた。
「だれの命令ですか」
少女は机帳より視線をそらさない。
瞬時、火花を散った。
少女の黒髪が踊る。
身を翻した少女と相対し、黒衣の者が縁台に立っていた。その手には抜き身の刃。
少女もまた、懐剣を構えおのが身を守る。
火花は二刃のせめぎ合いゆえだった。
「知らぬまま冥途へ赴きたくはありません。お答えください」
「……横佩の大臣が命にて」
静かに落ちついた、しかし若い男の声。
「父上が……」
少女は細く息をつき、再び縁の外を見やる。
――やはり今生のみの月であったか。
手中の冷たき懐剣を少女は投げ捨てる。
床に落ちはね返り、重く硬く、鈍い音が響いた。
守り刀を捨てる、すなわち命尽きたとの覚悟を意味した。
「手向かいはいたしません。父上の命とあらば」
再び、風が駆けぬけた。
頬にまとわりつく湿り気。むせるような花の香り。光り閉ざす空と、夜陰の庭。
少女はすべてを受け入れ、まぶたをふせる。
月が再び、姿を現した。
目を閉じ闇に堕ちてさえ、少女はその光をとらえることができた。
床の刀が冷たく光る。華やかにほどこされた懐剣の金具が、月光に応えて輝いていた。
そして、待った。
それは長かったのか、短かったのか。
突然、手首を拘束され、少女は肩をすくめた。
音もなく男は傍に立っていた。少女に手首をつかむ手の熱さが伝わる。
「中将の姫」
少女はその声の主を見上げた。
衣のすき間から見える瞳は、月を映し迷える色を見せている。
「馬は裏手に」
男はただちに強い力で少女を引いた。不意をつかれ男にもたれかかった少女――中将内侍はあわててまっすぐ立ちなおす。
そしてふたつの影は、庭を静かに駆けぬけた。