「君を愛することはない」と言われたので新聞の人生相談に投稿したら、回答の筆跡が旦那様でした
「君を愛することはない」
初夜の寝室で、旦那様はそう言った。
燭台の火が揺れて、銀の髪の上を細い光が滑っていく。アルベール・ヴァルモン侯爵。王宮監査院の若き監査官で、帳簿の一行の嘘も見逃さないことから社交界では「氷の監査官」と呼ばれている人だ。
その人が、私から三歩離れた場所に立ったまま、まっすぐこちらを見ていた。
「君の実家の負債は、すでにすべて清算してある。君がこの家で不自由することはない。ただ、それ以上のものを私に期待しないでほしい」
「……はい」
「三年。三年経てば、この婚姻は白い結婚として解消できる。その後のことは、君の自由だ」
それだけ言うと、旦那様は一礼して寝室を出ていった。扉が閉まる音は、思っていたよりずっと静かだった。
私は寝台の端に腰かけたまま、しばらく自分の手を見ていた。
泣くほどのことではない、と思った。
ロシュ子爵家の借金は、父が三度目の事業に失敗したときに膨らんだものだ。その半分は王家からの借入だったから、去年の秋には王宮監査院の監査まで入った。屋敷の調度も、母の形見の首飾りも、庭の林檎の実も、売れるものは全部売った。それでも足りなかった。
そんなある日、借金がすべて清算されたという知らせが届いた。肩代わりしたのはヴァルモン侯爵家で、その翌週同じ家から縁談が来た。断る理由など、どこにもなかった。
ただ、ひとつだけ、どうしてもわからないことがある。
ヴァルモン侯爵家ほどの家が、潰れかけの子爵家の借金を肩代わりして、何の得があるのだろう。うちには持参金も後ろ盾になる親戚もない。私は社交界で噂になるような美人でもない。それなのに旦那様は、覚えている限り一度も会ったことのない私を、妻に選んだ。
取引にしては、私の側に差し出せるものが少なすぎる。
それでも、これは取引なのだ。私には思いつかないような理由がもしかしたらあるのかもしれない。そう思うことにした。
旦那様は約束どおり借金を払ってくださった。私は約束どおりここにいる。愛がないのは最初からわかっていたことだ。
「承知いたしました、旦那様」
誰もいない扉に向かってそう言って私は一人で眠った。
◇ ◇ ◇
ヴァルモン侯爵家での暮らしは、拍子抜けするほど穏やかだった。
使用人たちは親切で、食事は温かく、部屋には毎朝新しい花が活けられた。ただ、旦那様の姿だけが、どこにもなかった。
監査院の仕事は忙しいらしい。旦那様は私が起きる前に屋敷を出て、私が眠ったあとに帰ってくる。
代わりに、朝食の席には毎朝、一枚の紙が置かれていた。
『今夜は遅くなる。先に休め』
『雨になる。庭には出るな』
『商会が布地の見本を持ってくる。好きなものを選べ』
それだけで、署名すらない。細く、几帳面な字。文の終わりの点だけが、なぜか毎回小さく右へ跳ねている。
一枚目を読んだとき、私は少し笑ってしまった。こんなに素っ気ない手紙をもらったのは、生まれて初めてだったから。
それなのに気づけば私は、その紙を一枚も捨てられずにいた。
鏡台の引き出しにしまった書き置きは、ひと月で三十枚になった。ふた月で六十枚。三か月目には引き出しが閉まりにくくなった。
「奥様、それ、全部取っておかれているんですか」
実家から付いてきてくれた侍女のニナが、呆れた顔で引き出しを覗きこむ。
「だって、旦那様の字はこれしか知らないもの」
自分で言ってから、胸の奥がすうっと冷えた。
結婚して三か月。私は夫の声より、夫の字のほうをよく知っている。
◇ ◇ ◇
その夜、ニナが一部の新聞を差し出してきた。
「奥様、これ、覚えていらっしゃいます?」
王都新報。その最終面の片隅に、見慣れた見出しがあった。
【灯台守への手紙】
私は思わず、紙面を両手で持った。
王都の誰もが知っている人生相談欄だ。回答者は「灯台守」とだけ名乗り、正体は誰も知らない。恋の悩みにも、商売の失敗にも、家族の喧嘩にも、灯台守は厳しく、けれど最後には必ず逃げ道を残す答えを返してくれる。
そして私は、この欄に一度だけ救われたことがある。
十年前、母が亡くなった年のことだ。九歳だった私は、母が植えた庭の林檎の木の下で、毎日泣いていた。どうしたら泣き止めるのかわからなくて、ニナに手伝ってもらい、灯台守に手紙を書いた。
返事は、紙面にこう載った。
——泣き止む必要はありません。林檎の木は、泣いている子の涙も水として受け取ります。秋になったら、実がなったかどうかだけ、またお知らせください。
だから私は、翌年の秋に手紙を書いた。「林檎の木」という名前で、今年も実がなりました、いちばん赤い実は母が根元に置いた白い石に供えました、とだけ。
その次の年も、その次の年も。何も相談しない、ただの報告の手紙を、私は毎年秋に送り続けた。
返事の代わりに、毎年秋になると、欄の隅にたった一行だけ載った。
——林檎の木さん、今年も確かに受け取りました。
その一行を見つけるたびに、どこかの灯台の上で、誰かが林檎の知らせを待っていてくれる気がした。
最後に送ったのは、去年の秋だ。
『今年は林檎を全部売りました。来年はもう、お便りできないかもしれません』
欄の隅には、いつもより少しだけ長い一行が載った。
——林檎の木さん、受け取りました。実がなくても、お便りはお待ちしています。
けれど私は、それきり手紙を書かなかった。書けば、借金のことも、売られていく縁談のことも、全部書いてしまいそうだったから。
「ほら、ここ。規則が変わっていないんです」
ニナが紙面の隅を指さす。
『投書はすべて編集部にて清書のうえ、灯台守に渡されます。灯台守が相談者の筆跡を知ることはありません』
『灯台守の直筆の回答は、ご希望の方に原本をお返しします』
灯台守の直筆は御守りになる。王都の古い言い伝えだ。子どもの頃は私も欲しかったけれど、九歳の娘には、新聞社まで受け取りに行く勇気がなかった。
私はしばらく紙面を見つめてから、便箋を取り出した。
「奥様?」
「相談してみようと思うの。灯台守に」
ペン先をインクに浸す。名前はどうしよう。「林檎の木」は、もう使えない。木は実家に置いてきてしまった。
少し迷って、私はこう書いた。
『灯台守様。
結婚した夜、夫に「君を愛することはない」と言われました。
夫は誠実な人です。約束はすべて守ってくださいます。私にも不満はありません。ただ、三か月が経って、自分がこの家でどう過ごせばいいのか、わからなくなってしまいました。
夫を責めたいわけではないのです。困らせたいわけでもありません。ただ、このまま三年間、夫の字だけを集めて過ごすのは、少し寂しいのです。
どうすればよいでしょうか。
白い花嫁』
最後に直筆の返送を希望する欄に、小さく印をつけた。
◇ ◇ ◇
翌週の王都新報に、私の手紙は載った。
清書された自分の文章を活字で読むのは、他人の打ち明け話を覗いているようで落ち着かない。その下に、灯台守の回答が続いていた。
——白い花嫁さん。まず申し上げます。あなたは何も悪くありません。
——ご主人の言葉は残酷です。けれど、約束をすべて守る人が、なぜわざわざ「愛さない」とまで言ったのか。私はそこに引っかかります。本当に関心のない相手には、人はそんな宣言すらしないものです。
——ひとつ提案を。ご主人が字を残していくのなら、あなたも字を返してごらんなさい。一行で構いません。紙は、口より臆病な人に向いています。
一行。そのくらいなら私にもできるかもしれない。
その日の午後、私はニナと二人で王都新報の社屋を訪ねた。受付で名前の代わりに「白い花嫁」と告げると、封をした茶封筒がひとつ渡された。
帰りの馬車で、待ちきれずに封を切った。
中から出てきたのは、紙面で読んだのと同じ回答。ただし今度は手書きだった。
細く、几帳面な字。
文の終わりの点が、小さく、右へ跳ねていた。
「……え?」
声が出た。ニナが「奥様?」と覗きこむ。
私は返事もできずに、手紙を見つめた。見間違いだと思った。そう思いたかった。こんな癖のある字を書く人が、王都に二人いても不思議はない。きっと。
屋敷に着くなり、私は鏡台の引き出しを開けた。
九十二枚の書き置きの一番上から、今朝の一枚を取り出す。
『夕方から冷える。上着を出させておいた』
灯台守の回答の横に、並べた。
同じだった。
「か」の払いの角度も、行の終わりで少しだけ右に上がっていく癖も、点の跳ね方も。十枚、二十枚と並べ直しても違うところがひとつも見つからない。
「そういえば……」
ニナが、小声で言った。
「旦那様は毎晩、お帰りになってからも書斎で書き物をなさっているそうです。従僕が言っていました。お仕事の書類にしては、便箋の減りが早いって」
私は二枚の紙を胸に抱えたまま床に座りこんだ。
ーー灯台守は、旦那様だ。
……いや、待って。十年前の旦那様は十七歳のはずだ。九歳の私に林檎の話をしてくれたのは、別の誰かかもしれない。それに、投書は清書されて渡される。灯台守は相談者の筆跡を知らない。林檎の木が私だということも旦那様は知らないはずだ。
けれど少なくとも、今この欄で答えているのは、私の夫だ。
私に「愛することはない」と言った人が、見知らぬ白い花嫁には「あなたは何も悪くありません」と書いている。
おかしくて、悔しくて、少しだけ泣きそうで、私は声を立てて笑ってしまった。
「奥様、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないわ、ニナ。……旦那様は、相談したのが私だって、気づいていらっしゃらないのかしら」
口にしてから、自分で首をかしげた。
帳簿の一行の嘘も見逃さない、氷の監査官。その人が、妻の打ち明け話を読んで、何も気づかないなどということがあるだろうか。
一通目なら、まだわかる。夫に冷たくされた妻の相談なんて、きっと珍しくもない。
……それとも、もうとっくに気づいていて、知らないふりをしているのだろうか。
答えはわからない。わかっているのは、灯台守の正体を、私だけが知ってしまったということだ。
翌朝、私は書き置きの下の余白に、初めて一行だけ書き足した。
『上着、ありがとうございました。暖かかったです』
◇ ◇ ◇
翌朝の書き置きは、いつもより一行長かった。
『返事をもらえるとは思っていなかった。今夜も遅くなる。先に休め』
その一行を、私は朝食のあいだに五回読んだ。
それから、二通目の手紙を書いた。
『灯台守様。
先日はありがとうございました。書き置きに返事をしたら、夫から一行長い書き置きが返ってきました。
ひとつ教えてください。夫のような男性は、本当は何を考えているのでしょうか。愛さないと言いながら、毎朝天気を教えてくれる人の気持ちが、私にはわかりません。
白い花嫁』
我ながら、意地が悪いと思う。
でも、知りたかった。あの書き置きの向こうで、旦那様が何を考えているのか。本人に聞いても絶対に教えてくれないことを、灯台守なら書いてくれる気がした。それに自分の家とそっくりな相談を読んで、あの人が気づくのかどうかも。
翌週の回答は、紙面の半分を使っていた。
——白い花嫁さん。一行長くなったのなら、上出来です。
——ご質問にお答えします。断言はできませんが、そういう男は、たいてい臆病なのです。
——最初に「愛さない」と言っておけば、愛されなかったときに傷つかずに済む。期待しないでくれと言えば、相手を失望させずに済む。卑怯なやり方ですが、本人は相手のためだと思いこんでいることが多い。
——そして、そういう男は、口に出せない分を別のところで払おうとします。天気、上着、布地の見本。おそらくご主人は、あなたが風邪をひくことを本気で恐れています。
——次は、一度だけ朝食を一緒に、と書いてみてはいかがでしょう。臆病な男は、断る理由を探すのにも時間がかかります。
私は手書きの原本を読みながら、頬が熱くなるのを止められなかった。
上着の話も、布地の見本の話も、私は手紙に一度も書いていない。
では、旦那様は気づいている? 気づいていて、白い花嫁に答えるふりをして、私に話しかけている?
それとも本当に何も気づかないまま、自分のことを書いてしまったのだろうか。
確かめる方法は、ひとつしか思いつかなかった。
その夜、私は書き置きの余白にこう書いた。
『明日の朝、一度だけ、朝食をご一緒できませんか』
◇ ◇ ◇
翌朝、食堂に降りると、旦那様がいた。
背筋を伸ばして席に着き、新聞を広げ、紅茶には手もつけていない。私が「おはようございます」と言うと、新聞の端がわずかに揺れた。
「……ああ。おはよう」
それきり会話は続かなかった。私はパンをちぎり、旦那様は同じ面を三分ほど眺め続けた。
やがて旦那様が、新聞を見たまま言った。
「最近、王都の新郎は、そろいもそろって妻に『愛することはない』と言うらしい」
紅茶が、気管に入りかけた。
「灯台守への手紙という欄があるだろう。今月だけで同じ相談が四十通は……いや、載っていた。嘆かわしい話だ」
言いかけて、旦那様はぴたりと口を閉じた。
新聞の向こうで、たっぷり五秒。
「……私も言ったな」
「……はい。おっしゃいました」
「…………すまない」
小さな声だった。氷の監査官の、聞いたこともないような声。
私はうつむいて、肩が震えるのを必死にこらえた。笑ってはいけない。いけないのに。
四十通。この人は今月、四十人の白い花嫁の相談を、一通残らず読んだのだ。そのうちの一通が、向かいに座る妻のものだと知っているのか、いないのか。
もし気づいているのなら、今ごろ私の顔色をうかがっているはずだ。
けれど旦那様は、それから一度も新聞から顔を上げなかった。新聞の陰からのぞく耳が、ほんのり赤い。探りを入れている人の顔ではない。……たぶん。
紅茶は最後まで飲み干して、出がけに、旦那様はいつもより少しだけ長く玄関で立ち止まった。
翌朝の書き置きには、こうあった。
『明日も、朝食に降りる』
◇ ◇ ◇
それから、朝食は毎日の習慣になった。
会話は相変わらず少ない。今日の天気、庭の薔薇、監査院の階段が一段だけ高い話。それでも旦那様は、私が話すあいだ新聞を下ろしてくれるようになったし、私は旦那様が笑いそうになると、右の眉だけ先に動くことを知った。
書き置きは、いつのまにか往復書簡になっていた。鏡台の引き出しはもう閉まらない。
ある日の午後、私は書き置きの返事をたまには書斎の机に置いてみようと思い立った。驚く顔が、少しだけ見てみたくて。
そこで、見てしまったのだ。
机の上の革の書類挟みに、一枚だけ、はみ出した紙があった。
『婚姻解消申立書』
日付の欄は空白だった。けれど申立人の欄には、あの細く几帳面な字で、すでに旦那様の名前が書かれていた。添えられたメモには、三年後の日付と、「ロシュ子爵家への支援は解消後も継続のこと」という一文。
旦那様は、最初から決めていたのだ。三年経ったら私を手放すと。
それなのに手放したあとまで、ロシュ家を助け続けるという。そこまでして、旦那様に何の得があるのだろう。結婚した夜からずっと胸に引っかかっていた疑問が、また重たく沈んだ。
私は書き置きの返事を握りしめたまま、書斎を出た。
その夜、三通目の手紙を書いた。今度は意地悪のつもりも、確かめるつもりもなかった。書斎の書類のことまで書けば、さすがに旦那様も気づくだろう。気づかれても構わない、と思った。
『灯台守様。
夫と朝食をとるようになりました。書き置きは往復するようになり、夫は私の話を聞くとき、新聞を下ろしてくれます。
そして、夫の書斎で、三年後の日付の離縁の書類を見てしまいました。
夫がなぜ私を選んだのか、私は今も知りません。借金を肩代わりしても、夫には何の得もなかったはずなのに、離縁したあとまで私の実家を助けると書いてありました。
私は、夫を好きになってしまいました。
だからこそ、どうすればいいのかわかりません。夫が本当に私を自由にしたいのなら、引き止めるのは私のわがままです。それでも、引き止めたいと思ってしまうのです。
白い花嫁』
翌週の紙面に載った回答は、短かった。
——白い花嫁さん。好きになったのなら、それをご主人に伝えるべきです。わがままかどうかは、受け取った人が決めることです。
それだけ。拍子抜けするほど、灯台守らしくない短さだった。
けれど新聞社で受け取った封筒は、いつもより重かった。
直筆の回答の下に、もう一枚、便箋が重ねられていたのだ。一行目にこうあった。
『この追伸は紙面には載せないでください。編集部にも見せていません』
私は揺れる馬車の中で、それを読んだ。
『白い花嫁さん。あなたへの回答にはふさわしくない話をします。どうか読み流してください。
実は私も、妻に「愛することはない」と言った愚か者です。
白状すれば、あなたの手紙を読むたびに、妻の顔が浮かびました。書き置きの返事も、朝食の誘いも、あまりに私の家の出来事に似ていたからです。前回の回答では、あなたの手紙にはなかった上着や布地の話まで、うっかり書いてしまいました。書斎の書類のくだりでは心臓が止まるかと思いました。私の机にも、同じものがあるのです。
けれど、そのたびに打ち消しました。この欄には、同じような相談がひと月に何十通も届きます。何より、妻が私のことで心を痛めるはずがありません。金のために嫁いできた娘が、金を払った男を好きになるなど、起こり得ないことです。ですから、どれほど似ていても、あなたは妻ではない。そう結論するほかありませんでした。
だからこれは、どこかの白い花嫁さんへの、ただの打ち明け話です。
妻は家の借金を返すために私のところへ来ました。私が金を払い、そのあとで縁談を申し込んだのです。順番が逆であることは承知していました。金を払った男に求婚されて断れる娘はいません。だから私は、愛さないと言いました。三年経てば彼女は自由になれる。借金のない身で、好きな相手のところへ行ける。それが、私に差し出せる唯一のものだと思いました。
けれど本当のことを言えば、私は、彼女が私を知るずっと前から、彼女を知っていました。
この欄には毎年秋になると、同じ相談者から一通の手紙が届きました。相談は何も書かれていません。「今年も林檎が実りました」と、それだけです。母がこの欄を書いていた頃に一度だけ返事をした少女で、母が亡くなって私がこの欄を継いだあとも手紙は毎年届きました。
監査院の仕事は、人の嘘を数える仕事です。一年じゅう嘘を数えて、秋に一通だけ、嘘のひとつもない手紙を読む。それが私の一年の終わり方でした。
去年の秋、その手紙に「林檎を全部売りました」とありました。
ひと月後、私はある子爵家の帳簿を監査しました。収入の欄に、「庭の林檎、全量売却」という一行がありました。屋敷の庭には、実をすべてもがれた林檎の木が一本だけ立っていて、その根元に、白い石がひとつ置かれていました。そしてその夜、数字を合わせようと一人で書斎に残っていた、インクだらけの手をした娘がいました。
あとのことは、ご想像のとおりです。
白い花嫁さん。もしあなたのご主人が私と同じ種類の愚か者なら、彼は三年後の書類を、あなたへの贈り物だと信じています。破り捨てていいのだと、あなたの口から言ってあげてください。彼は自分からは決して言い出せないでしょうから。
灯台守』
便箋の上に、ぽたりと雫が落ちた。慌てて袖で押さえる。インクが、にじまないように。
「奥様……」
ニナが黙ってハンカチを差し出してくれた。私はそれを受け取ることもできずに、ただ便箋を抱きしめていた。
思い出したのだ。
去年の秋の、あの夜。監査の初日、監査官に出す家計簿の数字がどうしても合わなくて、私は父の書斎で一人、夜更けまで計算をやり直していた。監査官たちが引き上げたあと、ランプを持って様子を見に来た若い監査官がいた。
「ここの計算が、一行ずれています」
それだけ言って、ずれた一行を指さして、帰っていった人。
顔はよく覚えていない。泣き腫らした目で、ランプの光しか見ていなかったから。ただ、銀色の髪だったような気がする。
ずっと不思議だった。なぜ侯爵家が、潰れかけの子爵家を助けたのか。なぜ旦那様が、私を選んだのか。
私は、借金のためにあの人のところへ来た。それは本当だ。
でも、あの人はーー
あの人は、林檎の木のために、私のところへ来てくれたのだ。
◇ ◇ ◇
その夜、私は最後の手紙を書いた。
宛名はいつもどおり。けれど、署名だけは変えた。
『灯台守様。
今年は、林檎が実りませんでした。木は、実家の庭に置いてきてしまったので。
代わりに、今年は別のものが実りました。ヴァルモン侯爵家の鏡台の引き出しに、もう閉まらないくらい、たくさん。
三年後の書類は、どうか破り捨ててくださいませ。私は、あなたの字が好きです。あなたのことも。
追伸 明日の書き置きの返事は、食卓で直接いたします。
林檎の木』
投函して三日後の夕方だった。
まだ日も落ちきらないうちに、玄関の扉が乱暴に開く音がした。結婚してから、旦那様がこんな時間に帰ってきたことは一度もない。
階段を降りると、玄関ホールに旦那様が立っていた。外套は片方の肩からずり落ち、銀の髪は風で乱れ、手には一枚の紙が握られている。編集部の、見慣れた罫線の清書用紙だ。
「……ミレイユ」
初めて、名前を呼ばれた。
「これは、君か」
私は階段の最後の一段に立ったまま、うなずいた。
「白い花嫁も」
「はい」
旦那様の顔から、さあっと血の気が引いた。たぶん、自分がこのひと月に何を書いたのかを、全部思い出したのだと思う。臆病な男。卑怯なやり方。紙面に載せない追伸。
「いつから……」
「最初の直筆のお返事をいただいた日からです」
「……似ているとは、思っていた」
旦那様の声は、かすれていた。
「だが、君が私を好きになるはずがないと、最初から決めていた。だから、どれほど似ていても、君ではない理由ばかり数えていた」
帳簿の嘘なら一行も見逃さない人が、自分の帳簿にだけは先に答えを書き込んでいたのだ。妻が自分を好きになるはずがない、と。あとはどんな数字が出てきても、その答えに合うように読んでいただけ。
「旦那様は、ご自分のことになると、帳簿をお読みになるのがずいぶんお下手なのですね」
旦那様が、ぐっと言葉に詰まった。氷の監査官を黙らせたのは、たぶん王都で私が初めてだ。
私は、エプロンのポケットから一枚の紙を取り出した。今朝の書き置きだ。
『夕方から雨になる。庭には出るな』
「旦那様の字は、九十二枚目から数えるのをやめました。もう、見間違えようがありませんもの」
旦那様は、手の中の清書と私の顔とを、何度も見比べた。それから、ゆっくりと片手で目元を覆った。
「……私は、ずっと、君がこの家を出ていく日のために」
「存じています。読みましたから」
「金で君を買った男だ」
「借金を払ってくださった方です。それに、あの夜、家計簿の一行のずれを教えてくださった方」
指の隙間から、灰色の瞳がこちらを見つめる。
「……覚えて、いたのか」
「お顔は覚えていませんでした。でも、昨夜、実家から持ってきた家計簿を開いてみたんです」
あの夜、ずれた一行の横の余白に、見知らぬ監査官が小さく正しい数字を書き込んでいった。私はそれを、一年間ずっと見ないふりをしてきた。
「余白に、あなたの計算が残っていました。点が、右に跳ねていました」
旦那様は、長いこと黙っていた。
それから手の中の清書を丁寧に折りたたみ、胸の内ポケットにしまった。監査官が大事な証拠書類をそうするように。
「ミレイユ。……君に言ったことを、撤回させてほしい」
「どの言葉でしょう」
意地悪だとわかっていて、聞いた。旦那様は困ったように眉を寄せて、それから、右の眉だけを先に動かした。
「君を愛することはない、と言ったことを」
「撤回なさるのですか」
「ああ。……君を、愛している。ずっと前から」
たぶん、王都でいちばん不器用な愛の告白だった。灯台守の欄に届いたら、きっと「もう少し言葉を選びなさい」と赤字が入る。
でも私には、それで十分だった。
「では、撤回は書面でお願いします、旦那様」
「……書面?」
「あなたの字で。明日の朝の書き置きに」
旦那様は一瞬ぽかんとして、それから、初めて声を立てて笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝、食卓には一枚の紙が置かれていた。
旦那様は、もう向かいの席に座っている。新聞は畳まれたまま紅茶の横に置かれていた。
『今日は晴れる。昼に戻る。君と庭を歩きたい。
それから、初夜の発言は撤回する。
君を愛している。
追伸 庭に林檎の苗木を植えさせた。実がなったら、私に一番に知らせてほしい』
文の終わりの点が、小さく、右へ跳ねていた。
私はその紙を鏡台の引き出しには入れなかった。
代わりにペンを取り、余白に一行だけ書き足して向かいの席へ滑らせる。
『承知いたしました、旦那様。毎年、必ず』
◇ ◇ ◇
翌年の春。王都新報の【灯台守への手紙】の隅に、久しぶりにたった一行の返事が載ったことを、王都の古い読者たちは少しだけ噂した。
——林檎の木さん、今年は春に受け取りました。苗木に花が咲いたそうですね。実がなる秋までは、隣で待つことにします。




