婚約破棄ですか? では、私がずっと隠していたことをお話ししますね
「エレノア。君との婚約を破棄する」
卒業記念舞踏会。
大勢の貴族が見守る中、第二王子クラウス殿下は、私にそう告げた。
隣には、淡い桃色のドレスを着た伯爵令嬢ミレーヌ。
「僕は彼女を愛している」
「まあ」
私は扇を閉じた。
「おめでとうございます」
「……え?」
殿下が間の抜けた声を出した。
「ですから、おめでとうございます」
「いや、君は……」
「婚約破棄、ですよね?」
「あ、ああ」
「それなら、ちょうどよかったです」
「……何が?」
私は微笑んだ。
「私も、殿下との婚約を終わらせたかったので」
広間が静まり返った。
ミレーヌが目を見開く。
「そ、そんな……エレノア様は、クラウス様を愛していたのでは?」
「ええ」
私は頷いた。
「昔は」
「昔……?」
「ですが、三年前に終わりました」
殿下の顔から笑みが消えた。
「……三年前?」
「はい」
私は淡々と答えた。
「殿下が初めて私の誕生日を忘れた日です」
「それは……」
「二年前には、私が王妃教育で倒れたことを知りながら、友人との狩猟旅行へ行かれました」
「…………」
「一年前には、私の父が病に倒れた際も、お見舞いの一つありませんでした」
「それは公務が……」
「そして半年ほど前」
私は殿下を見る。
「私が『殿下は、王になられたらどのような国を作りたいのですか?』と尋ねたとき」
殿下は黙った。
「殿下は、こうおっしゃいました」
私は当時の言葉を思い出す。
『そんなことは臣下が考えればいい。僕は王なのだから』
誰にも聞こえないような声で、殿下が呟いていた。
「……覚えていたのか」
「婚約者ですから」
私は笑った。
「覚えていますよ」
そして、一礼する。
「ですから、殿下」
「なんだ」
「婚約破棄をしてくださって、本当にありがとうございます」
今度こそ、誰も言葉を発しなかった。
◇
「お嬢様、本当に後悔していませんか?」
馬車の中で、侍女のリサが尋ねてきた。
「していないわ」
「でも、第二王子殿下ですよ?」
「だから?」
「王族の一員になれたかもしれないのですよ?」
私は窓の外を見る。
夜の王都が流れていく。
「王族になりたいなんて、一度も思ったことはないもの」
「……え?」
私は笑った。
「私はね、リサ」
胸元から一枚の紙を取り出した。
そこには、びっしりと文字が書かれている。
「人を見るのが好きなの」
「人を見る?」
「ええ」
私は貴族たちの会話や行動を観察し、その人物が何を考えているのかを考察し、記録する。
昔からの癖だった。
父はそれを「人を見る才能」と呼んだ。
けれど、王族妃教育ではあまり役に立たない。
役に立つのは王を立たせるための立ち振る舞いと気品のみだ。
これが王妃であれば、使えたのかもしれない。
だが、第二王子の妃では最低限しか使えない。
むしろ、それで不都合を被る可能性すらある。
だから私は隠していた。
......殿下にはそれで得た情報をいくつか喋っていたけれど。
全く聞く耳を持たないから途中からやめた。
「私が本当にやりたいのは、王宮の政務じゃない」
紙を眺めながら言う。
「人が困っている場所を見つけて、その原因を探すこと」
「……探偵みたいですね」
「ふふ。そうかもしれないわね」
婚約者として王宮に出入りしていた私は、三年間、様々な人物を観察してきた。
そして気づいていた。
この国には、妙な問題が多すぎる。
地方の税収が不自然に減っている。
一部の商人だけが異常な利益を上げている。
王都では食料価格が上昇しているのに、報告書では問題なしとされている。
そして。
それを知っているはずの人物たちが、誰も口にしない。
「婚約破棄されたなら、もう遠慮する必要はないわね」
私は紙をまとめた。
「明日から調べましょう」
◇
三か月後。
私は王都から離れた港町にいた。
表向きは、父から任された視察。
本当の目的は、商人たちから話を聞くことだった。
「最近、小麦が高くなった?」
「はい」
「どれくらい?」
「去年の倍近くです」
「でも王宮の報告では、価格は安定していることになっていますね」
「……それは」
商人が口を閉ざした。
私は笑った。
「大丈夫。誰が言ったかは記録しません」
すると、ぽつぽつと話し始めた。
聞けば、王都へ運ばれるはずの小麦が途中で消えているという。
さらに調べると、同じことが複数の街で起きていた。
私は記録をまとめた。
犯人はすぐに分かった。
王宮の食料輸送を管理する役人。
そして、その後ろには――。
「第二王子殿下の側近」
父に報告すると、父は頭を抱えた。
「お前、婚約破棄された直後に何をしている?」
「調査です」
「普通は家に引き篭ったりするものだぞ」
「必要ありません」
「……そうか」
父はため息をついた。
そして、厳かな顔で一言。
「では、徹底的にやれ」
私は頷いた。
◇
半年後。
王都では大騒ぎになっていた。
不正を働いていた役人たちが次々と捕らえられたからだ。
そして、その背後関係を示す証拠として。
私の記録が王宮へ提出された。
「エレノア嬢」
国王陛下が私を見る。
「この記録は、すべてお前が?」
「はい」
「三年前から?」
「はい」
「なぜ、こんなものを?」
私は少し考えた。
「王妃になるため、ではありません」
「では何のためだ?」
「この国が好きだからです」
広間が静まった。
「だから、変なところがあれば気になっただけです」
国王陛下はしばらく私を見つめた。
「……お前を王族妃教育だけに縛っていたのは、間違いだったのかもしれんな」
その言葉を聞いて、私は微笑んだ。
けれど。
その場に一人だけ、顔を青ざめさせている人物がいた。
クラウス殿下だった。
「エレノア」
「はい」
「……君は、こんなことをしていたのか」
「はい」
「なぜ僕に言わなかった?」
私は首を傾げた。
「言いましたよ?」
「え?」
「何度も」
私は指を一本立てる。
「食料価格の件」
二本目。
「地方税収の件」
三本目。
「役人の不正について」
殿下の顔が強張った。
「ですが殿下は、すべて『臣下に任せればいい』と」
「…………」
「ですから、私も任せました」
「誰に?」
「私自身に」
殿下は何も言えなかった。
◇
その日の帰り。
王宮の庭を歩いていると、背後から声がした。
「エレノア嬢」
振り返る。
そこにいたのは、第一王子のアレクシス殿下だった。
「お久しぶりです」
「いや、王宮には何度も来ていただろう」
「婚約者ではなくなりましたので、以前ほどではありません」
「そうだったな」
殿下は苦笑した。
そして、一冊の本を差し出してきた。
「これを」
「何ですか?」
「君が探している、古い税制の記録だ」
私は目を輝かせた。
「どこでこれを?」
「王立図書館の地下書庫」
「……見てもいいですか?」
「もちろん」
私は本を受け取った。
ぱらぱらとページをめくる。
面白い。
非常に面白い。
思わず夢中になっていると、殿下が笑った。
「本当に好きなんだな」
「はい」
「王族の一員になるより?」
「比べるものではありませんが」
私は顔を上げる。
「私は、こちらのほうが好きです」
「そうか」
第一王子殿下は少しだけ黙った。
「なら、これからも続ければいい」
「はい」
「……ただし」
「?」
「一人で調査するのは危険だ」
殿下は私を見る。
「私も手伝おう」
私は目を瞬いた。
「殿下が?」
「ああ」
「なぜですか?」
「君と話していると面白いからだ」
「……それだけですか?」
「今のところは」
そう言って、殿下は笑った。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「では、よろしくお願いいたします」
「ああ」
二人で並んで歩き出す。
婚約破棄されたあの日。
私は、人生から大切なものを失ったと思われた。
けれど違った。
あの日、私が失ったのは。
ただ一つ。
私の人生を勝手に決める権利を持っていると思っていた人だけだった。
そして私は今。
自分で選んだ道を歩いている。
隣に誰がいるのかも。
これから何をするのかも。
全部、自分で決められる。
「エレノア」
「はい?」
「次はどこを調べる?」
私は笑った。
「そうですね」
新しい記録帳を開く。
そこには、まだ何も書かれていない。
私は最初の一行を書いた。
――王都の不正、その後。
そして、その隣に。
小さくもう一行。
――第一王子殿下についても、要観察。
「……何を書いた?」
「秘密です」
「そうか」
彼は楽しそうに笑った。
私も笑った。
婚約は終わった。
けれど。
私の物語は、まだ始まったばかりだった。




