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欲した世界

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「僕はね、学園に行くまでもっと中途半端な記憶でこの世界を生きていたんだ」

空になったティーカップにお代わりを注ぐ。ポタージュが気に入ったようだったので、追加を用意して温かいパンを添えた。最近の彼を思えば、随分と食欲が戻ったようだ。

「異世界チート……まあなんというか、前世の記憶や知識でこの土地や家族を良くできると思っていた」

「事実でしょう」

「まあ、自分でも結構うまくやったと思う。両親は両方健在だし、兄上たちも能力を活かせているし、領地も安定している」

「すべてリチャード様の功績だと、皆分かっておりますよ」

「そういうのはやめてよ。こんなのズルみたいなもんだからね」

そういって、主人はパンをちぎってスープに浸した。そのポタージュに浸かっている豆だって主人の品種改良で味も栄養価も倍増した品種である。

「でもさ、僕なりに頑張った結果。僕って結構満たされちゃったんだ」

困ったようにそういってから、主人は大きめにちぎられたパンをほおばった。部屋に入った時の悲壮感はいつの間にかなくなっていて、いつもの主人に戻ったように感じる。とはいえ、そげた肉はすぐには戻らないのだけれど。

「魔王になった僕の人生を歩むのはいやだよ。両親も兄も領民も、誰も傷ついてなんかほしくないし、飢えてほしくない。僕だってつらいのは嫌だ」

彼の手が止まる。食事に満足したのだろうか、と思っていると、彼の瞳が真直ぐ私を見た。

「でも、魔王の種が現れるのは、世界の魔力が枯渇し始めたときだ」

私の中で、種が魔力を送り出している。それが止まることなく、ずっと続いていることを私は知っている。世界に供給されているとは知らなかったが、それでもこれだけの魔力を受け止め続ける程に、世界は飢えているのだと今は分かる。

「つまり、魔王が現れなければ世界は破滅してしまうかもしれない」

主人が学園から帰ってきたときに焦っていた理由を漸く理解した。

「本来、僕は学園に通う年になるずっと前に、魔王になっていなければいけなかった」

魔力が流れていく。世界に。絶え間なく、滔々と、私という土壌から欲望を糧に種が流している。

「世界に魔王が居なければどうなるか、僕は考えた。僕以外の魔王が現れるのではないかと思ったが、それらしいものは兆しもなかった」

私が魔王になったことを主人は知らなかった。私が報告を怠ったせいだ。それが主人を悩ませていた。

「だから、僕は魔王にならなければならないと思った。飢えるために、まずお前を遠ざけた」

扉を思い出す。入れてもらえなくなった扉。私と主人を隔てる拒絶の板。

「でも家族を傷つけたくはない。だから欲望について考えた」

主人の視線が部屋に散乱した紙に向けられた。何が書いてあるかはわからない。そこには彼の欲望が書き出されているのかもしれない。

「食事をとらず、飢えてみること。人と話さず、孤独になること。試してはみた」

細くなった手首を見る。皮膚に浮いた血管の痛々しさが苦しい。

「ついさっき、意識が遠のいて僕はようやく死にたくないと心から思った」

先ほどの主人のつぶやきを思い出して、私は唇を噛んだ。私の中でまた魔力が増幅して世界に流れていった。

「そうしたら、お前が入ってきた」

言葉と共に向けられた主人の笑顔に、息が止まった。

「やっぱり僕は満たされてしまう」

主人の手が隣の座面を叩いて促すので、隣に立った。

すると主人が立ち上がって私を抱きしめる。

「お前がさ。僕の愛が欲しくて魔王になるという状況の意味が、正直分かってないよ、僕は」

そういって、主人は私の体を強く抱き、それからわずかに体を放して鼻先を擦り付けた。オリーブの瞳が温かく私を見つめている。

「僕の愛を受け取らなかったのはオスカーじゃないか」

意味が分からず、私は言葉を失ったまま固まった。

「主従としての線を引きたがるから、従者としてじゃなくて対等にしようと爵位を与えようとしたときも、僕が平民になろうとしたときも、お前は拒絶しただろ」

「それ、は……私がふさわしくないからで」

そうだ。ふさわしくない。私は主人に見合わない。

「ほら、そういうところ。私はオスカーにかしずかれたくて一緒に居るんじゃないと何度も言ったのに。拒むのはいつもお前だったじゃないか」

違う、拒んだのではない。分不相応に求める自分に、当たり前に差し出される主人の愛を勘違いして溺れる愚かな自分から遠ざけたのだ。それに……。

「私にとって従者としての立場を失うことは、貴方に仕えるという名分を手放すことだったのです」

仕えている限りは、主人に尽くすことを許されているのだ。対等になった瞬間に、きっと主人は私から私の役目を取り上げるだろう。優しさだとしてもそれが嫌だった。

「お前がそれを望むから、僕もその距離を守っていたんだよ」

困ったように主人が笑う。そこには聞き分けのない子供を窘めるような慈しみが滲んでいた。

「まあ、でも、過去はいいんだ」

彼の手が私の頬を抱える様に掴んで離さない。心臓が狂ったように騒いでいる。魔力が溢れて収めようがない。せめてと部屋の空間の位相をずらす。私から溢れた魔力がまた世界に巡っていく。

目の前にぶら下げられると、欲望というのは際限なく大きくなるのだということを今思い知った。

死ぬなら今がいい。

「オスカーが僕の愛を欲していることが、すごく嬉しい」

蕩けるような笑顔に、世界が滲む。気が狂いそうだった。ぐらぐらと血が煮え立っている。

「キスしてもいい?」

囁くように問われて、体が溶けて消えるのではないかと思う。言葉が出なかった。彼の瞳が熱を持っていることをようやく理解した。心音が私の物だけではないことをようやく理解する。目蓋を下ろすのが精いっぱいで、その後に触れた柔らかい感触と紅茶と薬草の香りの向こうにある彼の香りに、世界が満ちるのを感じた。

何度かその柔らかさを感じていると、そっと体が離れる。満ちたはずの心が、また欲望を芽吹かせる。世界にまた魔力が流れていく。

「ねえオスカー、受け取ってくれる?」

ぐずぐずと溶けた頭に、柔らかく低い声が染みていく。

「はい」

返した私の言葉は何とも情けないものだった。それでも、リチャード様は嬉しそうに笑って私の目尻に口づけて言う。

「好きだよ、オスカー」

「私こそ、愛しております」

分不相応にも、と続けようとした言葉は唇に塞がれた。幸福が私を満たしている。とっくに許容値を溢れているはずだというのに、心は貪欲だった。これが魔王の種に選ばれるということなのだろうと自分でも嗤ってしまう程、満ちれば満ちる程に、強くよりこの人の愛を欲している自分に気付いてしまう。

なるほど、確かに私は世界で最も欲深いのに違いない。

「オスカーが魔王になっちゃったってことは、いつか勇者と敵対をしなければいけないってことかもしれないんだけどさ」

満足げに笑った主人が言う。

「それは一緒に考えていこうか」

主人が私の手を握った。

「……私を赦して下さるのでしょうか」

「赦すも何も、オスカーは魔王の力を世界の破壊ではなくて領地や僕を守るために使ってくれてるんだろ」

主人の指が私の手を撫でる様に動く。そんな当たり前のことを主人はまるで素晴らしい事のように言うから、私は調子に乗ってしまうのだ。主人のために役に立っているのだと思えることは、破壊よりよほど価値があるのだと主人はわかっていないのかもしれない。

「僕の好きな人は僕が思ってるよりすごい奴だったなって驚いたくらいさ」

そういって主人が私の手に唇を押し当てる。

「不安が消えたら、おなかが空いて仕方がない。今晩はがっつりしたものが食いたいな」

「最上級のドラゴンステーキをご用意します」

「まって、食べたことない夢の食材を当たり前に出そうとするな。使用人たちもみんなひっくり返るぞ」

「でも、一度食べてみたいとおっしゃっていましたよね」

主人の口に合う品種のドラゴンを見つけるのには苦労したが、おそらく口に合うだろう個体は見つけて飼育している。ドラゴンを食べるという習慣や歴史が過去になかったので、多少苦労したが主人の復帰祝いにはちょうど良いだろう。魔力の高いドラゴンは滋養も豊富だ。

「言った、かもしれないけど……オスカー、お前、もしかしてめちゃくちゃ浮かれてる?」

覗き込まれて、顔が熱くなる。浮かれるなというほうが無理だろう。正直、今は何か動いていなければ落ち着かない。目の前の愛する人に愛されているなんてそんな奇跡、飲み込めるはずがない。ばくばくと煩い鼓動が送り出すのは私の血液か、魔力か、もうわからないし、くらくらしている。

「おまえさ、そんな可愛いのどうして今までずっと隠してたんだよ」

「……別に、隠してはいません」

ただ弁えていただけである。

「ま、いいや。これからは僕も我慢しないでいいし」

主人が笑う。世界は祝福に満ちている。それでも、私の欲には限りがない。

「さ、仕切り直しだ。兄上にも謝りにいかないとな」

「心配されていらっしゃいますよ」

「そりゃそうだろうなあ」

そっと切り離した位相を元に戻す。あれほど見つめた扉はもうない。開いたつもりが消し飛ばしていたらしい。

主人が指先を振る。部屋の中の紙がすべて一瞬で燃え尽きる。炎の余韻で主人の薄茶色の髪が風になびいた。

「オスカーも一緒に言い訳を考えてくれ」

まず、扉が消えた言い訳からだな、と笑う主人の顔はひどく甘い。新しく設置する扉は以前のものとは違う色にしよう。きっと新しい扉は私を拒まないだろうが、もうあの扉は見たくない。

「気分転換で扉を変えたで十分だと思いますよ」

「確かにあの人そういうことには大らかだもんな」

「そもそも貴方は自分の為の出費をしませんから、喜ばれると思います」

「そんなことないだろ。僕は結構強欲だぞ」

言って指折り上げるのは、本当に他愛のない些細な希望ばかりだ。私は心の手帳にそれを書き加えて手配の算段を立てる。

「それに、魔王と一緒に世界を征服するんだ」

「……え」

私の反応に気を良くしたらしい彼が私の肩を抱く。

「僕のオスカーが魔王として討伐される未来は絶対に回避する」

その言葉は強い。胸が震えるのはこの方のものになれた喜びか、それともこの体温のせいだろうか。

「きっと魔王は本来悪ではなくて、世界を満たすエネルギーの源でしかないんだ。際限のない人の欲望が、暴力性を持つせいで勇者の種が必要になるだけ。もし、土壌が強く欲するものが優しいもので、それが正しく注がれるなら、きっと世界は優しく満ちる」

その言葉に私の心は期待で飢える。私の欲望は底が抜けていると知ったとしても、この方はこうして私の欲するものを与え続けてくださるのだろうか。

「僕とオスカーで世界を救う。これって世界征服みたいなもんだろ」

「……貴方が望むなら」

「あ、本当に世界を征服したいわけじゃないからな!僕は辺境領の気楽な三男で十分。好きな人と幸せになるだけで手一杯だから、世界なんて管理できないぞ!」

念を押されて素直に頷く。主人が世界を掌握したいなんて考えないことは分かっている。ただ、その言葉の端々に滲むあまさのせいで、思考がだいぶ緩んでいる。これでは良くないと思うのだけれど、制御はできそうもない。

「それにお前は大概勘違いしてる気がするけど、僕だってずっとオスカーが好きだったんだからさ」

ぐっと抱き寄せられて時がまた止まる。

「今結構浮かれてるんだ」

その言葉に私はそのまま物理的に浮き上がりそうになる。今日起きたときには世界はジリジリと終わりを迎えそうなくらいに悲壮な気分だったのに、世界の変わりように心が追いつかないでいる。

「このまま付き合ってくれ」

その言葉に私の心は差し貫かれ、満たされ、欲望が更なる熱を帯びる。

私の主人は賢い。兄君への言い訳だって本当は一人で考えられる。きっと世界だって一人で簡単に救ってしまうはずだ。

しかし今、こうして私を求めてくださる。また私の欲望が世界を巡るのを感じた。

「仰せのままに」

「まずは扉の発注と、後なにがあったかな」

言われて意識がようやく現実に接続する感覚があった。主人の温度には慣れないけれど、実務の話であれば思考の逃げ場がある。

「今晩は夕食を共にされるとお伝えしては?」

「兄上は忙しいだろう」

「幸い、今年は豊作で優秀な弟君が全ての仕事を前倒して進めていらしたので、エドガー様は比較的余裕がお有りです」

「とんだ働き者が居たもんだな」

「ええ、本当に働きすぎです。一度お休みになったほうが良いでしょう」

寝ていないのでしょう?と問えば主人は苦笑する。

「じゃあ、夕食まで寝るよ。確かに久々にまともに食べたせいで一気に眠くなってきた」

ふわ、とあくびを噛み殺す主人を寝室に転移させる。

「本当にもう何でもありだな」

主人が驚いたように目をパチクリとさせている。ついでに寝衣を用意すれば、素直に従ってくださる。

「着替えも魔法でどうにでもできるんじゃないか?」

「これは私の役目ですので」

主人の身なりを整えるのは魔法を使うより丁寧に行いたいのだ。その体の細さを改めて悔しく思いながら手早く召し替えを終える。余った布地がそのまま私の至らなさを示すようだった。

顔を上げると主人の目が私と寝台を交互に見て、それから小さくため息をついた。サイズの緩い寝衣は着心地が悪いのかもしれない。

「サイズを合わせますか?」

「え?何の話?」

「お痩せになられましたから、サイズがあっておらず着心地が悪いのかと」

「え?あぁ、別に寝間着なんて緩くても気にならないよ。というか、ほんとだ。鍛えなおさないとだな、これは」

言いながら明らかに緩くなった肩周りを摘む。それから少し思考を巡らせていたが、再びの欠伸とともに頭を振った。

「駄目だ、眠い。夕食前に起こしてくれるか?」

「はい、エドガー様たちへのご連絡も扉と手配もお任せください」

「ああ、オスカーのよいと思うように手配してくれ」

言いながら主人が寝台に潜り込む。

「かしこまりました」

言ってから扉の前で再び頭を下げる。

「オスカー」

部屋を出ようとしたところで声をかけられ、顔を上げた。表情は見えない。寝具の膨らみと声だけが主人の存在を示している。

「心配かけてごめん」

「……とんでもないことです」

「あのさ」

「はい」

「体力が戻ったら、僕はお前のことベッドに誘う気でいるから」

思考が停止する。

「そういう意味で好きだってこと、オスカーは言わないと意外と伝わらない気がしたから!おやすみ!」

もぞりと掛け布団が動く。主人が寝返りを打ったのだろうと理解はするけれど、私の体も頭も動かない。何を言われたのだろうか。言葉が私の頭のなかで反駁されるけれど、その意図を飲み込めない。いや、分かっているのに受け止めきれない。

私は再び頭を下げて、それからこれからすることを確認する。エドガー様への夕食の誘い。扉の手配。ステーキ用のドラゴンの調達、調理、それから、それから……。

主人にいち早く体力を取り戻して頂こうという当たり前の優先事項に私の心が震えている。欲望が戸惑い暴れている。身の程知らず、分不相応の大罪だ。私の倫理が私の欲を罵っている。

しかしこれは主人の望みなのだ。

ぐるぐると私の中の欲望が回る。倫理が崩れて欲に喰らわれている。なんて凶暴なのだろう。しかしこれは仕方のないことだ。主人に望まれている。なんと甘美な免罪符なのだろう。気が狂いそうだ。

いや、とっくに狂っている。私はとうに狂って魔王となったのだ。そんなふうに露悪的に考えても思考は処理しきれそうもない。

私の偉大な主人、リチャード様。

私が魔王になったのは、結局あなたが神だったからだ。神を前にすれば魔王さえもただの盤面の駒に過ぎないだろう。そして、私は貴方のもの。扉はもうない。


 

世界は私の欲望を吸って満たされる。

私の主人は世界を満たす者。

お付き合いありがとうございました!

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