魔王
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怒りに頭が支配されていても、中から聞こえたか細い声を聞き逃すはずはなかった。
主人は賢い。主人は思い込みが強い。主人は諦めない。ひどくお人好しで、そのくせ人の気持ちに鈍感だ。誰かの為にばかり動くのに、自分勝手だ。
私には我慢の限界だった。
主人を苦しめるものは許し難い。それは自分であっても、主人自身であっても同じだ。
彼が死に怯えるなんて、その理由も何も知らないままいるなんて耐えられず、私は扉を開いた。
そこには驚きで目を見開く主人が居た。
痩せて、目が落ちくぼんでいる。頬の肉が削げて、唇が荒れていた。知性に満ちていた瞳は今は驚きだけを残してこちらに向けられている。
その手には紙。指先がインクに汚れ、部屋中紙だらけだ。
「……どうして?結界魔法、かかっていただろ」
上擦った声はざらついていて、きっと喉の調子が悪いに違いない。机の横には複数の空瓶と回復薬。一体何を考えて、何に追い詰められてこうなったのか。やはり私には分からない。大量の紙には分からない記号がぎっしり書かれている。読み取れない。何一つ分からない。
「私は役に立ちませんか」
「え」
「私は貴方の役に立ちませんか」
言葉は勝手に溢れていた。主人の質問への答えになっていないのは分かっている。
「何言ってんだ、そんなわけないだろ」
主人が立ち上がり、私の元へ歩を進める。その瞳が困ったように私を見てから、周囲に散らばる紙を見渡した。紙は燃えずにまだそこに散らばっている。私と違い、主人の言葉を体に刻んだまま、そこに在ることを許されている。
「しかし、貴方は私に何も命じてくださらない」
「それは……そもそも命じるような事が無いからで……」
「私には貴方がここまで追い詰められる理由が分かりません」
主人の言葉の続きを待つことが出来ない。
「貴方が何を考えているかも、何に備えているかも、何に怯えているかも、分かりません」
頭の奥でじわじわと熱が収束していく。胸から何かがせり上がってくる。
「何一つ、わからないのです」
熱が鼻を抜けて、視界を歪める。
「私は貴方の役に立ちませんか」
主人の細くなった指が私の頬に触れる。かさついて冷たい皮膚の感触が私から溢れた熱の雫を掬った。
「違う、オスカー。そうじゃない」
主人の声が震えている。困らせている。分かっている。ただでさえ追い詰められた主人に更に追い打ちを掛けている。
ああ、畜生。なんて愚かなオスカー。なんて無能な男だ私は。
「リチャード様」
怒りと失望が自らを焼く。主人を守りたくて扉を取り払っても、守る手段は一つも浮かばない。ただ衝動だけで彼の意志を破り、その癖何も出来ない無能な男。
やはりこの人に命じて貰えなければ、私に意味も価値もありはしない。
「オスカー、違う!」
主人の瞳に力が戻る。オリーブ色の瞳。深い知性と優しさの滲む色。私に向けられた強い意志。
思考が止まる。意識が集中する。先ほどまで私の中を占めた絶望さえ全て放り捨てて、彼の存在に心が向く。
「オマエじゃない。役に立たないのは僕、というか……ぼ僕の知識だ」
絞り出すような声。指先が私の頬を撫でて、その瞳が近づく。息が止まる。薬草の匂いがする。それから甘い、彼の匂いだ。額が私の額に触れた。彼の瞳が目蓋に隠れる。
「僕には前世の知識があるんだ」
そこから主人が語り出したのは、彼の記憶の話だ。
主人には全く別の世界で、生きていた記憶がある。そこでは世界そのものを物語として操作する遊戯をしていたらしい。私には主人の話す内容をつぶさに理解することは出来なかったが、要点は飲み込むことが出来た。彼の遊んだ世界というがこの世界よく似ていて、出てくる人物も一致するのだと言う。
恐らく主人は本来、神々の一柱だったのだろう。その中でこの世界を覗いていた。しかし、何の因果か魂が迷い込んでしまったに違いない。
主人の説明を聞きながら、私は一人で納得する。
「僕はこの世界の魔王になるはずなんだ」
深刻な顔で告白した主人の言葉に、時が止まる。
頭が真っ白になった。
そんなことがあってよいのだろうか。あり得ない。いや、しかし、だとすれば、主人がこれまで苦悩し、私を遠ざけた意味も繋がる。
そして、こうして踏み込む私の傲慢さと身の程知らずを思い知る。
「ごめん、驚くし怖いよな……」
主人の乾いた手が私の頬を撫でる。主人の瞳が瞼で陰る。
「申し訳、ありません……」
ようやく絞り出せたのは、か細い謝罪だ。自分でも情けなくなるほど声は掠れていた。他に何ができようか。絶望さえ私には生易しい。
「なんでオスカーが謝るのさ」
主人の声は優しい。そして、そこに混じる諦観が苦しい。
「私が身の程知らずにも魔王になどなったからです。リチャード様の得るべき力を掠め取っていたなんて……」
懺悔し、頭を垂れる。死ねばこの身に宿る種や力はあるべき場所に戻るのだろうか。きっと無理だと本能が告げる。取り返しがつかない。首を何度落としても、心臓を何度抉り取っても意味が無いのだ。実際、主人が部屋にこもりきりになってから食事も睡眠も全くとっていないが、私の身体は不調一つない。この力は主人が持つべきだったのだ。あまりにも当たり前なことになぜ今まで思い至らなかったのか。愚かにもほどがある。この溢れる熱が私の魂ごと削り取ってすべて主人に捧げられればいいのに。
「……は?」
頬に添えられた手に力が籠って私の視線を引き戻した。至近に主人の驚愕に満ちた表情がある。失望や怒りはなく、そこには焦りと困惑と、なぜか心配があった。
「まって、もう一回言って」
咀嚼するように言葉を発する主人に、私は再び懺悔の言葉を伝える。
「リチャード様の得るべき力を掠め取っていたのは私です」
「いや、違う。そうじゃない」
まるで癇癪を起こした子供をなだめるような声色で、しかし自分自身にも問いかけるようにして主人は姿勢を正す。
「駄目だ。順番に確認しよう。まず、お前が魔王ってどういうことだ?」
主人の目に理知が戻っている。そして、優しさが、心配が伝わってくる。なぜだろうか。断ずべき罪人、厚顔なる盗人に向ける視線には思えない。
「魔王の種を飲み、魔の森を統べる者となりました」
「なんでお前が種を……ん?まって統べれるの?魔の森」
「はい。浅慮にも領地を守る為には統率すべきと考えたのですが、本来リチャード様ご自身で掌握されるべきだったのですね……」
「いや、ごめん。違う。なんか前提が全部違う気がしてきたから、一旦整理しよう。オスカー。多分なんだけど、そんなこの世の終わりみたいな顔、しなくて良い気がしてきた」
主人の指が私の目尻を拭い、頬を撫でる。それは狂おしいほど優しい手つきだった。頭の芯が痺れる。整理をすると言うのだから、落ち着かねばと思うのに、決壊した感情が止まらない。絶望は主人の眼差しでなぜか溶けつつある。犯した罪は変わらないというのに、なぜ私は赦された気になっているのか。そう自らを戒めて姿勢を整えたいのに、涙が止まらない。どうにかしなければと空転する思考を叱咤しようとしたところで温もりに包まれた。主人の心音が大きく聞こえる。いつもより早い。
主人に抱かれているのだと気付くのに少しかかった。
「そんなに泣くなよ、魔王なんだろ」
「申し訳ありません」
「……お前、たぶんこの世を滅ぼせるじゃん」
「貴方が望むなら」
「望むわけないって!というか、急に不穏な空気出すなよ」
軽い調子で言う主人の声はやはり優しくて、その手が私の背中を叩く。子供をあやすようなその動きは、私が子供の頃に彼によくされたものだ。
厩番の息子で乳兄弟の私。本来こうして侍ることの許されない存在だ。それはこの領地であっても異例な事だった。
私と主人が生まれたのは、たまたま領地内で子供の少ない時期だったと聞いている。当時は冷害が酷く、病も流行り、子を産む余裕が土地になかった。その影響か大奥様の産後の肥立ちが悪く、乳の出が悪かった。主の誕生そのものを不吉というものさえいたと言う。それでも大奥様は主人を生かす道を選ばれた。
私の父はこの国で迫害された森の民だった。この地で無ければ石を投げられ、追い回され、火あぶりにされてもおかしくない。しかし、この地は父を受け入れ、領主様は厩番の仕事を下さった。そして私は、更に忌むべき混血児である。生まれた時期も相まって、私こそが不吉の象徴と言われるべきだ。
しかし、混血を宿した女の乳を飲まされた尊き血の三男。主人の出生はその血筋にあるからこそ、この国の不吉を凝縮していた。
それでも領主一族は彼を育て、彼のそばに私を置いた。この地でさえ疎まれる混血の私を守る意図があったのだと今は知っている。そしてそれは、主人の命を繋げた恩返しだったのである。対価があるから私は生かされ、守られていた。だとしても、これは十分すぎるほどの恩義だ。
しかし、主人の優しさはその寛大ささえも超える。彼は初めから私と共に居てくれた。私の生まれも、立場も、私たちの立ち位置だって理解して、それでも兄弟のように育ち、側にいることを望み、私を従僕としてくださった。対等でないことを彼が厭う節はあったけれど、私にはこの距離が丁度良かった。
そうでなければ際限なく主人を求める自分を自覚していたからだ。
分不相応にもリチャード様を愛し、愛されたいと望む私は魔王に相応しい欲望を持っていた。ゆえに種は私の前に現れたのだ。
「なあ、オスカー」
「はい」
「身体は大丈夫なんだよな?」
主人の腕に僅かに力が込められて、身体が密着する。思考が止まる。心臓が煩くて、身体中を巡る魔力が昂ぶっているのがわかる。これを大丈夫かと問われれば大丈夫であるはずが無い。
「魔力が溢れそうです」
「それって大変……あれ?でもお前、昔と比べても魔力の変化って無くないか?」
「普段は制御しているので、周囲からは以前と変わらぬように見えているはずです。ただ、今はそれが外れそうなので、このままだとここにちょっとした魔力磁場ができてダンジョンくらいはできるかもしれません」
「なんでそれを淡々と説明できるんだよ!ていうか、だめじゃん!え、いつも平気なんだよな?何が原因?僕?ていうか、泣くほど動揺させたんだもんな。え、どうしよ。どうすればいい?」
焦りながらも私の背中を撫でる手が優しい。息を吐く。魔力の制御を意識して取り戻す。主人の負担にはなりたくない。
ただ――。
「もう少し強く抱いて頂ければ落ち着きます」
私の欲は魔王になるくらいに強く、身の程を知らない。




