ふたたび空へ
ノアが示した座標宙域に到達した時、彼らは息を呑んだ。そこに浮かんでいたのは、伝説に語られるような、緑豊かな理想郷でも、光り輝く白亜の都市でもなかった。巨大な黒水晶と、禍々しい金属装甲が醜悪に融合した、巨大な軍事要塞。それが、アヴァロンの現在の姿だった。都市というよりは、宇宙に浮かぶ巨大な悪性腫瘍。その表面では、本来の水晶の輝きが、黒い金属の侵食に抗うかのように、時折か細い光を漏らしては、すぐに闇に飲み込まれている。要塞の中心からは、周囲の空間そのものを歪ませ、星々の光さえも吸い込むかのような、強烈なアンチ・エーテルが間欠泉のように噴き出していた。あれが、サイレント・ゼロの発生源。アルケイディアの本拠地。そして、父アウグストゥスが座す、静寂の玉座。
「嘘……でしょ……」
マキナの声が、静まり返ったコックピットに震えた。操縦桿を握りしめた彼女の指は、血の気が引いて白くなっている。
「じいちゃんが……ザックが、生涯をかけて追い求めた場所が……こんな……こんな、化け物だったなんて……」
彼女の夢が、最も残忍で、最も醜悪な形で裏切られた瞬間だった。祖父が航海日誌に書き留めていた、どんな病も癒すという清らかな泉、失われた技術が眠る賢者の塔、そして何より、緑と水晶が調和した美しい空中都市。その全てが、目の前の、死と静寂を撒き-散らす鉄の塊に塗り潰されていた。彼女の瞳から、星の輝きが消え、深い絶望の影が落ちた。
「いいえ、マキナ。あなたの夢は、間違ってはいません」
ノアが、静かに、しかし力強い声で首を振った。彼女はホログラムモニターに、一枚の古いデータを投影する。それは、侵食される前のアヴァロンの姿だった。天を突く水晶の尖塔、その間を流れる光の川、そして、都市全体を優しく包み込む、エメラルドグリーンの巨大な植物。まさに、おとぎ話に描かれる理想郷そのものだった。
「私のデータによれば、アヴァロンは、もともと美しい自然とテクノロジーが調和した、水晶の空中都市だったはずです。しかし、アルケイディアがその心臓部である『エーテル・コア』をハッキングし、負のエネルギーを注入し続けることで暴走させ、自分たちの拠点へと強制的に作り変えてしまったのです。本来のアヴァロンは、この醜い殻の奥で、今も助けを求めています。その悲鳴が、私には聞こえます」
ノアの言葉に、マキナは瞳に再び微かな光を取り戻した。だが、状況は絶望的だった。要塞の周囲は、アルケイディアが誇る最新鋭の無人艦隊によって、幾重にも重なる鉄壁の防衛網が敷かれている。その数は、目算で数百隻。対するこちらは、ツギハギだらけのジャンク船、ステラ・マリス号が一隻のみ。蟻が一頭で、巨大な軍事国家に戦いを挑むようなものだった。
「どうすりゃいいんだよ、これ……」
アキトが、忌々しげに歯を食いしばる。彼の瞳には、憎き仇を前にしながらも、その圧倒的な戦力差に対する焦りと無力感が渦巻いていた。
コックピットに、重い沈黙が落ちる。誰もが、この絶望的な現実を前に、言葉を失っていた。最後の作戦会議は、その静寂の中で始まった。
「敵の防衛網は、三層構造になっています」ノアが冷静に分析結果を告げる。
「第一層『サイレント・ガード』。広範囲に展開する無人戦闘機の編隊です。数は約500。連携能力は低いですが、物量で全てを圧殺する戦術を取ります。第二層『ケルベロス・ゲート』。要塞に直結する三つの主要ゲートを守護する、エリート部隊が搭乗した最新鋭の重巡洋艦三隻。そして第三層『レクイエム』。要塞そのものに搭載された、無数の対艦レーザー砲と、広域殲滅兵器。理論上、この防衛網を単独で突破できる確率は、0.001パーセント以下です」
天文学的な数字。それは、死刑宣告と何ら変わりなかった。
「……0.001パーセントか」
マキナが、乾いた笑みを浮かべた。
「ゼロじゃないなら、十分だろ」
彼女は自分の席の隅に貼り付けた、一枚の色褪せた写真に目をやった。幼い自分と、豪快に笑う祖父ザックのツーショット。
(見てるか、じいちゃん。あんたの孫は、あんたが見たかった景色の、すぐそこまで来たぜ。ここから先は、アタシの戦いだ)
「仇は、目の前だ。ここで引き下がれるかよ」
アキトは、首から下げた歯車のペンダントを強く握りしめた。その冷たい感触が、タルタロスの路地裏で散っていった、リリィや仲間たちの最後の温もりを思い出させた。
(見てろよ、リリィ、タキ……。お前らを殺した奴らが、あの鉄クズの中で笑ってる。俺が、全部、終わらせてやる)
「僕が行かなければ、始まらない。父を止められるのは、僕だけだ」
リオは、自分の首筋に今も残る、レギュレーターの痕跡にそっと触れた。灰色の世界、感情を奪われた日々、失われた友人たち。その全ての元凶が、あの要塞の中にいる。これは、世界の運命を賭けた戦いであると同時に、リオ・アウグストゥスという一人の少年が、自分の人生を取り戻すための、最後の戦いでもあった。
「私の計算には、あなたたちの絆という変数は含まれていません」
ノアが、三人の顔を順番に見つめ、静かに言った。
「あなた方となら、その0.001パーセントを、100パーセントに変えることができる。私は、そう信じています」
その言葉が、最後の合図だった。四人の心は、固く、一つになった。
「道は一つしかない」
リオは覚悟を決めた顔で言った。
「僕たちが、やるんだ」
マキナの号令一下、ステラ・マリス号は、自ら死地へと飛び込む彗星のように、敵艦隊の渦中へと突っ込んだ。
第一層『サイレント・ガード』。レーダーが、無数の赤い光点で埋め尽くされる。四方八方から、レーザーの雨が降り注ぎ、ステラ・マリス号の行く手を阻む。それは、まさに鉄の嵐だった。
「数が多すぎる!右も左も、上も下も、全部敵だ!」
アキトが、砲座で絶叫する。
「文句言わない!アタシを信じな!」
マキナの操縦は、もはや神業の域に達していた。
「リオ、行くよ!ノア、解析を!」
マキナが叫ぶ。
「はい。敵無人機の制御周波数を特定。パターン、アルファ、シータ、ゼータの三種。単純な命令系統です」
「それで十分だ!」
リオは甲板に飛び出すと、目を閉じて意識を集中させた。彼の周囲に、船倉から無数のジャンクパーツが浮かび上がる。アンテナ、増幅器、古い通信機の残骸。それらがリオの『クリエイト』によって、空中で一つの奇妙な形状の装置へと組み上がっていく。
「敵の言葉を、僕たちの言葉にする!」
リオが作り上げたのは、敵の制御周波数を乗っ取り、偽の命令を送り込むためのジャミング装置だった。装置が起動すると、周囲の無人機の一部が、明らかに混乱した動きを見せ始めた。
「よし!かかった!」
マキナは、混乱した敵機の一群へと船を突っ込ませる。偽の命令を受けた無人機たちは、ステラ・マリス号を味方と誤認し、周囲の僚機へと攻撃を開始した。壮絶な同士討ち。その混乱に乗じて、ステラ・マリス号は敵陣の奥深くへと切り込んでいく。
「すげえ!リオ、お前、そんなことまで出来んのかよ!」
アキトが興奮の声を上げる。
「行ける!このまま、第一層を…!」
希望の光が見えた、その時だった。敵陣の奥から、一際大きな指揮官機が姿を現し、強力なアンチジャミング波を放った。リオの装置は火花を散らして沈黙し、無人機たちは再び統率の取れた動きで彼らを包囲する。
「ちっ、そう簡単にはいかないか!」
「でも、道はできた!」
マキナは船体をきりもみ回転させ、巨大な戦艦の残骸を盾にし、敵機同士を衝突させる。彼女は、この死の空間を、自分の庭のように舞っていた。数十回の被弾。船体が悲鳴を上げる。それでも、彼らは止まらなかった。絶望的な物量作戦を、四人の完璧な連携という、たった一つの奇跡でこじ開け、ついに彼らは第一層を突破し、第二層『ケルベロス・ゲート』へと到達した。目の前に、三隻の巨大な重巡洋艦が、三つ首の番犬のように立ちはだかる。その威容は、これまでの無人機とは比べ物にならない。
『反逆者リオ・アウグストゥスに告ぐ。アウグストゥス司令は、お前に最後の慈悲を与える…』
「返事はこうだよ!」
マキナは通信を切ると、操縦桿を大きく倒し、巡洋艦の弾幕の中へと、敢えて突っ込んでいった。巡洋艦の動きは、無人機とは比較にならないほど洗練されていた。巧みな連携でステラ・マリス号の逃げ道を塞ぎ、確実に追い詰めてくる。
「アキト!右の『アケローン』の砲塔を潰して!リオ、左の『ステュクス』の弾幕が来る!シールドを左舷に集中!」
「任せろ!」
「わかってる!」
アキトの放った弾丸が、寸分の狂いもなく敵艦の砲塔を破壊する。リオのエーテルが、シールドとなって左舷を守る。彼らの連携は、敵のエリートパイロットたちを驚愕させていた。
『馬鹿な、あのオンボロ船の動きが読めん!』
『奴ら、ただのジャンク屋ではないのか!?』
「面白い!この艦隊の指揮官、なかなかの腕だ!」
マキナは、好敵手の出現に口の端を吊り上げた。彼女は敵の動きを読み、予測し、そのさらに裏をかく。それは、経験と勘、そして船との一体感が生み出す、もはや芸術の域の操縦だった。そして、彼らは巡洋艦ステュクスの真下へと潜り込んだ。
「リオ!船の構造材から、ありったけの金属を集めて、『クリエイト』で巨大な槍を作ってくれ!できるだけ鋭く、硬いやつを!」
「アキト!その槍の先端に、迎撃機銃の全エネルギーを指向性でぶち込む準備を!」
「ノア!敵艦の装甲の一番薄い部分…動力炉の直上を割り出して!」
「行けえええええっ!ステラ・マリィィィィス・スピアァァァァッ!」
マキナは、船の全速力を利用し、ステラ・マリス号そのものを巨大な槍として、巡洋艦の腹部へと突き刺した。轟音。巡洋艦の装甲が紙のように破れ、槍は動力炉を正確に貫いた。数秒後、巡洋艦ステュクスは、内部から巨大な爆発を起こし、光の塵となって消えた。
『なっ……!?馬鹿な!』
残りの二隻が動揺する。その一瞬の隙を突き、ステラ・マリス号はゲートを駆け抜けた。士気は最高潮に達していた。これなら勝てる。僕たちの力なら、父を止められる!
そして、最終防衛ライン、第三層『レクイエム』。要塞そのものから、無数のレーザーが、光の津波となって彼らを襲う。もはや、回避は不可能。
「シールド、臨界点突破!あと10秒で崩壊します!」
「くそっ、ここまでか……!」
誰もが死を覚悟した、その瞬間だった。要塞から放たれたレーザーの一部が、突如として軌道を変え、味方であるはずのアルケイディアの艦隊を撃ち抜いたのだ。
「……ノア!」
「はい。私がやりました。敵の砲撃管制システムに、偽のターゲット情報を送り込み、同士討ちを誘発させました。ですが、このハッキングも長くは持ちません。突入するなら、今です!」
ノアの瞳が、膨大なデータ処理によって、青白い光を放っている。彼女もまた、限界を超えて戦っていた。仲間が作った、最後のチャンス。マキナは、最後の力を振り絞り、燃え盛る船を、要塞の巨大なハッチへと突進させた。
だが、アウグストゥスは、それすらも読んでいた。ハッチの奥で待ち受けていたのは、歓迎の光ではなかった。
『お前たちの戦いは、私のチェス盤の上での出来事に過ぎない』
父の冷たい声が、直接、リオの脳内に響き渡った。
『お前たちが突破してきたこの防衛網は、お前たちを殺すためのものではない。お前たちの船の性能データ、特にエーテル循環のパターンと、お前たちの連携パターンを収集するための、巨大なスキャナーだったのだ』
その言葉の意味を理解した瞬間、要塞から放たれたのは、一筋の、あまりに巨大な暗黒の光。それは、これまで彼らが受けてきたどんな攻撃とも次元が違った。純粋な、負のエーテル。サイレント・ゼロの奔流そのものだった。そして、その奔流は、収集したデータを基に完全に調整された、「ステラ・マリス号のためだけ」の周波数を持っていた。
「回避!」
ノアの絶叫が響く。マキナは咄嗟に船体を反転させたが、間に合わなかった。光はステラ・マリス号の左翼を掠めた。いや、掠めただけではない。触れた部分の金属、配線、そこに込められたマキナの祖父の想い、リオが修理した痕跡、その全てが、音もなく、光もなく、ただ「消滅」した。それだけではなかった。アンチ・エーテル波が船体を駆け巡り、リオのエーテル供給を完全に無力化する。シールドが消え、エンジンの出力が急激に低下する。
「うわっ!操縦が効かない!」
マキナが叫ぶ。
「照準システムにエラーが!クソっ!」
アキトの砲座も沈黙した。
「メインシステムに強力なウイルスが…!思考回路が…!」
ノアの声が、ノイズ混じりになる。希望の頂点から、一瞬にして絶望の底へ。全ての能力を封じられ、なすすべなく、船は制御を失い、バランスを崩し、巨大な機械が断末魔の叫びを上げるかのように、金属の軋む音を立てながら、近くの浮遊岩礁へと墜落していく。激しい衝撃。火花を散らす計器。そして、沈黙。
「……みんな、無事か!?」
リオが、瓦礫と化した船倉で身を起こす。頭から血が流れ、視界が滲む。コックピットでは、マキナが砕けたキャノピーに頭を打ち付け、ぐったりと意識を失っていた。彼女の額から流れる血が、祖父との思い出の写真の上に、赤い染みを作っていた。アキトは、砲座ごと船体から吹き飛ばされており、かろうじて命綱一本で宙吊りになっていたが、その腕は不自然な方向に曲がり、彼の誇りだった機銃は、ただの鉄屑と化していた。ノアだけが、比較的損傷は少なかったものの、その蒼い瞳からは、初めて見る絶望の色が浮かんでいた。
「…ダメです。メインエンジン大破。船体フレームに修復不可能な亀裂。エーテル循環システムも完全に沈黙。ステラ・マリス号は…もう飛べません」
彼女の声は、初めて、感情の揺らぎを帯びていた。それは、仲間との絆の象徴であり、唯一の翼であった船を失ったことへの、深い「悲しみ」だった。その時、彼らの頭上に、巨大な影が差した。父、アウグストゥスが、たった一人で、漆黒の機動アーマーを纏い、宙に浮いていた。その姿は、神というより、死神に近かった。
『来たか、リオ。愚かな者たちを扇動し、無意味で非生産的な抵抗を。だが、それもここで終わりだ』
父の周囲に、暗黒のエーテルが嵐のように吹き荒れる。
「うおおおおおっ!」
リオは、残った全ての力を振り絞り、蒼いエーテルの光を父に向けて放った。それは、仲間を守りたいという、彼の魂の叫びだった。だが、父はそれを、まるで子供の癇窪をあやすかのように、片手で受け止め、そして、握り潰した。蒼い光は、悲鳴のような音を立てて霧散した。
『無駄だ。お前のその感情から生まれる不完全な光では、私の完全なる静寂には届かない。感情とは、所詮、このようなものだ。一瞬、激しく燃え上がるが、より大きな力の前では、儚く消えるだけのノイズに過ぎん』
父が手をかざすと、リオの身体は目に見えない力で締め付けられ、宙に吊り上げられた。呼吸ができない。骨が軋む。意識が遠のいていく。
『お前には、特等席で見せてやろう。私の創る、完璧な新世界が生まれる瞬間を。お前が守ろうとした、そのくだらない絆とやらが、いかに無力で、無価値であったかを噛み締めながらな』
アウグストゥスは、通信回線を開き、冷徹に告げた。
『そして、見せてやろう。お前たちのささやかな希望が、絶望へと変わる様を。サイレント・ゼロの次の標的は、緑の海、そしてネオ・バビロンだ。お前たちが関わった全ての場所が、お前たちのせいで、静寂に帰すのだ』
その言葉は、リオの心を砕くのに、十分すぎた。自分たちが戦ったせいで、仲間たちの故郷が滅ぼされる。これ以上の絶望はない。父は、リオを殺さなかった。ただ、彼らの残骸をその場に残し、要塞へと静かに戻っていった。残されたのは、航行不能となった愛機の墓標と、完全に打ちのめされた仲間たち。そして、空には、サイレント・ゼロの発動を示す、巨大なエネルギーの渦が、ゆっくりと、しかし確実に、その勢力を拡大し始めていた。空の色が、希望の蒼から、絶望の灰色へと塗り替えられていく。完全なる、敗北だった。
絶望的な静寂の中、リオはただ、宇宙に広がりゆく父の「静寂」を見上げることしかできなかった。砕けたステラ・マリス号の残骸に身を横たえ、仲間たちの苦しそうな息遣いだけが、彼の耳に届いていた。もう、終わりだ。僕のせいで、みんなを、みんなの故郷までをも、危険に晒してしまった。後悔と無力感が、彼の心を完全に蝕んでいった。その時、途絶えていたはずの通信機が、ノイズと共に、か細い音を立てた。ノアが最後の力を振り絞って放っていた、極微弱な救難信号が、奇跡を呼び寄せたのだ。
『――こちら、ネオ・バビロンのストリート一同、派手に参上だ!リオ兄ちゃんたちに借り、返しに来たぜ!アキト兄の仇は、俺たちが取る!』
通信モニターに、聞き覚えのある声が響いた。画面に映し出されたのは、スクラップパーツで武装した、無数の小型艇。その先頭に立つのは、アキトの片腕だったストリートキッドの姿だった。それを皮切りに、通信モニターに、無数のシグナルが次々と点灯していく。
『こちら、『オールド・クロウ』!空賊の流儀ってやつで、この借りはきっちり返させてもらうぜ!』
『我々は、アルケイディアに故郷を追われた者たちのレジスタンスだ!あなた方の勇気に、我々も続く!』
『緑の海を守る者より、援護に参った!森の怒り、見せてやろう!』
『――覚えていろと言ったはずだ!こんな非芸術的な世界の幕引きは、この僕が許さん!』
一際けたたましい声と共に、イェーガーの赤い機体までもが、大量の傭兵部隊を引き連れて現れた。彼らがこれまでの旅の途中で出会い、助け、心を交わし、そして敵対さえした者たちが、危険を顧みず、この絶望的な戦場に集まってきてくれたのだ。
「みんな……!」
意識を取り戻したマキナの目に、涙が光る。一人ぼっちだと思っていた空の旅は、いつの間にか、こんなにも多くの仲間との絆を紡いでいた。
「……うるせえ奴らが、来やがった」
アキトが、折れた腕を押さえながら、悪態をつく。だが、その口元には、確かな笑みが浮かんでいた。仲間たちの声が、折れかけていたリオの心に、再び火を灯した。
「ノア、みんなに伝えてくれ。ステラ・マリス号の修理を手伝ってほしい、と。僕に、考えがある」
リオの瞳に、決意の光が戻っていた。集結した仲間たちの協力は、まさに奇跡の光景だった。オールド・クロウの船から、頑丈な装甲板が。ネオ・バビロンからは、高出力のブースターが。緑の海からは、自己修復機能を持つ、特殊な生体ケーブルが提供された。そして、イェーガーは最新鋭のエネルギーシールド発生装置を気前よく提供した。マキナが指揮を執り、リオが『クリエイト』の力で、異なる規格のパーツ同士を完璧に融合させていく。
数時間後、彼らの前に、新たな翼がその姿を現した。
「名前は、『ステラ・マリス・ユニオン』だ」
マキナが、誇らしげに言った。
「みんなの絆で、この子は生まれ変わったんだ!」
リオは、生まれ変わった愛機を見つめ、全艦隊に向けたオープンチャンネルで、マイクに向かって叫んだ。
「聞いてください!僕たちの目的は、アルケイディアを倒し、サイレント・ゼロを止めることです!僕たちの未来を、僕たちの手で取り戻すための戦いです!声も、音楽も、笑顔も、僕たちの手で守り抜きましょう!」
「「「「うおおおおおおっ!!」」」」
仲間たちの雄叫びが、星々の海に響き渡った。史上最大の、そして最も無謀な、空を駆ける者たちの最後の戦いが、今、始まった。連合艦隊の反撃は、アルケイディアの予測を遥かに超えていた。それは、統率の取れた軍隊ではなく、それぞれの自由な意志が起こした、荒々しくも美しい魂の奔流だった。
イェーガーは、彼の美学の全てをこの戦場に叩きつけた。彼の傭兵部隊のスピーカーから、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』が爆音で鳴り響く。その旋律に完璧にシンクロし、彼の部隊が放つレーザーは、音楽のクライマックスに合わせて一斉に放たれ、静かなパートでは予測不能な軌道で舞う。アルケイディアの論理的なAIは、この非合理で芸術的な攻撃パターンを解析できず、指揮系統に致命的なエラーを生じさせた。
「見ろ!これぞ芸術!これぞ戦いだ!君たちの無粋な静寂は、我が音楽の前にひれ伏すがいい!」
イェーガーの甲高い笑い声が響き渡り、敵艦隊の陣形に大きな亀裂が入った。イェーガーが開けた亀裂に、オールド・クロウの海賊船団が、猪のように突っ込んだ。彼らはレーザーの応酬など端から興味がなかった。敵の巡洋艦に強引に接舷すると、マグネットワイヤーを撃ち込み、艦体を固定する。そして、ハッチを爆破し、雄叫びを上げながら艦内へと雪崩れ込んだ。そこでは、最新装備に身を固めたアルケイディア兵と、錆びたカットラスや大型レンチを振り回す空賊たちとの、原始的で、しかし熱量に満ちた白兵戦が繰り広げられた。数分後、乗っ取られた巡洋艦の主砲が、味方であるはずのアルケイディア艦隊に向けて火を噴いた。
アルケイディアの重装甲艦が、その圧倒的な火力で連合艦隊を薙ぎ払おうとした時、緑の海の船から、無数の光る種子が射出された。種子は敵艦の装甲に付着すると、数秒で急速に発芽した。蔦はエネルギー系統に食い込み、動力炉を破壊し、巨大な鉄の怪物を、ただの静かなオブジェへと変えていった。それは、機械文明の傲慢さを、生命そのものの力が飲み込んでいくかのような、荘厳な光景だった。
ネオ・バビロンのストリートキッドたちは、戦場に点在する巨大な浮遊岩礁を、タルタロスのビル群に見立てていた。彼らは、超低空飛行で岩礁の影を縫うように飛び、敵のレーダー網から完全に姿を消す。そして、敵艦が油断して真上を通過した瞬間、真下から急上昇し、最も無防備な腹部をピンポイントで攻撃する。それは、弱者が強者を打ち破るために磨き上げた、狡猾で、洗練されたゲリラ戦術だった。
その全ての戦いを裏で支えていたのが、ノアだった。彼女はステラ・マリス・ユニオンのコックピットで、アルケイディア艦隊のネットワークに侵入し、敵の中枢AIとの熾烈な電子戦を繰り広げていた。敵AIが論理と効率で完璧な防衛網を再構築しようとするたびに、ノアは「イェーガーの気まぐれ」「オールド・クロウの無謀さ」といった、論理では説明不能な「仲間たちの魂の動き」を変数として入力する。計算不能な要素に、敵AIの思考はループし、フリーズする。そのコンマ数秒の隙が、仲間たちにとっての最大の勝機となった。誰かが被弾すれば、別の誰かが盾になる。敵の陣形に穴が開けば、誰もがそこに殺到する。言葉はなくとも、彼らの心は一つだった。
その混沌の中心で、生まれ変わったステラ・マリス・ユニオンが、先陣を切って突き進む。リオが放つ蒼いエーテルは、光の雨となって仲間たちの船に降り注ぎ、彼らの勇気を力に変えていく。
「リオ!中央艦隊の防御が薄くなった!ノアのハッキングで、要塞への突入ルートが一瞬だけ開く!心臓部へ行って、コアを止めるんだ!」
マキナが叫ぶ。
「ここは俺たちに任せろ!親父の仇は、俺がここで取る!」
アキトが通信を入れてくる。
「私たちの絆が、あなたを勝利へと導きます」
ノアが、最大の信頼を込めて告げる。
「みんな……ありがとう!」
リオは、一人で小型の高速シャトルに乗り込み、仲間たちが命がけで開けてくれた光の道へと、要塞の内部へと突入した。
玉座の間で、父アウグストゥスが待っていた。
「来たか、リオ。愚かな者たちを扇動し、またしても無意味で非生産的な抵抗を」
「それは愛じゃない!ただの独りよがりだ!」
暗黒と蒼穹、二つの相反するエーテルが激突する。アウグストゥスは、ゼロ・コアの力でリオの精神に直接攻撃を仕掛けた。リオの脳裏に、フィンが連れ去られる姿、グレイが処分される瞬間、タルタロスで死んでいったリリィたちの顔が、次々と浮かび上がる。
『見ろ、リオ。お前の感情が、お前の弱さが、これだけの悲劇を生んだのだ』
父の声が、魂を直接抉るように響く。心が折れそうになる。足が竦む。だが、今のリオは、一人ではなかった。幻影に飲み込まれそうになったその時、彼の心に、通信機越しではない、魂の響きそのものとして仲間たちの声が届いた。
『何やってんだ、リオ!あんたはアタシが見つけたお宝なんだろ!しっかりしな!』
『てめえがやらなきゃ、誰がやるんだ!俺たちの希望は、てめえなんだよ!』
『あなたなら、できます。私たちの絆は、過去の幻影ごときに断ち切れるほど、脆くはありません』
仲間たちの強い想いが、リオのエーテルと共鳴し、蒼い光となって幻影を打ち破った。
「僕は、もう一人じゃない!」
幻影を破ったリオに、父は物理的な攻撃を仕掛けてくる。暗黒のエーテルが、無数の黒い槍となって襲いかかる。リオは、仲間たちの想いを力に変え、『クリエイト』で、ただの機械ではない、「想い」を宿した光の盾を生成してそれを受け止めた。盾には、マキナの快活な笑顔、アキトの不器用な優しさ、ノアの静かな信頼が、紋章のように浮かび上がっていた。
「お前の力は、所詮は模倣!私の論理の掌の上だ!」
「違う!僕の力は、僕だけのものじゃない!みんなの想いを形にする力だ!」
リオは、光の盾を剣へと変え、父に迫る。そして、最後の激突。父を憎むのではなく、「その深い悲しみから解放したい」という、息子としての純粋な想いが、リオのエーテルを極限まで高めた。彼は、父の暗黒のエーテルの奔流を突き抜け、その胸にあるゼロ・コアへと手を伸ばした。ゼロ・コアは、最後の抵抗として、リオに最も残酷なビジョンを見せた。母リリスを失い、実験室で一人、絶望に泣き崩れる若き日の父の姿。その深い孤独と悲しみが、リオの心を飲み込もうとする。だが、リオは怯まなかった。
「その悲しみは、僕も一緒に背負う。父さん」
その言葉と共に、リオの純粋な蒼いエーテルが、ゼロ・コアに流れ込んだ。憎悪と悲しみで凝り固まっていた黒い水晶に、ヒビが入る。それは破壊ではなかった。父を長年縛り付けてきた、悲しみの呪いからの「解放」だった。ゼロ・コアは砕け散り、暗黒のエーテルは光の中に溶けるように霧散した。父は力なくその場に膝をついた。
戦いが終わったアヴァロンでは、数日間にわたる盛大な祝宴が開かれていた。かつての敵も味方も関係なく、誰もがこの奇跡的な勝利を祝い、歌い、踊っていた。それは、アウグストゥスが最も嫌った、予測不可能で、非効率で、しかし、生命の喜びに満ち溢れた「ノイズ」そのものだった。
復興したアヴァロンの一角に、空で一番大きいと噂されるジャンク市場ができていた。マキナは、油の匂いと人々の活気に満ちたその場所で、子供のように目を輝かせていた。山と積まれたガラクタの中から、旧文明の希少なパーツを見つけては、店の主人と丁々発止の値段交渉を繰り広げている。
「おいおい、ギル!この『反重力スタビライザー』、軸が少しブレてるじゃないか!これを定価で売ろうなんて、あんたも相変わらずハゲタカだね!」
「へっ!てめえこそ、その道のプロが見りゃヨダレ垂らす代物だって分かってて、買い叩こうって魂胆だろうが、マキナ!」
かつて敵対した悪徳商人ギルとマキナは、今では悪態をつきながらも互いの腕を認め合う、市場の名物コンビとなっていた。二人の周りには、いつも人だかりと笑い声が絶えなかった。
アヴァロンの一角にある自警団の訓練場。アキトは、ネオ・バビロンから来た子供たちに、厳しいながらも的確な指導をしていた。
「おい!狙いはもっと正確に!仲間を守るための力だ、無駄弾を撃つな!」
訓練が終わると、その厳しい表情はどこへやら、子供たちにせがまれて、訓練場の隅にある小さな花壇へと向かう。そこには、タルタロスでは決して見ることのできない、色とりどりの花が咲き誇っていた。
「アキト兄、この花、リリィ姉ちゃん、好きだったやつ?」
「……ああ、そうだよ」
アキトは、不器用に、しかし優しい手つきで、子供たちと一緒に花に水をやった。彼の本当の強さは、失われた命を悼み、今ある命を慈しむ、その優しさの中にあった。
リオは週に一度、アヴァロンの最下層にある独房に拘束されている父、アウグストゥスの元を訪れていた。父は、ほとんど言葉を発さず、ただ虚空を見つめているだけだった。リオも、無理に話しかけはしない。ただ、持ってきたスケッチブックを開き、外の世界で見たものを、静かに語りながら描いていく。
「この前、市場で新しい楽器が売られていたんだ。風の力で、とても綺麗な音が出る。子供たちが、その周りで一日中踊っていたよ」
「アキトが育てている花壇に、珍しい蝶が来たんだ。羽が、空の色をしていて…」
それは、父がノイズとして切り捨ててきた、ささやかで、温かい世界の欠片だった。その日、リオが部屋を出ようとした時、初めて父が口を開いた。
「……その蝶は……何という名だ」
リオは驚いて振り返った。父は、まだ彼の方を見てはいなかった。だが、その小さな一言が、凍てついていた二人の関係に、確かな雪解けの兆しを感じさせた。
その夜、ステラ・マリス・ユニオンの船内で、四人だけの夕食会が開かれていた。マキナが作った、相変わらず見た目は奇妙だが、なぜか美味しいシチューを囲んでいる。
「おいマキナ、これ、本当に食えるもんなのか?昨日までは紫色のキノコだったはずだぞ」
「失礼な!これは、愛情という名のスパイスで、化学変化を起こしたんだよ!」
「化学変化はいいが、生物兵器になってなきゃいいがな」
アキトとマキナの軽口に、リオが笑う。ノアは、その光景を静かに記録していた。
「記録を更新します」
ノアが、不意に言った。
「項目:非効率的な会話、予測不可能な味覚の変化、論理的根拠のない笑い。これらの複合事象を、私は暫定的に『幸福』と名付けました。このデータの収集は、私の最優先事項となります」
アンドロイドである彼女が、論理を超えた家族の温かさを、自分の言葉で定義した瞬間だった。船内は、この上なく温かい笑い声に包まれた。
戦いは終わり、アヴァロンに平和な日常が戻った。子供たちの笑い声が響き、市場は活気に満ち、人々は未来への希望を語り合う。それは、彼らが命を懸けて守り抜いた、かけがえのない宝物だった。四人もまた、それぞれの場所で、この新しい世界を築く一員となっていた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。アヴァロンの中枢、エーテル・コアを監視していたノアの表情が、ある日を境に、険しいものへと変わっていった。
「……皆さん、来てください。緊急事態です」
ノアが映し出したのは、アヴァロンのコアを通じて観測された、深宇宙からの未知のデータだった。それは、アルケイディアのサイレント・ゼロとは比較にならないほど、異質で、根源的な脅威を示していた。カラフルな銀河の地図に、ぽっかりと、完全な「黒」で塗りつぶされた領域が、不気味な速度で拡大していく様子が映し出されている。
「これは…?新たな敵か?」
アキトが身構える。
「いいえ。これは、単一の存在からの信号です。ですが、その信号は、エーテルそのものを『捕食』しているかのような反応を示しています。まるで、我々の宇宙とは異なる法則で動く、巨大な生命体…あるいは、時空の裂け目から現れた『何か』です」
ノアは、別のウィンドウを開いた。そこには、古代アヴァロン文明が遺した、最高機密レベルの文献データが映し出されていた。
「アヴァロンを創造した古代文明は、エーテルの可能性を探るうち、我々の宇宙の外側にある、高次元空間の存在に気づきました。彼らは、その空間を『虚無の海』と名付け、決して干渉してはならない禁忌領域として封印したのです。この現象は、そのアビスから何かが『漏れ出して』いることを示唆しています」
モニターには、星々が、まるでインクのシミのように、次々とその光を失っていく、恐ろしいシミュレーション映像が映し出された。
「このままでは、数年のうちに、この銀河系の全ての生命エネルギーが、この『虚無』に喰らい尽くされます。アウグストゥスが目指した静寂とは違う、始まりも終わりもない、完全な『無』です」
ノアのAIでさえ、「恐怖」に似たエラーを検知するほどの、絶対的な脅威。ようやく手に入れた平和が、再び奪われようとしている。誰もが言葉を失い、その恐るべき現実に戦慄した。だが、沈黙を破ったのは、リオだった。
「怖いよね」
彼は、震える声を隠さなかった。目の前には、父のような明確な悪意はない。ただ、全てを無に帰す、理不尽な宇宙の摂理。それにどう立ち向かえというのか。しかし、彼は続けた。
「でも、だからこそ、僕たちは行かなくちゃいけない。未来を、奪われたくないんだ。僕たちが手に入れた平和を、僕たちの手で守らなくちゃ」
彼の勇敢さは、恐怖を感じないことではなかった。恐怖を感じながらも、守るべきもののために、一歩前に踏み出す決意そのものだった。
その言葉は、魔法のように仲間たちの心を奮い立たせた。
「……しょーがないなあ」
マキナは、呆れたように、しかし、その瞳の奥は爛々と輝いていた。
「せっかく船の修理が終わったところだってのに。アタシのステラ・マリス号は、休む暇もないね!じいちゃんも見たことのない空が、まだあったなんてさ!面白そうじゃん!」
彼女の勇敢さは、未知への尽きることのない好奇心。恐怖さえも冒険のスパイスに変えてしまう、太陽のような強さだった。
「フン。どいつもこいつも、俺たちの休息を邪魔しやがって」
アキトは悪態をつきながらも、その手は、新しい武器のグリップを、力強く握りしめていた。
「アヴァロンは、俺たちが守る。もう誰も、失わせるわけにはいかねえんだよ」
彼の勇敢さは、過去の痛みを乗り越え、未来を守るという誓い。二度と仲間を失わないための、鋼の覚悟だった。ノアもまた、静かに頷いた。
「私の創造主たちが恐れた禁忌。その謎を解き明かすことは、私の新たな使命です。そして何より、あなた方と共に在りたい。それが、私の出した結論です」
彼女の勇敢さは、論理的な生存確率を超えて、仲間という「非合理な奇跡」を信じる、新たに獲得した魂の力だった。
彼らは、アヴァロンの住民たちに全てを話し、旅立ちの準備を始めた。住民たちは、彼らを引き留めようとはしなかった。ただ、それぞれの方法で、彼らの旅の無事を祈った。メカニックたちは、ステラ・マリス・ユニオンに最後の調整を施し、子供たちは、四人にお守りを手渡した。再生したアヴァロンの港から、復興を遂げた街の人々、そしてかつて共に戦った仲間たちの、万雷の声援に見送られ、オーバーホールと改良を終えたステラ・マリス・ユニオンが、再び大空へと舞い上がる。
「行こう!」
リオの弾む声が、青空に高らかに響く。ステラ・マリス号は、黄金の太陽の光をその翼に浴びながら、果てしない空の海へと、力強く飛び立っていった。