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アキト-奈落の牙-

『賢者の塔』で得たアヴァロンの座標。そして、父アウグストゥスがアルケイディアを率い、世界の静寂を企んでいるという事実。彼らの旅は、夢を追う冒険から、世界の運命を賭けた戦いへと、その意味を大きく変えた。その日から、ステラ・マリス号を取り巻く空は、その色合いを変えた。アルケイディアの黒い影が、常に彼らの航路の先にちらついていた。緑の海を後にしてから数週間、彼らは平穏な航海を知らなかった。アルケイディアの追手は、執拗だった。最初は、偵察ドローンの散発的な追跡だけだった。だが、彼らが古代の航路に近づくにつれて、攻撃は熾烈さを増していった。ステルス機能を搭載した無人戦闘機の編隊が、嵐の雲の中から亡霊のように現れ、警告もなくレーザーの雨を降らせてくる。時には、アルケイディアに雇われたのであろう、腕利きの賞金稼ぎたちが、改造された高速艇で襲いかかってきたこともあった。戦いは、彼らを否応なく一つのチームへと鍛え上げていった。


「右舷前方、三機!散開して回り込んでくる!」


リオの、研ぎ澄まされた『マシン・リーディング』が、敵機の機械的な殺意を、レーダーよりも早く捉える。


「了解!マキナ、3秒後に急上昇!敵の射線を交差させる!」


ノアは、コックピットで戦況の全てを把握し、膨大なデータから未来を予測し、最も確実な勝利への道筋を示した。


「言われなくても!しっかり掴まってな、二人とも!」


マキナの神がかり的な操縦が、レーザーの弾幕を、まるで踊るように回避する。リオは、船のエネルギー管理システムに直接意識を接続し、シールドへのエネルギー配分を常に最適化しながら、時折、甲板に出ては『クリエイト』の力で即席の迎撃兵器を組み上げ、反撃の狼煙を上げた。彼らは、幾度となく死線を潜り抜けた。だが、その代償は、ステラ・マリス号の船体に、痛々しい傷として刻み込まれていった。左翼の装甲は、敵機の至近弾で大きくえぐられ、応急処置で貼り付けた金属板が、まるで巨大な絆創膏のように痛々しい。メインエンジンは、戦闘のたびに最大出力で酷使され、最近では老人が咳き込むような、乾いた異音を立てることが多くなっていた。長距離航行用のナビゲーションシステムは、敵の電子妨害で一部の回路が焼き切れ、時折、ありえない方角を指し示し、ノアの計算能力がなければ、とっくに航路を見失っていただろう。船は、まるで歴戦の老兵のように、悲鳴を上げていた。マキナがどんなに丁寧にメンテナンスをしても、根本的なパーツの寿命と、蓄積されたダメージは、もうごまかしきれないレベルに達していた。


ある夜、激しい雷雲帯を命からがら突破した後、ついにメインジェネレーターが、断末魔のような音を立てて沈黙した。船内の明かりが消え、予備電源の赤い非常灯だけが、疲弊しきった三人の顔を照らし出す。


「……もう、限界だね、この子」


マキナが、自分の相棒を労るように、沈黙したコンソールをそっと撫でた。その声には、いつもの快活さはなかった。


「次の目的地を提案します」


暗闇の中、ノアの落ち着いた声が響いた。彼女の瞳が、内蔵電源で淡く光り、ホログラムの星図を宙に描き出す。


「ネオ・バビロン。この宙域で最大級の空中交易都市です。あそこのブラックマーケットならば、テンペスト・ボーダーの航行に耐えうる、高純度のエネルギークリスタルが手に入る可能性があります」


「ネオ・バビロン……」


ノアが示したデータをモニターに映し出し、リオは息を呑んだ。


「地上の資源が枯渇した時代、富裕層が天へと逃れるために建造したという、究極のメガフロート都市。高度なテクノロジーと、極度の貧富の差が同居する、欲望と危険に満ちた場所です」


ノアが冷静に情報を補足する。


「そして何より――アルケイディア社の経済的、軍事的影響力が極めて強い都市でもあります。目立たないように行動することを推奨します」


ノアの警告通り、ネオ・バビロンは彼らがこれまで見てきたどの都市とも異質だった。予備電源だけで、かろうじて飛行しながら近づくにつれ、その異常な姿が明らかになっていく。上層部『セレニア』は、まさに天空の楽園だった。雲を突き抜けるほどの高さまでそびえ立つ、白亜と黄金の摩天楼。その壁面を、巨大なホログラム広告が滝のように流れ落ち、夜でもないのに空を七色に染め上げている。人工の太陽が常に真昼の輝きを放ち、管理された気候システムによって、常に快適な気温と湿度が保たれている。富裕層が乗り回す豪華なスカイ・ヨットが、優雅に空を舞い、その航跡には、きらきらと輝くエネルギーの粒子が尾を引いていた。空気さえも違う。特殊なフィルターで浄化され、微かに甘い花の香りがした。だが、その華やかで豪奢な上層部の下には、分厚いプレートに隔てられ、太陽の光が永遠に届かない、暗く淀んだ下層スラム『タルタロス』が、巨大な巣のように広がっていた。


ステラ・マリス号が高度を下げていくと、世界の彩度が急激に失われていく。セレニアの輝きは、分厚いスモッグと構造物に遮られ、タルタロスに届く頃には、ただの薄暗い残光となっていた。空気は常に湿り気を帯び、様々な人種の言語と、得体の知れない屋台料理の匂い、そしてドブの悪臭が混じり合っている。酸性雨が絶え間なく降り注ぎ、錆びた配管からは、セレニアで使われた汚水が、黒い涙のように滴り落ちていた。人々はフードや傘でその身を守りながら、うつむき加減に、足早に歩いていた。その瞳は、リオがよく知る、希望を失った灰色をしていた。


ステラ・マリス号を放棄されたドックに隠し、三人は目的のブラックマーケットがあるというタルタロスへと足を踏み入れた。その時、空から何かが、雨のように降り注いできた。それは、色とりどりの紙吹雪と、食べかけの高級そうな料理の数々だった。


「うわっ、何だこれ!?」


マキナが空を見上げる。上層プレートの僅かな隙間から、セレニアの摩天楼のバルコニーが見えた。そこでは、着飾った人々が、グラスを片手にパーティーを開いている。彼らは、眼下のタルタロスを見下ろしながら、歓声を上げ、食べ物を投棄していたのだ。彼らにとってそれは、ゴミ捨てであり、あるいは下界の猿に餌をやるような、気まぐれな娯楽なのだろう。しかし、タルタロスの人々は、その「ゴミ」に殺到した。


「『マナ』だ!今日は当たりだぞ!」


「この肉はまだ食える!」


「こっちの果物はほとんど手付かずだ!」


子供も、大人も、老人も、皆、地面に這いつくばって、セレニアから降ってくる残飯を奪い合った。その光景は、あまりに醜悪で、あまりに悲しかった。タルタロスの人々は、天の住人の気まぐれな慈悲、そのおこぼれにすがることでしか、生きていけないのだ。


路地の片隅で、一人の少女が泣いていた。年の頃は10歳くらいだろうか。その手には、羽が半分ちぎれた、蝶の形をした小さな電子玩具が握られている。それは、セレニアの子供が飽きて捨てたものが、偶然タルタロスに落ちてきたのだろう。本来なら、美しい光を放ちながら、ひらひらと宙を舞うはずのおもちゃだ。


「どうしたの?」


ノアが、その少女の前に屈み、静かに問いかけた。


「……トトが、壊れちゃったの。昨日までは、ちゃんと飛んでたのに……」


少女は、しゃくりあげながら言った。彼女にとって、この電子の蝶は、唯一の友達であり、宝物だったのだ。リオが、その玩具にそっと手を触れる。『マシン・リーディング』で、内部の構造を探った。単純な回路の断線だった。これなら、すぐに直せる。リオが懐から携帯ツールを取り出した、その時だった。


「おい、何してる」


背後から、冷たい声がした。見ると、タルタロスの治安維持を担う、サイボーグ警官が二人、威圧的に立っていた。


「セレニアからの廃棄物を、許可なく改造、所有することは、条例で禁止されている。それは、我々が回収する」


警官は、有無を言わさず、少女の手から電子の蝶をひったくった。


「やだ!返して!トトを返して!」


少女が泣き叫ぶ。


「これは、セレニアの所有物だ。お前たち下層の民が、触れていいものではない。理解したか?」


警官は、そう言うと、少女の目の前で、その電子の蝶を、軍用のブーツで、ぐしゃりと踏み潰した。プラスチックが砕け、内部の電子部品が飛び散る、乾いた音が響いた。そして、彼らは何もなかったかのように、その場を去っていった。少女の、絶望したような泣き声だけが、暗い路地に残された。セレニアの住人が気まぐれに捨てたゴミは、タルタロスの住人にとっては夢の欠片になる。だが、そのささやかな夢さえも、この街のシステムは許さない。貧しい者は、夢を見ることさえ罪なのだ。


さらに奥へ進むと、開けた広場から、下品な笑い声と、何かに怯えるような悲鳴が聞こえてきた。広場の中心では、セレニアから降りてきたのであろう、最新のサイバネティクスで身体を強化した、裕福そうな若者たちが、一人のタルタロスの少年を追い回していた。それは、ただの「追いかけっこ」ではなかった。若者たちは、腕に装着した低出力のスタンガンを、逃げ惑う少年に押し付け、彼が感電して苦しむ姿を見て、腹を抱えて笑っているのだ。


「ほらほら、どうした!もっと速く走れよ!」


「こいつ、震えてやがる!面白い!」


彼らにとって、それは退屈しのぎの「スポーツ」であり、タルタロスの住人は、人間ではなく、ただの動く的、おもちゃに過ぎなかった。

少年は、足がもつれて転んでしまう。若者たちが、勝ち誇ったように彼を取り囲んだ、その時。マキナが、動いた。彼女は、近くの屋台の椅子を掴むと、それを唸りを上げて振り回し、若者たちの一団めがけて、ボーリングの球のように投げつけた。


「うわあっ!」


若者たちは、椅子の直撃を食らって吹き飛んだ。


「てめえ!何しやがる!」


「セレニアの市民に手を出して、ただで済むと思ってんのか!」


逆上した若者たちが、マキナに襲いかかろうとする。


「上等だよ。てめえらみたいなクズにはなあ!」


マキナの瞳に、怒りの炎が宿る。だが、彼女がレンチを握るよりも早く、ノアが、若者たちの持つスタンガンの制御システムに、外部からハッキングを仕掛けていた。次の瞬間、若者たちのスタンガンが暴走し、彼ら自身を感電させた。


「ぎゃあああっ!」


醜い悲鳴を上げて、若者たちはその場に昏倒した。助けられた少年は、礼も言わずに、怯えた目でマキナたちを見ると、すぐに人混みの中へと消えていった。この街では、他人を信じることは、死を意味するのだ。


ブラックマーケットへ向かう途中、彼らは巨大な排水溝のそばを通りかかった。そこには、セレニアから流れてくる、化学薬品の混じったヘドロが、川のように流れている。そのヘドロの中に、二人の兄弟らしき少年がいた。兄が、何かを探して、腰までヘドロに浸かっている。弟は、岸辺で咳き込みながら、心配そうに兄を見守っていた。


「兄ちゃん、もうやめようよ…咳が…」


「うるせえ!もう少しだ!もう少しで、あの『フィルターチップ』が拾えるかもしれねえんだ!そしたら、お前のその咳も、少しはマシになる…!」


兄は、そう言って、さらにヘドロの奥へと進んでいく。セレニアで廃棄された、空気清浄機用のフィルターチップ。それは、この汚染されたタルタロスでは、薬よりも価値のあるものだった。だが、兄の足が、ヘドロの底に溜まった瓦礫に取られてしまう。


「うわっ!」


バランスを崩した兄が、ヘドロの中に沈んでいく。


「兄ちゃん!」


弟が、助けようとして、自分もヘドロの中へ飛び込む。だが、病で弱った彼の身体では、兄を助けるどころか、自分自身も溺れていくだけだった。二人は、もがきながら、助けを求めて手を伸ばす。だが、周りの人々は、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。この街では、他人の不幸に構っている余裕など、誰にもないのだ。リオが飛び込もうとしたが、マキナに腕を掴まれて止められる。


「待て、リオ!素人が入ったら、あんたも……やられる……」


その言葉は、冷たいが、真実だった。何もできない無力感に、リオは唇を噛みしめた。やがて、二人の小さな手は、ヘドロの中へと、静かに消えていった。誰も、助けなかった。いや、助けられなかったのだ。この街では、優しさは、時として、共倒れという最悪の結果を招く、ただの毒でしかなかった。


彼らは、人々の視線が一点に集まっている路地裏で、その光景を目撃した。複数の、サイバーアームや強化義足で身体を改造したチンピラ風の男たちに、一人の少年が囲まれている。歳はリオより少し下くらいだろうか。着ているものはボロボロだったが、その瞳は追いつめられた獣のように鋭く、野生的な光を宿していた。色素の薄い銀髪が、薄暗い路地とネオンの光の中で、際立って見えた。


「おい、そこのガキ!お前が隠し持ってるっていう軍用の『ブースターチップ』を渡しな!そいつがあれば、俺たちのサイバーアームも格段にパワーアップできるんだよ!」


リーダー格の男が、腕に埋め込まれた旧式の、しかし威圧的な義手を誇示するように動かしながら、脅すように言った。


「断る。これは、俺の『家族』を守るための大事なもんだ。お前らみたいなハイエナに渡すくらいなら、ここで噛み砕いてやる」


少年は、低く唸るように言い放った。その手には、錆びた鉄パイプが、まるで牙のように握られている。


「ほざきやがって!粋がるんじゃねえぞ!」


多勢に無勢。交渉が決裂したと見るや、チンピラたちが一斉にその少年に殴りかかろうとした、その瞬間だった。リオは、思考よりも先に駆け出していた。


「やめろ!」


リオは、少年の前に立ちはだかった。


「なんだぁ、てめえ。こいつの仲間か?ヒョロっちいのがしゃしゃり出てくんじゃねえよ!」


チンピラの一人が、嘲笑を浮かべて拳を振り上げる。だが、その拳がリオに届くことはなかった。背後から影のように現れたマキナが、携えていた巨大なレンチで、その拳をこともなげに受け止めていた。


「うちのリオに、指一本触れさせてたまるかよ!」


マキナの低い、凄みのある声。同時に、ノアが冷静にチンピラたちの武装と身体能力をスキャンし、その弱点を的確に指摘していく。あっという間に形勢は逆転した。チンピラたちは捨て台詞を吐きながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。少年は、助けられたにもかかわらず、警戒心を解くことなく、錆びた鉄パイプを構えたままリオたちを睨みつけていた。


「……別に、頼んでない。余計な世話だ」


「まあまあ、そう言うなって!アタシはマキナ!こっちはリオとノア!あんた、強いんだね!」


マキナが、その緊張を解きほぐすように、屈託なく笑いかける。


「……アキトだ」


少年は、短く、それだけを名乗った。だが、次の瞬間、アキトの鋭い瞳が、リオを射抜いた。


「……てめえ、気に食わねえな」


「え?」


「その匂いだよ。てめえからは、俺たちみてえなドブの匂いじゃなくて、消毒された、綺麗な世界の匂いがする。勝ち組の匂いだ。そういうやつらが、一番、反吐が出る」


アキトの声には、剥き出しの憎悪がこもっていた。


「俺の親も、そうだった。てめえらみてえな勝ち組に憧れて、そのおこぼれに与ろうとして、全部、ぶち壊しやがった!」


アキトは、吐き捨てるように言った。


「昔、親父が、じいちゃんの形見だった古いデータチップを売り飛ばしたことがあった。中には、子供向けの教育プログラムがぎっしり詰まってたらしい。そいつがあれば、俺たちも少しはマシな知識を身につけられたかもしれねえ。だが、親父は、たった一週間分のブラックマーケットの安酒と、安物の興奮剤のために、それを売りやがった」


「オフクロも同じだ。セレニアの企業が持ちかけた、うまい儲け話に飛びついた。前金でいい暮らしができると舞い上がって、よく読みもせずに契約書にサインした。結果は、法外な利子のついた、事実上の奴隷契約だ。家も、財産も、全部取り上げられて、俺たちはこのタルタロスに叩き落された」


「極めつけは、汚染された水だ。アルケイディアが、正規の半額以下で、再生浄水フィルターをばら撒いたことがあった。もちろん、性能を偽った欠陥品だ。だが、うちの親は、目先の安さに目が眩んで、それに飛びついた。そのせいで……」


アキトは、そこで言葉を切り、唇を噛み締めた。その瞳の奥に、消えない怒りと、深い悲しみが渦巻いていた。


「だから、てめえらみたいな、何も知らねえお坊ちゃん、お嬢ちゃんが、気まぐれで正義の味方ごっこをするのは、見ているだけで、虫唾が走るんだよ」


アキトが、背を向けて立ち去ろうとした、その時だった。


「アキト兄!」


路地の向こうから、小さな子供が、息を切らして走ってきた。


「どうした、タキ!」


「リリィが…!リリィの咳が、また酷くなったんだ!息が、苦しそうなんだよ!」


アキトの、憎悪に満ちていた表情が、一瞬で、深い苦悩と焦りの色に変わった。彼は、リオたちを振り返ることもなく、子供と共に、闇の中へと駆け出していった。


「……行ってみよう」


リオの言葉に、マキナとノアも頷いた。アキトのアジトは、廃棄された地下鉄の、さらに奥深く、地図にも載っていないサービス用のトンネルを利用した、彼らのねぐらだった。入り口は、ガラクタで巧妙に偽装されたバリケードで塞がれ、見張り役の子供たちが、警戒の視線を光らせている。アキトが姿を現すと、子供たちの表情が和らぎ、彼を「アキト兄」と呼んで駆け寄ってきた。だが、見慣れないリオたちを認めると、再び警戒の色を浮かべる。


「…こいつらは、大丈夫だ」


アキトの一言で、子供たちの警戒が解かれる。彼らは、アキトを絶対的に信頼しているのだ。

アジトの内部は、複数の車両を連結させた、一つの小さな町だった。ある車両は、子供たちが肩を寄せ合って眠る寝室に。ある車両は、乏しい食料を分け合う食堂に。そして、別の車両は、ガラクタを修理したり、武器を作ったりする工房になっていた。壁には、子供たちが描いたのであろう、拙いが、希望に満ちた太陽や空の絵が描かれている。彼らは、このネオンの奈落の底で、自分たちだけの王国を築き、必死に生き抜いていた。


一番奥の、比較的綺麗な車両が、医療室のようになっていた。その中央のベッドに、一人の少女が横たわっていた。リリィと呼ばれた、その少女だ。彼女は、アキトよりもずっと幼く、おそらく7歳か8歳くらいだろうか。色素の薄い髪は汗で額に張り付き、その肌は、陶器のように白く、ほとんど透明に見えた。唇は、血の気を失って、わずかに青紫色になっている。胸には、無数のケーブルとチューブが繋がれた、旧式の生命維持装置が取り付けられており、その装置は、ぜいぜいと苦しそうな音を立てて、かろうじて作動していた。リリィは、その機械の助けを借りて、か細く、しかし必死に、呼吸を繰り返していた。その小さな胸が上下するたびに、見ているこちらの胸まで、締め付けられるようだった。


「……リリィ」


アキトが、ベッドのそばに膝をつき、少女の冷たい手を握る。その声は、先ほどの憎悪に満ちた声とは別人のように、優しく、そして痛みに満ちていた。ノアが、その生命維持装置に近づき、静かにスキャンを開始した。


「……心肺機能の、慢性的な低下。長期間、汚染された大気と水に晒されたことが原因と推測されます」


その言葉に、アキトは顔を歪めた。


「……親が買った、安物の浄水フィルターのせいだ。俺たちはみんな、身体を壊した。でも、一番小さかったリリィが、一番、ひどかった……あいつらは、リリィがこんなになるまで、何もせずに……」


アキトの両親は、借金取りに追われ、アキトと、まだ赤ん坊だったリリィを、このタルタロスに置き去りにして、どこかへ消えたのだという。その時、リリィの容態が急変した。激しく咳き込み、生命維持装置の警告音が、甲高く鳴り響く。


「くそっ、こんな時に!」


見ると、アジトの隅にある発電機が、火花を散らして、止まってしまったのだ。予備のパーツもない。このままでは、リリィの生命維持装置も止まってしまう。アキトは、発電機を力任せに蹴飛ばした。


「俺が、パーツを調達してくる。お前らは、ここで待ってろ」


アキトは、そう言うと、再び錆びた鉄パイプを手に、危険な闇の中へ飛び出そうとした。


「待って」


リオが、彼を止めた。


「僕に見せてくれないか。もしかしたら、直せるかもしれない」


「あん?お前みたいな、苦労知らずのボンボンに、何ができるってんだよ」


アキトの瞳には、再び、不信の色が浮かんだ。

リオは、何も言い返せず、ただ静かに、沈黙した発電機の前に屈んだ。そして、その冷たい筐体に、そっと手を触れた。目を閉じると、『マシン・リーディング』によって、発電機の「声」が聞こえてくる。それは、ただの機械の悲鳴ではなかった。その機械に繋がれた、リリィという少女の、か細い生命の鼓動そのものだった。


『苦しい……エネルギーの流れが、詰まってる……あそこの、小さな歯車が、一つだけ、ズレてるんだ……』


リオは、目を開けると、アキトが首から下げている歯車のペンダントを指さした。


「アキト。そのペンダントを、少しだけ貸してくれないか。大きさも、歯の数も、たぶん、あれとぴったり合うはずだ」


「なっ……!親父の形見を、どうしてお前なんかに渡せるってんだよ!」


「分かってる。だから、絶対に傷つけない。信じてくれ。リリィを、助けたいんだ」


リリィを助けたい。その言葉は、リオの心の底から、何の計算もなく、自然と出てきたものだった。この、灰色の世界で見た、小さな命の灯火。それを、消したくない。フィンを救えなかった、グレイを救えなかった、あの時の無力な自分とは、もう違うのだと、証明したかった。

リオの真剣な瞳に、アキトは何かを感じたようだった。彼は、しばらく葛藤した後、無言でペンダントを外し、リオに手渡した。リオの作業は、まるで精密な外科手術のようだった。彼は、問題の摩耗した歯車を外し、代わりにアキトのペンダントを、寸分の狂いもなく設置した。


「……よし」


リオが、スイッチを入れる。すると、発電機は、以前よりもずっと静かで、力強い音を立てて、再び命の光を灯した。アジトに、温かい光が戻る。リリィの苦しそうな呼吸が、少しだけ、穏やかになった。子供たちの、安堵のため息が漏れる。アキトは、信じられないという顔で、発電機とリオを交互に見ていた。そして、ぽつりと呟いた。


「……お前、一体、何なんだよ」


「分からない。でも、聞こえたんだ。こいつの、助けてっていう声が」


リオは、アキトのペンダントを、そっと彼の手に返した。


「この装置は、あまりに旧式です。根本的な解決には、心臓のポンプ機能を制御する『レギュレーター・コイル』と、高純度の『生体エネルギー触媒』が必要です」


ノアが、改めて告げた。


マキナの提案で、四人はそれぞれのパーツを手に入れるため、再び危険なタルタロスの闇へと繰り出した。


マキナとアキトが向かった第7廃棄物処理場は、アルケイディアの自動警備システムが生きている、危険な場所だった。


「おい、本当に大丈夫なんだろうな、お嬢ちゃん」


「誰がお嬢ちゃんだ!マキナって呼びな!いいから、アタシの指示に従いな!」


二人は、互いに悪態をつきながらも、警備ドローンの監視を潜り抜けていく。


彼らは、目的の旧型警備ドローンの残骸が、巨大なプレス機の下にあるのを発見した。だが、そこへたどり着くには、巡回している最新型の戦闘ドローンの群れを突破しなければならない。


「私が陽動する!あんたは、その隙に、あそこの管制コンソールをハッキングして、プレス機を止めな!」


「無茶言うな!あれのセキュリティは、軍事レベルだぞ!」


「アキトならできる!あんたは、このスラムの王様なんだろ!」


マキナの言葉に、アキトの瞳に火が灯る。彼は、マキナが戦闘ドローンを数体引きつけている間に、猛然とコンソールへとダッシュした。彼の指が、驚異的な速さで、物理キーボードを叩いていく。それは、ハッキングというより、獣が獲物を仕留めるような、直感的で、暴力的なタイピングだった。ブザーが鳴り響き、セキュリティが突破される。プレス機が、轟音を立てて停止した。


「よし!」


マキナは、プレス機の下に滑り込むと、レンチで目的のコイルをこじ開けようとする。だが、その時、一体の戦闘ドローンが、彼女の背後からレーザーを放った。


「危ねえ!」


アキトが、マキナを突き飛ばす。レーザーは、彼の肩を掠め、装甲を焼き焦がした。


「……借り、だからな!」


アキトは、痛みに顔を歪めながらも、そう言って不敵に笑った。


一方、リオとノアが向かった闇医者『ドク・クロウリー』の診療所では、別の戦いが繰り広げられていた。


「ならば、力づくで奪ってみるか?俺の『コレクション』たちを、突破できればの話だがな」


クロウリーの合図で、改造手術を施された、グロテスクなサイボーグたちが姿を現した。絶体絶命。だが、ノアは冷静だった。


「リオ。あなたの力を見せてください。彼らは、機械であると同時に、元は人間。その心に、語りかけるのです」


リオは、目を閉じて意識を集中させた。サイボーグたちの、苦しみに満ちた機械の唸り。その奥から、微かな「声」が聞こえてくる。


『痛い』

『助けて』

『こんな姿になりたくなかった』


彼らは、クロウリーに支配された、哀れな犠牲者だった。リオは、彼らに向かって、心の中で語りかけた。


『もう、戦わなくていい。君たちは、自由だ』


その言葉が、蒼い光となって、サイボーグたちを包み込む。すると、彼らの動きが、ぴたりと止まった。そして、その武器を、自らの主人であるクロウリーへと向けたのだ。


「な、何だと!?裏切りやがったのか!」


狼狽するクロウリーを尻目に、リオとノアは触媒を手に、その場を脱出した。


アジトに戻った四人は、それぞれの戦利品を手に、リリィの生命維持装置に向き合った。数時間に及ぶ作業の末、リリィの胸に付けられたインジケーターが、不安定な赤から、穏やかな緑の光へと変わった。彼女の呼吸が、深く、安らかなものになる。


「やった……!」


「リリィが、息を……楽にしてる……!」


子供たちの、歓喜の声が上がった。アキトは、何も言わずに、ただリリィの手を握り、静かに涙を流していた。


その夜、アジトには、久しぶりに穏やかな空気が流れていた。子供たちは、回復したリリィを囲んで、ささやかなお祝いをしている。アキトが、一人でアジトの外れの、酸性雨が滴る通路に座っているリオの隣に、無言で腰を下ろした。そして、ポケットから、少し潰れたレーションバーを半分に折り、片方をリオに差し出した。


「……食えよ」


それは、このアジトでは、最高のもてなしだった。


「ありがとう。」


リオがそれを受け取ると、アキトは、自分の父親の形見である歯車のペンダントを、指で弄びながら、ぽつりと言った。


「……さっきは、悪かったな。怒鳴ったりして」


「ううん、気にしてない」


「……お前、変なやつだな。俺だったら、あんなこと言われたら、ぶん殴ってる」


「僕は、そういう風には、できないんだ」


リオは、自分の父親の話はしなかった。だが、その言葉の裏にある、深い悲しみを、アキトは感じ取ったようだった。リオは、アキトのペンダントに、修理の際にできた、僅かな傷があるのに気づいた。彼は、そっとペンダントに手を伸ばした。


「少し、見せて」


アキトは、一瞬、身を硬くしたが、されるがままになった。リオは、ペンダントに指を触れると、目を閉じた。彼の指先から、微かな蒼い光が放たれる。それは、『クリエイト』の、ほんの僅かな応用だった。光が消えた時、ペンダントの傷は、跡形もなく消えていた。


「……!」


アキトは、驚きに目を見開いた。


「これで、お父さんの形見も、安心だ」


リオは、静かに笑った。アキトは、何も言わなかった。ただ、ペンダントを強く握りしめ、そして、初めて、心の底からの、穏やかな笑みを浮かべた。光の中で育ち、全てを与えられてきた少年。闇の中で育ち、全てを奪われてきた少年。二人の間には、言葉を超えた、確かな信頼が生まれたはずだった。


だが、その平穏は、長くは続かなかった。

アジトの入り口が、轟音と共に吹き飛んだ。アルケイディアの強襲部隊だ。黒い戦闘服に身を包んだ兵士たちが、寸分の隙もなくアジトを包囲する。


「アキト!子供たちを連れて、隠れろ!」


リオが叫ぶ。残されたリオ、マキナ、ノアの三人の前に、あの鉄仮面の司令官が、再び姿を現した。


「やはり、お前だったか。私の、最高傑作」


父、アウグストゥス。


「リオ。私の元へ戻ってこい。お前のその『クリエイト』の力は、この不完全な世界を浄化するためにこそ必要なのだ」


父は、右手をリオに向けた。その掌から、暗黒の渦のような、負のエネルギーが渦を巻いて放たれる。リオは咄嗟にスクラップの防御壁を生成したが、父の力はあまりに強大で、壁はまるで砂の城のように、いとも簡単に崩れ去っていく。恐怖が、リオの心を再び支配しようとする。


「てめええええっ!」


その時、アキトが、隠れ場所から飛び出してきた。父親を殺し、自分たちの生活を奪った、憎きアルケイディアの司令官。その姿を認め、怒りに我を忘れたのだ。彼は、鉄パイプを握りしめ、アウグストゥスめがけて、一直線に突っ込んでいった。


「やめろ、アキト!」


リオの叫びも、届かない。アウグストゥスは、突進してくるアキトを、まるで虫けらでも見るかのように、冷たく一瞥した。そして、指を鳴らす。二人の兵士が、アキトを、いとも簡単に取り押さえた。


「リオ。よく見なさい。これが、感情に支配された、愚かな人間の末路だ。予測不可能で、非効率で、無価値な存在」


父は、アキトを人質に取り、リオに語りかける。その時だった。


「アキト兄を、離せ!」


アジトの隠れ場所から、子供たちが、一斉に飛び出してきた。先頭に立つのは、まだ病み上がりで、足元もおぼつかない、リリィだった。彼らは、手に手に、ガラクタや石ころを握りしめ、憎しみの形相で、アルケイディアの兵士たちにそれを投げつけた。


「アキト兄を、いじめるな!」


「この、人殺し!」


それは、あまりに無力で、あまりに健気な、反抗だった。アウグストゥスは、その光景を、心底、不快そうに眺めていた。


「これだ。これなのだ、リオ。私が、この世界から消し去りたいと願う、『ノイズ』は」


父は、リオに向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。


「お前の教育のために、この無価値なノイズが、いかに無意味で、いかに簡単に消去できるものか、見せてやろう」


そして、言った。


「消去しろ」


その、冷たい、たった一言の命令。次の瞬間、アルケイディアの兵士たちは、何の躊躇もなく、子供たちに、ライフルを向けた。乾いた発砲音が、トンネルに響き渡る。悲鳴を上げる間もなかった。リリィも、タキも、他の子供たちも、皆、次々と、赤い花を咲かせて、その場に崩れ落ちていった。それは、戦闘ではなかった。ただの、一方的な、虐殺だった。


「ああ……あああああああああああああっ!」


アキトの、絶叫が、響き渡った。彼は、自分の目の前で、守るべき家族が、全て、塵のように消されていく光景を、ただ、見ていることしかできなかった。リオは、凍りついていた。手も、足も、声も、出なかった。父が語っていた、理想の世界。その、悍ましい、本質。それを、今、目の当たりにしていた。


「理解したか、リオ。感情は、こうして、無に帰すのだ。私の創る世界に、このような悲劇は、存在しない。なぜなら、悲しむ心そのものを、私が消し去るのだから」


父の言葉が、遠くに聞こえる。違う。違う、違う、違う!悲しいんじゃない。怒っているんだ。許せないんだ。僕の仲間を、僕の友達を、僕が見つけた、温かい光を、お前が!


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


リオの身体から、蒼穹の空の色をした、眩い光のエーテルが、奔流となって噴き出した。それは、これまでとは比較にならないほど、強大で、そして、悲しみに満ちた、怒りの光だった。光は、アキトを拘束していた兵士たちを吹き飛ばし、父の暗黒のエーテルを、完全に打ち消し、霧散させた。


「……ほう。感情は、これほどのエネルギーを生むか。興味深いサンプルだ。だが、いずれ、お前も私の元へ来る」


父はそう言うと、部隊に撤退を命令し、部下と共に闇の中へと消えていった。後に残されたのは、血の匂いと、硝煙の匂い、そして、完全な、死の静寂だけだった。アキトは、崩れ落ちたまま、動かなかった。その瞳からは、光が消えていた。彼は、リリィの、まだ温かい、小さな亡骸を、ただ、抱きしめていた。


数日後。エネルギークリスタルを手に入れ、ステラ・マリス号の修理を終えたリオたちの前に、アキトが、一人で現れた。その瞳には、もう涙はなかった。ただ、全てを焼き尽くすような、冷たい炎だけが宿っていた。


「俺を……お前たちの船に乗せてくれ」


その声は、感情を失っていた。


「アルケイディアは、親父の仇だ。だが、もう、そんなことはどうでもいい。あいつらは、リリィを殺した。俺の、家族を、皆殺しにした。だから、俺は、あいつらを皆殺しにする」


その言葉は、復讐の誓いだった。


「俺は、お前たちのような家族が欲しいんじゃない。俺は、アルケイ...ディアを、あの男を、このクソったれな世界を、燃やし尽くすための、力が欲しいんだ」


リオは、アキトの、凍てついた瞳を見つめ返した。そして、何も言わずに、彼の手を強く、強く握った。


「ようこそ、ステラ・マリス号へ。アキト」


灰色の世界から逃げ出した少年、空飛ぶジャンク屋の少女、悠久を旅するアンドロイド、そして復讐の炎に身を焦がす裏路地の牙。目指すは、すべての始まりと終わりの場所、アヴァロン。父が支配する、静寂の要塞へ。

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