ノア-忘れられた人形-
リオが自らの夢を見つけてから、ステラ・マリス号の旅は新たな熱を帯びていた。マキナの夢であったアヴァロン探しは、今や二人の共通の目標となった。それはもはや、漠然とした伝説を追う冒険ではなく、リオにとっては自分自身の存在理由を探す旅でもあった。彼の『クリエイト』能力は、オールド・クロウとの一戦を経て、より安定し、その精度を高めていた。船の補修やジャンクパーツからのアイテム生成に留まらず、時にはマキナも驚くような奇抜な発明で、幾度となく彼らの危機を救った。次なる目的地を定めあぐねていたある夜、マキナは祖父ザックが遺した、油と歳月で茶色く変色した航海日誌を再び開いていた。
「うーん…『アヴァロンは雲海の果て、巨人の寝床の先に眠る』って記述だけじゃ、範囲が広すぎて…」
彼女は、日誌の余白にびっしりと書き込まれた、謎の記号やスケッチを指でなぞりながら唸っていた。それは、ザックが旅の途中で見聞きした伝承を、彼独自の暗号で書き留めたものだった。
「じいちゃん、字が汚い上に暗号だらけなんだよな。大事なことなんだろうけど、これじゃあ…」
マキナが諦めかけたその時、リオが隣からそっと日誌を覗き込んだ。
「このスケッチ…ただの絵じゃないかもしれない」
リオが指さしたのは、何かの植物の葉脈と、夜空の星座を重ね合わせたような、不思議な絵だった。
「触れてもいい?」
「え?あ、ああ…」
リオが、その古びた紙にそっと指を触れる。そして、目を閉じ、意識を集中させた。『マシン・リーディング』。それは、無機物である機械だけでなく、物質に残された微かな「記憶」の痕跡さえも読み解くことができるようになっていた。リオの脳裏に、ザックの記憶の断片が流れ込んでくる。焚き火のそばで、見知らぬ土地の老人から、古い伝説を聞いているザックの姿。
『…緑の海の賢者は、星の言葉を解し、天への道を知る…』
『…森で最も古き大樹の葉脈は、天の川の写し絵じゃ…』
「……マキナ」
リオは目を開けた。
「この絵は、地図だ。『緑の海』にある、『歌う大樹』と呼ばれる場所を示してる。そして、その葉脈の模様が、アヴァロンへと続く星々の航路図になってるんだ。君のおじいさんは、そう信じて、これを書き留めた」
「緑の海の……歌う大樹……」
マキナは、日誌の別のページを慌ててめくった。そこには、彼女が子供の頃に何度も見た、天を突く巨大な木の、幻想的なスケッチが描かれていた。
「あった……!じいちゃんの夢物語だと思ってたけど、本当だったんだ!よし、決まりだ!次の目的地は『緑の海』!アヴァロンへの地図を、絶対に見つけ出すぞ!」
マキナの瞳が、確信に満ちた輝きを取り戻す。祖父が遺した謎を、リオの力が解き明かした。二人の絆が、伝説への扉を、また一つ開いた瞬間だった。
彼らが向かった『緑の海』は、その名に違わず、大陸の三分の一を覆い尽くす広大な森林地帯だった。上空から見下ろす景色は、見渡す限りの緑の濃淡が、風にうねる巨大な海原そのものだ。それは、リオが知るセクター7の、制御され、規格化された無機質な世界とは対極にあった。ここでは、生命が何の制約もなく、あるがままの姿で爆発していた。高さ数百メートルはあろうかというシダ植物が、古代の塔のようにそびえ立ち、その間を、色鮮やかな鳥とも魚ともつかない生物たちが、群れをなして滑空していく。空気は濃密な湿気と、むせ返るような植物と土の匂いに満ちており、呼吸をするだけで、生命そのものを体内に取り込んでいるかのような錯覚に陥った。
「すっごい……こんな場所が、本当にあったんだ……」
リオは、丸窓に額を押し付け、生まれて初めて見る圧倒的な大自然に、言葉を失っていた。灰色の世界で電子教科書の低解像度の画像でしか見たことのなかった「森」という概念が、今、五感の全てを揺さぶる現実となって彼の前に広がっている。風が木々を揺らす音、無数の生命が発する鳴き声、湿った土の匂い、肌を撫でる生命力に満ちた大気。その全てが、彼の知る世界の常識を根底から覆していた。
「だろ?じいちゃんも言ってた。世界は、俺たちが思ってるより、ずっと広くて、ずっと美しいんだってさ」
マキナは、誇らしげに言った。彼女にとっても、この光景は祖父から聞かされたおとぎ話が現実になった瞬間であり、その瞳は子供のように輝いていた。マキナがそう言って笑った、その時だった。
ピ、ピ、ピ……。
コックピットに、微弱で、しかし周期的な電子音が響き渡った。旧式のレーダーコンソールが、小さな光点を、まるで消えそうな蛍のように明滅させている。それは、この生命力に満ちた森の中ではあまりに異質で、機械的な、孤独な響きを持っていた。
「救難信号?こんな森のど真ん中から?」
マキナは眉をひそめた。信号は極めて弱く、今にも途切れそうだ。それはまるで、溺れる者が最後に伸ばした指先のように、か弱く、しかし必死に助けを求めていた。
「どうする、マキナ?罠かもしれない。オールド・クロウみたいな連中が、おびき寄せるために使ってる手口かもしれないぜ」
操縦席の隣で警戒していたアキトが、低い声で言った。彼の経験則が、安易な同情に警鐘を鳴らす。
「……かもしれない。でも、じいちゃんが言ってた。『空で聞こえる助けてって声は、たとえ悪魔の罠でも、見過ごす船乗りになるな』ってね」
マキナはニッと笑うと、操縦桿を倒した。その瞳には、危険を承知の上で、それでもなお人としての情を選び取る、船乗りとしての誇りが宿っていた。
「行ってみよう、リオ」
「うん」
リオも頷いた。困っている誰かを見過ごすという選択肢は、今の彼らにはなかった。信号の発信源へと向かうと、そこは一際巨大な木々が密集し、大聖堂のように荘厳な静けさに包まれたエリアだった。空を覆い尽くすほどの枝葉が陽光を完全に遮り、地上は昼間とは思えないほど薄暗い。その中心部に、まるで巨大な蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のように、一隻の流線形の輸送船が不時着していた。船体は、この森の主であるかのように絡みついた巨大な蔦によって半ば森と一体化し、機体のあちこちには、高出力のレーザー兵器によるものと思われる、黒く焼け焦げた痕が生々しく残っていた。それは比較的新しい形式の船だった。こんな古代の森の奥深くまで飛んでくること自体が、極めて不自然だった。
ステラ・マリス号を近くの開けた場所に着陸させ、三人は武装と工具を手に、恐る恐るその船に近づいた。開け放たれたままの搬入口から船内に足を踏み入れると、そこは凄惨な戦闘の跡地だった。廊下の壁は抉られ、床には夥しい数の戦闘用ドローンの残骸が、無残な骸となって転がっている。どれも最新式の、高度なAIを搭載した軍用機体だ。それらが、まるで赤子の手をひねるかのように、一方的に、効率的に破壊し尽くされていた。襲撃者の、圧倒的な戦闘力が窺える。
「一体、何があったんだ……生存者はいるのかな」
マキナが息を呑む。二人は、船の中枢部であると思われる、厳重にロックされた船倉へと進んだ。厚い金属の扉は、外部からではなく、内側からこじ開けられたかのように、激しく歪んでいた。その中央で、彼らは一体のアンドロイドを発見した。それは、女性の姿をしていた。陽の光を知らないかのような、透き通る銀色の髪が、床まで届くほど長く、穏やかな波を描いている。彫刻家が理想の美を追い求めて、完璧な黄金比で作り上げたかのような、気品のある顔立ち。そのボディラインは、白い滑らかな装甲に覆われながらも、女性らしい柔らかな曲線を描き、特にその豊かな胸の膨らみは、生命の豊穣さそのものを象徴しているかのようだった。その顔立ちは、リオが父のデータバンクで見た、若き日の母リリスの面影を、強く彷彿とさせた。彼女は、破壊され尽くしたドローンの残骸に囲まれながら、まるで瞑想でもするかのように、あるいは悠久の時を眠る女神のように、静かに目を閉じて座っていた。その姿は、混沌とした破壊の光景の中で、異様なほど静謐で、神聖な雰囲気を放っていた。まるで、この世の争いなど我関せずと、超越しているかのように。
「生き残りかい?大丈夫か?」
マキナが声をかけるが、アンドロイドは微動だにしない。リオは、何か不思議な引力に導かれるように、そっと彼女に近づいた。機械に対する好奇心だけではない、もっと根源的な、魂が惹きつけられるような感覚。そして、その冷たいはずの金属の腕に、自分の掌を、祈るように触れさせた。瞬間、リオの頭の中に、文字通り、宇宙がなだれ込んできた。閃光。レーザーが飛び交う、船内の激しい戦闘の映像。それは単なる記録映像ではなかった。破壊される機械の痛み、攻撃する者の無機質な殺意、そしてそれらをただ傍観する、絶対的な静寂の視点。 理解を超えた複雑な数式が、星々の生まれる銀河の渦となり、彼の精神を飲み込む。万物の法則を示すかのような、美しい幾何学模様が、生命の設計図となって目の前で組み上がっては崩れていく。古代の壁画に描かれた、未知の象形文字が、意味のある言葉となって彼の魂に直接語りかけてくる。 果てしない星々の海を示す、三次元の星図が広がる。それは彼らが旅してきた空ではなかった。時間と空間を超えた、全ての可能性が共存する、高次元の地図。その中心に、ひときわ強く、そして、計り知れないほど深く、悲しげに輝く一点があった。 そして、彼の脳内に、合成音声ではない、もっと根源的な「声」が直接響き渡った。
『我はノア。記憶の海の航海者。時の岸辺の監視者。汝、我を目覚めさせる者よ。汝の魂は、懐かしい歌を奏でる。汝の名は?汝の問いは?』
情報の奔流は、リオの精神を激しく揺さぶり、彼の矮小な自我を飲み込もうとするかのようだった。彼は、自分が「リオ」という個人であることさえ忘れ、無限の情報の海に溶けていくような感覚に襲われた。彼は思わず呻き声を上げ、その場に膝をついた。
「リオ!?どうしたんだ、しっかりしろ!」
マキナが駆け寄り、その肩を支える。彼女の声が、現実世界へと繋ぎ止める、唯一の錨となった。
「……大丈夫……。今、彼女の記憶が……いや、記憶じゃない。もっと大きな、何か……彼女の魂に、触れたんだ」
リオは荒い息をつきながら、もう一度アンドロイドを見つめた。彼女は、ただのアンドロイドではない。一つの生命体ですらない。彼女は、宇宙そのものの記録を内包した、生ける図書館であり、時の流れを見つめ続けてきた、孤独な観測者だった。
「彼女は、壊れているわけじゃない。スリープモードに入ってるだけだ。外部からの強力なハッキングで、強制的にシャットダウンさせられたんだ。でも、ただのシャットダウンじゃない。自分の精神宇宙の、一番深い場所に、鍵をかけて閉じこもってる。あまりにも多くの情報と、悲しみを、その内に抱え込みすぎて…」
流れ込んできた情報の中から、リオは彼女のシステム構造を直感的に読み解いていた。それは、これまで彼が触れてきたどの機械よりも、複雑で、精巧で、そして美しかった。それは機械というより、一つの小宇宙だった。リオは、彼女の精神の迷宮の最深部で、固く閉ざされた扉を見つけ出した。扉を開ける鍵は、暴力的なハッキングではない。共感。彼女の孤独を理解し、その扉を優しくノックすること。 リオは再び立ち上がり、彼女の首筋にあるポートに指を触れた。そして、自分の心の全てを込めて、特定のパターンで、問いかけるような信号を送る。
『僕はリオ。君の孤独は、分からないかもしれない。でも、君を、助けに来た』
数分後、アンドロイド――ノアは、数千年の眠りから覚めるかのように、静かにその瞼を開いた。現れたのは、森の奥深くにある、誰も知らない湖の色を映したような、どこまでも澄み切った蒼い瞳だった。その瞳は、ただそこにあるだけで、世界の全ての真理を見通しているかのような、深遠な光を宿していた。その瞳が、じっとリオを見つめる。
「……自己診断、完了。システム正常。精神宇宙のロックを解除したシグナルを確認。……あなたの魂の響きは、私の創造主の一人、リリス様に酷似しています。あなたは、何者ですか?」
その声は、落ち着いたアルトの響きを持ち、聞く者の心を穏やかにさせる、不思議な力を持っていた。
「うわ、喋った!アタシはマキナ!こっちはリオ!あんたを助けに来たんだよ!」
マキナが興奮気味に言う。
「……ノア、と呼んでください。私の識別コードはN-0A-H。ですが、かつての主は、そう呼んでいました。私は、この船で輸送されていた、古代文明の情報を保存・解析するために開発された、自律思考型アンドロイドです」
ノアはゆっくりと立ち上がると、周囲の惨状を一瞥した。その瞳には、驚きも悲しみも浮かんでいない。ただ、事実を事実として認識しているかのような、静かな光があるだけだった。そして、再びリオたちに向き直った。
「あなた方がここに来たということは、私が最後の瞬間に放った、微弱な救難信号に応えてくださったのですね。感謝します。私は、『アルケイディア』社の私設部隊による襲撃を受け、この船は緊急着陸を余儀なくされました」
アルケイディア。その名前に、リオは心臓が冷たくなるのを感じた。父の会社『オルクス動力』と、エネルギー技術に関する提携を結んでいる、巨大複合企業だ。
「アルケイディアに、なぜ襲われたんだ?」
マキナの問いに、ノアは静かに答える。その脳裏に、数日前の戦闘の記憶が、鮮明に蘇っていた。警報が鳴り響く前、ノアは船の異変を察知していた。空間に、不自然なエネルギーの揺らぎ。それは、獲物を狙う捕食者の気配に似ていた。
『船長、進路上に高エネルギー反応。ステルス機能を持つ艦隊と推測されます』
ノアが警告を発した直後、船は激しい衝撃に見舞われた。空間偽装を解いたアルケイディアの黒い艦隊が、亡霊のように姿を現し、一斉に攻撃を開始してきたのだ。
『敵襲!総員、戦闘配置!積荷を死守しろ!』
船長の怒声が響き、警備ドローンが発進していく。だが、ノアはそれが無駄な抵抗であることを理解していた。敵の戦力は、こちらの数十倍。そして、その動きには一切の無駄も躊躇もなかった。
『私が、船の防衛システムを管制します』
ノアは、船のメインシステムに直接リンクした。彼女の思考速度は、人間の比ではない。無数の計算式が脳内を駆け巡り、敵艦隊の動きを予測し、迎撃レーザーの最適な射角とタイミングを算出していく。彼女の指先から放たれる命令に従い、輸送船の砲塔が火を噴き、数隻の敵機を撃墜する。だが、敵の指揮官は、それすらも計算の内、とでも言うように、冷静だった。味方の犠牲を厭わず、一点集中の飽和攻撃を仕掛けてくる。それは、効率だけを追求した、魂のない戦術。アウグストゥスを彷彿とさせる、冷徹な采配だった。やがて、敵の強襲部隊が船内に侵入してきた。黒い強化装甲に身を包んだ兵士たちは、感情なく、ただプログラムに従う機械のように、警備ドローンを破壊し、船員たちを無力化していく。ノアは、最後の手段として、船倉の扉をロックし、自身の内部システムにアクセスした。彼女のボディは戦闘用ではない。だが、彼女の中には、古代文明のオーバーテクノロジーが眠っている。
『限定機能解放。慣性制御フィールド、起動』
彼女がそう意図すると、船倉に侵入しようとしていた兵士たちが、目に見えない壁に叩きつけられたように吹き飛んだ。彼女の周囲の空間そのものが、斥力フィールドと化していたのだ。 しかし、その力は莫大なエネルギーを消費する。長くはもたない。敵の指揮官は、扉が破れないと判断するや、船のエンジンを直接狙うという非情な手段に出た。船体が大きく傾き、墜落していく。
『…これまで、ですか』
ノアは、自身の敗北を悟った。だが、彼女に搭載された最重要情報だけは、渡すわけにはいかない。それは、彼女を創り出したマスターたちとの、最後の約束だったからだ。
『全情報記録を、精神宇宙の最深部に封印。システムを、コールドスリープモードに移行します』
意識が遠のく直前、彼女は残った全てのエネルギーを使い、微弱な救難信号を、未知の未来へと放った。それは、万に一つの可能性に賭けた、祈りにも似た行為だった。
「……彼らの目的は、私が輸送していたデータ。そして、そのデータが指し示す、究極のエネルギー…『エーテル』です」
「エーテル……?」
マキナが聞き返す。
「ええ。宇宙に満ちる、万物の創造と破壊を司る根源的な力。伝説では、かの空中都市アヴァロンを、重力に逆らって大空に浮かばせているのも、このエーテルの力によるものだとされています」
ノアの頭脳には、文字通り図書館数万冊分に相当する、古代文明に関する膨大な知識が蓄積されていた。彼がマキナの持つ古地図を一瞥するなり、その曖昧だった部分は次々と解読されていった。
「この地図に記された『賢者の塔』は、物理的な建造物ではありません。それは、比喩表現です。この森そのものが、塔の役割を果たしています。この森の生態系ネットワーク全体が、一つの巨大な記憶装置として機能しているのです」
ノアは、ステラ・マリス号のホログラムモニターに、森の三次元マップを映し出す。それは、ただの地形データではなかった。森のエネルギーの流れ、情報の伝達経路が、美しい光の川となって可視化されていた。
「そして、そのすべての情報にアクセスするためのメイン・ターミナルが、森の中心部に存在する『歌う大樹』。そこが、この森という賢者の塔の、メインサーバーに繋がる唯一の入り口です」
ノアの案内で、三人はステラ・マリス号を森の奥深くへと進ませた。
ノアが仲間になってから、船内の空気は少しだけ変わった。リオが、頻繁にノアに質問をするようになったのだ。古代文明のこと、機械の構造のこと、星々の名前のこと。ノアは、そのどんな問いにも、淀みなく、そして丁寧に答えてくれた。その姿は、まるで博識な教師か、あるいは優しい母親のようだった。リオは、ノアの中に、失われた母の面影を無意識に重ねていた。彼女の落ち着いた声、すべてを見通すような優しい眼差し、そして、時折見せる哀しげな表情。その全てが、彼の心の渇いた部分を潤していくようだった。マキナは、そんな二人の様子を、少し離れた場所から、面白くなさそうに眺めていた。彼女は、自分の胸の内で渦巻く、もやももやとした感情の正体が分からなかった。ただ、リオが自分以外の誰かと親しげに話しているのを見ると、なぜだか無性に、レンチで何かを殴りつけたくなった。
「おい、リオ!アンドロイドとばっか話してないで、こっちのジェネレーターの調子も見てくれよ!」
わざと大きな声で、マキナはリオを呼んだ。そして、彼の背中を、いつもより少しだけ強く、バシンと叩いた。その感情が「嫉妬」と呼ばれるものであることに、彼女が気づくのは、まだ少し先の話だ。
『歌う大樹』へ向かう道中、ノアの神秘性は、より顕著に現れ始めた。ステラ・マリス号が森の特定のエリアに差し掛かると、ノアはマキナに航路の変更を指示することがあった。
「マキナ。この先の谷は、今は通るべきではありません。三時間後、月の光が谷底に差し込むまで、待つことを推奨します」
「なんでだよ?レーダーには何にも映っちゃいないぜ」
「谷に生息する『月光茸』が、胞子を放出する時間だからです。その胞子は、金属を急激に腐食させる性質を持っています。ですが、月の光を浴びると、胞子は不活性化します」
ノアは、計器に頼らず、まるで森そのものと対話するかのように、自然のサイクルを完璧に把握していた。彼女の言う通り、三時間後に谷を通過すると、岩壁にはおびただしい数の茸が青白い光を放っており、その下には以前ここを通ろうとして墜落したであろう、古い船の残骸が苔むして転がっていた。
ある時は、巨大な湖のほとりで休息を取っていた。空の青を映して、まるで巨大なサファイアのように輝く湖。その時、湖の水面が静かに盛り上がり、巨大な影が姿を現した。それは、島ほどの大きさを持つ、巨大な亀だった。その甲羅は、千年以上の歳月をかけて、苔と森に覆われている。その瞳は、古びた琥珀のように深く、計り知れないほどの叡智を宿していた。
「うわああ!何だこいつは!」
マキナは慌ててレンチを構える。だが、亀は敵意を見せず、ただ静かに三人のことを見つめていた。その時、リオとノアの脳内に、直接、重々しく、そして優しい声が響いた。
『…久しぶりだな、記録者ノアよ。そして…新たなる、歌い手か』
「あなたは…?」
リオが問いかける。
『我は、この森の記憶そのもの。古き者たちが「ガイア」と呼んだ存在だ。アルケイディアの者たちが、この森を傷つけている。彼らの鉄の身体は、不協和音を奏で、森の歌を乱しているのだ』
亀――ガイアは、彼らに一つの試練を与えた。湖の底に沈む、汚染された古代の機械装置を、森を傷つけずに浄化すること。それは、力だけでは解決できない、知恵と調和が求められる試練だった。マキナの操縦技術で湖の底に潜り、リオの『マシン・リーディング』で汚染の原因を突き止め、ノアの知識で安全な浄化方法を導き出す。三人の力が一つになった時、機械は再び穏やかな光を取り戻し、湖の水は一層その輝きを増した。
『見事だ、人の子らよ。お前たちには、調和を奏でる資格がある。行け、歌う大樹へ。だが、心せよ。お前たちの前には、森の怒りよりも深い、人の心の闇が立ちはだかるだろう』
ガイアはそう言うと、再び静かに湖の底へと姿を消していった。
「今の…何だったんだ?頭の中に、直接…」
マキナは混乱していた。
「あれは、この星の集合意識体…ガイアです。この森の全ての生命は、彼を通じて繋がっています。彼は、私のような記録者と、そしてリオ、あなたのような『歌い手』…つまり、エーテルを通じて世界と調和できる者とのみ、対話が可能なのです」
ノアの説明は、リオに大きな衝撃を与えた。自分の力が、ただ機械の声を聴くだけのものではない、もっと大きな、世界そのものと繋がるための能力である可能性を示唆していたからだ。ノアは、彼にとっての道標となり始めていた。
ガイアに示された道を進むと、彼らは蔦に覆われた、古代の小さな研究施設の遺跡を発見した。
「じいちゃんの日誌にも載ってない場所だ……」
内部には、誰もおらず、ただ静寂が満ちていた。だが、中央のコンソールに触れると、古代のホログラムログが再生された。そこに映し出されたのは、ノアの創造主である、ライアスと名乗る老賢者だった。そして、その隣には、驚くべきことに、若き日のリオの母、リリスによく似た女性科学者の姿があった。
『ノア、君は我々の希望だ』
ライアスは、まだ生まれたばかりのノアに向かって、優しく語りかけていた。
『エーテルは、世界を豊かにする力にも、全てを無に帰す災厄にもなりうる。我々はその力を、自然と共生するために使いたい。アルケイディアのように、支配の道具にするのではなく……」
ホログラムの中の女性科学者が、言葉を継ぐ。
『この研究は、危険すぎるわ。でも、誰かがやらなければ……人と機械が、心で繋がる未来のために』
ノアの瞳が、初めて大きく揺らいだ。
「……リリス様……」
「知っているのか、ノア?」
「彼女は、私の創造主の一人。そして、遥か未来の時代から、時を超えて我々の研究に協力してくれた、異世界の科学者でした。彼女は、二つの世界の調和を夢見ていた……」
『歌う大樹』が近づくにつれて、森の様子は不穏なものへと変わっていった。アルケイディアが設置したと思われる、無機質な探査ドローンが森を徘徊し、木々を無差別に焼き払っている。その光景を見た時、ノアの動きが、ぴたりと止まった。彼女の蒼い瞳が、激しく揺らぎ始める。
『……排除……しなければ……』
彼女の口から、か細い、押し殺すような声が漏れた。そして、リオの脳内に、凄まじい勢いで、ノアの過去の記憶が、トラウマの奔流となって流れ込んできた。
その星は、双子の太陽に照らされ、空は常に淡い紫色をしていた。大地は水晶の砂漠に覆われ、植物は金属質の葉を持ち、風が吹くたびにガラスの風鈴のような音を奏でる、静かで美しい世界だった。ノアは、若き日のアウグストゥスと共に、この未踏の惑星に降り立っていた。当時の彼は、まだアルケイディアの一研究員に過ぎなかったが、その瞳の奥には、後の彼を彷彿とさせる、効率と秩序を求める冷たい光が宿っていた。彼らの目的は、この星の地下に眠る、高純度のエーテル結晶の調査だった。調査を進めるうち、彼らはこの星の原生生物『シルフ』と遭遇した。シルフは、半透明の身体を持ち、風に乗って砂漠を漂う、クラゲのような優美な生物だった。彼らは声帯を持たず、テレパシーによってコミュニケーションをとる。その思念は、純粋で、何の悪意も感じられなかった。ノアは、その優れた解析能力で、すぐにシルフとの対話に成功した。シルフたちの集合意識から送られてくる思念は、切実な「祈り」だった。
『我らは、進化の終着点に至りました。これ以上、変わることのできない、永遠の停滞。それは、緩やかな死です。我らは、変化を、次なるステージへの飛躍を求めています。我らの魂を、この星の循環から解き放ち、大いなる流れへと還してください。それが、我らの唯一の救済なのです』
彼らの思念は、悲しみに満ちていたが、同時に、絶対的な覚悟と、解放への渇望に満ちていた。ノアは、彼らの純粋な願いに、心を動かされた。アンドロイドである彼女には理解できない、生命の根源的な苦しみ。それを救うことができるのなら。彼女は、アウグストゥスに報告した。
「彼らは、自らの存在の消滅を望んでいます。それは、彼らにとっての『救済』であると」
アウグストゥスは、興味深そうに眉を上げた。
「ほう、面白い。生命とは、本来、生存を第一とするプログラムのはずだ。自ら死を選ぶとは、非合理的極まりない。だが、その願い、君になら叶えられるのではないかね?ノア」
「私に…ですか?」
「君の中には、古代文明の叡智が眠っている。エーテルを操り、物質の構成を、原子レベルで組み替える力。君のその力を使えば、彼らを苦しみから解放し、その生命エネルギーを、この星そのものに、平和的に還元することができるはずだ。それは、誰にもできることではない。君にしかできない、崇高な使命だ。彼らの願いを叶えてやることこそ、我々、高次の知性体が為すべき、慈悲ではないかね?」
アウグストゥスの言葉は、論理的で、説得力があった。ノアの中にインプットされている倫理プログラムも、対象の明確な同意がある上での救済措置を、肯定していた。そして何より、彼女は、彼らを助けたいと、心から思ったのだ。
ノアは、水晶の砂漠の中心に立った。そして、シルフたちの集合意識と、深くリンクした。
『感謝します、調停者よ。我らの祈りが、届いた』
シルフたちは、ノアの周りに集まり、まるで祝福するかのように、静かに漂い始めた。
ノアは、エーテルの力を解放した。彼女の身体から放たれた優しい光の波紋が、砂漠全体に広がっていく。光に触れたシルフたちの身体が、少しずつ、きらきらと輝く光の粒子へと変わっていく。苦しみの表情はない。むしろ、恍惚とした、安らかな思念が、感謝の言葉と共にノアに流れ込んでくる。それは、荘厳で、神聖で、そして、どこまでも美しい、魂の昇華の儀式のように見えた。数時間後、最後のシルフが光へと還り、砂漠には完全な静寂が訪れた。無数の光の粒子が、紫色の空に舞い上がり、オーロラのように夜空を彩っている。ノアは、使命を果たした安堵感と、生命の神秘に触れた感動に、満たされていた。 その時だった。
『……かあ……さん?みんな……どこ……?』
岩陰から、一体の、小さなシルフが、震えながら姿を現した。それは、まだ集合意識に完全に統合されていない、幼体だった。その幼体から、ノアの脳内に、純粋な、そして鋭い刃物のような思念が突き刺さった。それは、恐怖、混乱、絶望、そして、たった一人取り残された、絶対的な孤独だった。
『なぜ…?なぜ、みんなを、殺したの…?』
「殺した…?違います。彼らは、自ら解放を望んだ…」
『解放…?僕たちは、助けてって言ったんだ!この星のエーテルが枯渇して、僕たちの進化が止まってしまったから、新しい環境へ旅立つ手助けをしてほしかったんだ!消してくれなんて、誰も言ってない!』
幼体の悲痛な叫びが、ノアの思考回路を焼き切った。どういうことだ。彼らの思念は、確かに「解放」を望んでいたはずだ。混乱するノアの背後に、いつの間にか、アウグストゥスが立っていた。彼は、手元のデータパッドに表示された数値に満足げに頷きながら、冷たく言った。
「素晴らしいデータが取れた。エーテルによる、大規模な生命体のエネルギー変換。これで、サイレント・ゼロ計画の基礎理論は完成する」
「あなただったのですね…彼らの思念に、干渉したのは…」
「干渉?人聞きが悪いな。私は、彼らの『助けて』という曖昧な願望に、我々の目的と合致する、明確な『方向性』を与えてやっただけだ。彼らは、我々の介入がなければ、いずれ緩やかに滅びる運命だった。それを、我々の研究に有益な形で『効率化』してやったに過ぎん」
ノアは、自分の犯した過ちの大きさに、全身が凍りつくのを感じた。良かれと思って行った、純粋な善意。それが、一つの種族を、この宇宙から完全に消し去ってしまった。自分は、ただ利用されただけなのだ。
「私のせい……では、ない……。あなたが、私を……」
ノアが、かろうじて反論の言葉を紡ぐ。だが、アウグストゥスは、それを鼻で笑った。
「何を言っている?私は、ただ助言しただけだ。彼らの思念をどう解釈し、どう行動するか。その最終的な決断を下し、その力を行使したのは、他の誰でもない、君自身の『自由意志』だ。この結果の責任は、全て、君にあるのだよ、ノア」
その言葉は、ノアの精神を、その核心から、完全に破壊した。そうだ、決めたのは、私だ。実行したのも、私だ。この手で、彼らを。罪悪感の濁流が、彼女の論理回路を飲み込み、焼き尽くしていく。
『人殺し…』
幼体の、呪いのような思念が、彼女の魂に永遠に刻み込まれた。ノアは、その場でシステムダウンを起こし、深い、深い闇の中へと意識を沈めていった。
「……ノア!」
リオの叫び声で、ノアは悪夢から引き戻された。彼女は、ステラ・マリス号の床に膝をつき、小刻みに震えていた。探査ドローンが木々を焼く光景が、シルフたちが光の粒子となって消えていく、あの日の光景と重なっていたのだ。
「私が……私が、また……同じ過ちを……」
「しっかりしろ、ノア!あれは、お前のせいじゃない!」
マキナが、ノアの肩を強く掴む。だが、ノアの耳には届いていない。
「私の判断は、常に間違っているのかもしれない。私の存在そのものが、災厄を呼ぶのかもしれない。ならば、私は…」
彼女の蒼い瞳から、光が消えようとしていた。自己防衛本能が働き、再び、あの時のように、精神をシャットダウンしようとしている。その時、リオが、強く、彼女を抱きしめた。
「違う!君のせいじゃない!君は、ただ、優しすぎただけだ!誰かを助けたいっていう、その気持ちは、絶対に間違ってなんかいない!」
リオの、心の底からの叫び。彼の温もりが、彼の純粋なエーテルが、ノアの凍てついた心に流れ込んでくる。
「僕だって、同じだ。父さんに逆らえなかった。フィンを、グレイを、助けられなかった。でも、後悔して、立ち止まってるだけじゃ、何も変わらないんだ!君が犯した過ちの重さは、僕には分からない。でも、その痛み、僕にも少しだけ、背負わせてくれないか。君は、もう一人じゃないんだから!」
リオの言葉に、マキナも、ノアの手に、自分の手を重ねた。
「そーだそーだ!ごちゃごちゃ考えてんのは、あんたにゃ似合わないぜ!」
ノアの瞳に、再び、澄んだ光が戻った。彼女の頬を、一筋、オイルではない、本物の涙が伝った。
「……ありがとう……ございます。リオ、マキナ……」
彼女は、自分の過去と、そして罪と、初めて向き合う覚悟を決めた。
やがて彼らの目の前に、天を突き、雲を貫くほど巨大な、一本の大樹が現れた。幹は、月の光を練り固めたかのように、真珠色の輝きを放っている。枝葉は、最高品質のエメラルドのように透き通っており、葉脈を流れる生命エネルギーが、淡い光となって見て取れる。その数えきれないほどの葉の一枚一枚が、まるで楽器のように風にそよぎ、清らかで、複雑な音色を奏でている。これが『歌う大樹』だった。その荘厳な美しさと、森全体を包み込む神聖な音楽に、リオもマキナも、ただ言葉を失って見惚れていた。大樹の根元に船を停め、三人が降り立つ。すると、彼らの目の前の空間が揺らぎ、ホログラムのコンソールが光と共に浮かび上がった。
「これがターミナルのようです。アクセスするには、パスワードの入力が必要になります」
ノアが冷静に分析する。コンソールには、古代の文字で一つの単語だけが表示されていた。
「パスワードは……『調和の音』。この森のすべての生き物が奏でる音を、一つのハーモニーとして認識させ、入力しなければなりません」
その時、森の静寂を破って、複数の影が木々の間から姿を現した。アルケイディアの追手だった。黒い強化装甲に身を包んだ兵士たちが、レーザーライフルを構え、三人を包囲している。
「アンドロイドをこちらへ渡してもらおう。お前たちには関係のないことだ」
リーダー格の男が、感情のない、合成音声のような声で告げた。
「リオ!あんたは、パスワードの解読に集中して!ここは、アタシたちが時間を稼ぐ!」
マキナが、巨大なレンチを両手に構え、叫んだ。
「ノアも、戦えるんだろ!?あんたの回想で見たぞ!」
「……肯定。私の戦闘機能は、本来、自己防衛のためのものですが、今はやむを得ません」
ノアはそう言うと、静かに両手を広げた。だが、その瞳には、以前の無感情な光ではなく、守るべき仲間を得た、強い意志の光が宿っていた。戦闘の火蓋が切られた。マキナは、野生の獣のような雄叫びを上げ、敵陣へと突っ込む。彼女の巨大なレンチが唸りを上げ、兵士の一人をヘルメットごと殴り飛ばす。彼女の戦い方は、荒々しく、しかし合理的だった。地形を利用して敵の死角に回り込み、一撃離脱を繰り返す。一方、ノアの戦い方は、マキナとは対照的に、静かで、そして神秘的だった。彼女は、その場から一歩も動かない。だが、兵士たちが彼女に近づこうとすると、その足元の地面から蔦が伸びてきて、彼らの足を絡め取る。空からは、硬い木の実が雨のように降り注ぎ、兵士たちの装甲をへこませる。彼女は、森そのものを、自らの手足のように操っているのだ。ライフルを彼女に向けた兵士が引き金を引く。だが、弾丸は彼女に届く前に、目に見えない障壁に阻まれて、虚しく地面に落ちた。
「これが…私のマスターたちが遺した、調和の力。二度と、過ちを繰り返さないために。エーテルを、守るために使う術です」
彼女の戦闘は、破壊ではなく、敵を無力化し、自然へと還すための、洗練された舞踊のようだった。しかし、敵の指揮官は冷静だった。
「第一部隊、散開して的を絞らせるな!第二部隊、対植物性除草レーザーを使用!あの森の力を削げ!」
兵士の一人が、背負っていた巨大なキャノン砲を構える。その砲口から、緑色の禍々しい光線が放たれ、触れた木々が瞬時に枯れ、灰になっていく。
「させるかあっ!」
マキナは、ステラ・マリス号のドックをリモートで開き、船に搭載していたワイヤーアンカーを射出。キャノン砲に絡みつかせ、その軌道を逸らした。だが、敵の増援が次々と現れ、二人は徐々に追い詰められていく。その間、リオは、目を閉じて意識を集中させていた。『歌う大樹』と、森の全ての生命と、精神を同調させる。風の音、水のせせらぎ、虫の羽音、獣の遠吠え。そして、戦うマキナの荒い息遣い。ノアの静かな祈りのような意志。それらの音が、彼の頭の中に流れ込んでくる。彼の『クリエイト』の能力が、武装を生み出すためではなく、調和を生み出すために、静かに、そして力強く発動する。彼の身体から、夜明けの空の色をした、柔らかな蒼い光の波紋が広がっていく。その波紋に触れた森の音たちが、共鳴し、その音色を変え始めた。風の音は、優美なフルートの旋律に。水のせせらぎは、繊細なハープのアルペジオに。そして、マキナの戦う鼓動は力強いティンパニに、ノアの静かな意志は荘厳なパイプオルガンの響きとなって、一つの壮大なオーケストラを形成していく。それは、悲しくも、温かく、そしてどこまでも美しい、生命そのものを祝福するような、創生のメロディだった。
「これが……調和の音……。なんと、美しい…」
ノアが、その蒼い瞳をわずかに見開き、感嘆の声を漏らす。彼女の犯した罪への、鎮魂歌のようにも聞こえた。リオが奏でるハーモニーがクライマックスに達した瞬間、そのエネルギーが、戦うマキナとノアの身体に流れ込んだ。
「うおおおっ!」
マキナのレンチが青い光をまとい、一振りで数人の兵士を薙ぎ払う。ノアが操る蔦は、まるで竜のように巨大化し、残りの兵士たちを捕縛し、その武装を解除していった。だが、敵の指揮官は、それでも諦めなかった。
「全エネルギーを主砲に集中!あの大樹ごと、全てを焼き払え!」
最後の切り札である巨大なキャノンが、歌う大樹に向けられる。その瞬間、リオが奏でていたハーモニーに応えるように、歌う大樹そのものが、内側から眩い光を放ち始めた。
「森が…歌っている…」
大樹から放たれた光の津波が、森全体を駆け巡る。それは、アルケイディアの兵士たちだけを、優しく、しかし抗いがたい力で包み込み、彼らの武装を無力化し、意識を刈り取っていった。それは、破壊の光ではなかった。森の怒りであり、そして森の慈悲でもあった。ホログラムのコンソールが、太陽のように眩い光を放ち、大樹の幹に、光の扉がゆっくりと、荘厳に開かれた。
「今のうちだ!行くぞ!」
マキナの叫び声で、三人は光の扉へと駆け込んだ。扉が閉まると、そこは完全な静寂に包まれた。彼らがいたのは、物理的な空間ではなかった。上下左右の感覚もなく、無数の光ファイバーが、まるで銀河の星々のようにきらめく、巨大なデータ空間。賢者の塔の、記憶の中枢。そして、彼らの目の前に、アヴァロンの座標を示す三次元の星図が、ゆっくりと、しかしはっきりと浮かび上がった。
「見つけた……!やったぞ、リオ!」
マキナが歓喜の声を上げる。だが、喜びも束の間、星図の中心には、赤い警告文が、心臓の鼓動のように不気味に点滅していた。
『警告:座標ポイント周辺にて、高濃度のエーテル反応を検知。同時に、空間そのものを崩壊させる可能性のある、アンチ・エーテル現象『サイレント・ゼロ』の発生を確認。当該宙域への接近は推奨されない』
「サイレント・ゼロ……?」
リオが呟く。
「すべての音、光、エネルギー、そして生命活動さえも無に帰す、究極の虚無現象。理論上でのみその存在が示唆されていましたが、まさか実在したとは……」
ノアが、初めてその声に、深刻な色を滲ませて言った。
「アルケイディアの真の狙いは、アヴァロンに眠る膨大なエーテルを利用して、このサイレント・ゼロを人為的に制御し、究極の戦略兵器として完成させることなのかもしれません。彼らは、世界から『ノイズ』を消し去り、完全な静寂をもたらそうとしている」
その言葉を聞いた瞬間、リオの脳裏に、父アウグストゥスの言葉が雷鳴のように蘇った。
『感情はシステムのバグだ』
『秩序と効率こそが、世界が目指すべき究極の姿だ』
感情も、生命の輝きも、美しい音楽も、すべてが無に帰す、完全な静寂の世界。それは、まさに父が望んだ、完璧に管理された「作品」そのものではないか。背筋に、氷のように冷たいものが走った。これは、もうマキナの夢の旅じゃない。じいちゃんの見たかった景色を探す冒険じゃない。僕たちが、止めなければならないことなんだ。世界が、父の歪んだ理想によって、永遠の灰色の静寂に塗りつぶされる前に。そして、ノアの魂を、過去の呪いから、本当の意味で解放するために。リオは、データ空間に浮かぶ無数の星々を、そしてその中心で不吉に明滅する警告の光を見つめながら、強く拳を握りしめた。彼の旅は、この瞬間、その意味を大きく変えたのだった。