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マキナ-空駆けるジャンク屋-

意識が浮上するのと、身体を優しく揺らす心地よい振動を感じたのは、ほぼ同時だった。リオがゆっくりと瞼を開くと、まず目に飛び込んできたのは、見慣れない木製の天井だった。ごちゃごちゃとして、お世辞にも整頓されているとは言えない。だが、その混沌としたすべてが奇妙な調和を保ち、まるで一つの大きな生き物の体内のように、温かい生命感に満ちていた。


ここは、ステラ・マリス号の船内。彼が眠っていたのは、壁際に作り付けられた簡素な寝台の上だった。身体には、少し硬いが、日に干した匂いのする清潔な毛布がかけられている。絶えず聞こえてくる、古いが力強いエンジンの穏やかな鼓動。機械油と、埃と、そして何かを香ばしく煎るような匂いが混じり合った、生活の匂い。そして、丸窓から差し込む光は、セクターで見ていたあの哀れなくすんだ光の筋とは比べ物にならないほど明るく、力強く、部屋の隅々に転がるガラクタの一つ一つを黄金色に染め上げていた。


エンジンの鼓動が、心地よく身体に響く。だが、それはただの機械音ではなかった。レギュレーターによる精神汚染が晴れたリオの鋭敏な感覚は、音の奥にある微かな「声」を捉えていた。それは、まるで船そのものが、リオに語りかけてくるかのようだった。


『……ふう、昨日はちょっと飛びすぎたかな。左翼の補助スタビライザーの関節が、少し軋むんだ。あと、燃料フィルターに細かいゴミが溜まってる。このままだと、あと半日くらいで、ちょっと咳き込んじゃうかも……』


それは、老人が自分の身体の不調をぼやくような、愛嬌のある、温かい声だった。リオは、まだ夢うつつの中で、それを独り言のようにつぶやいた。


「左の翼の関節が痛むのと…燃料フィルターの掃除が必要…みたいだね…」


「――は?なんであんたがそれを知ってんだよ!」


突然、天井から、驚きに満ちた少女の声が降ってきた。ひょっこりと、逆さまに顔をのぞかせたのは、ステラ・マリス号の船長、マキナだった。その髪は相変わらず燃えるような赤で、顔にはオイルの汚れがついていた。彼女は、手に持っていたスパナを落としそうになりながら、目を丸くしている。


「今、エンジンルームの調子を見てたアタシと、全く同じことを言ったぞ!翼のスタビライザーの軋みも、フィルターの詰まりも、計器にはまだ出てない、ごく僅かな兆候なのに!まるで、機械と話でもしたみたいじゃないか!」


マキナは興奮した様子で天井からひらりと飛び降りると、リオの顔をぐいと覗き込んだ。


「あんた、もしかして…『聞こえる』のか?機械の声が!」


「声…?」


リオは戸惑った。言われてみれば、なぜ自分にあんなことが分かったのか、説明ができない。ただ、自然と、聞こえてきたのだ。マキナは、リオの困惑した表情を見て、次の瞬間、太陽のようにニカッと笑った。


「すっげえ!じいちゃんの日記で読んだことがある!ごく稀に、機械の魂と対話できる人間がいるって!伝説の能力、『マシン・リーディング』だ!あんた、とんでもないお宝だったんだな!」


彼女は自分のことのように喜び、興奮してリオの肩をバンバンと叩いた。リオは、その痛みと、初めて向けられた屈託のない称賛に、戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


ステラ・マリス号での生活は、驚きと発見の連続だった。この小さな船は、マキナが言う通り、彼女が世界中のガラクタ置き場――人々が「空の墓場」と呼ぶ、大戦で打ち捨てられた飛行要塞の残骸宙域や、古代文明が遺した浮遊大陸の遺跡など――から、文字通り自分の足で集めてきたパーツで組み上げた、彼女だけの「城」だった。コックピットの計器盤は、その象徴だった。最新鋭のタッチパネル式ディスプレイの隣に、旧式の真空管アナログメーターが鎮座している。大昔の探査船から持ってきたという水晶のソナーは、微かなエネルギー反応を美しい光の波紋で示すが、その隣の通信機は、まだダイヤルを回すタイプの骨董品だ。エンジンは、元は地上を走る農業用トラクターのものを、彼女の祖父が飛行用に魔改造したという代物で、時々牛のようなのんびりとした音を立てて機嫌を損ねることがあった。急旋回した拍子に、船倉に山と積まれたジャンクパーツがガラガラと雪崩を起こすことも、ショートした計器がバチバチと景気よく火花を散らすことも日常茶飯事だったが、マキナはいつも「大丈夫、大丈夫!このくらいじゃ、この子は落ちやしないよ!アタシが作ったんだから!」と、自分の船に絶対の信頼を寄せて、笑い飛ばすだけだった。そして、船は彼女のその信頼に応えるかのように、力強く、健気に空を飛び続けた。


彼らは様々な土地を訪れた。雲よりも高い巨大な山脈に築かれ、一年中吹き荒れる強風を動力に変えて暮らす風車の街。猛毒の酸性雨が降り注ぐ密林の奥深く、巨大な植物の葉を傘にして、ひっそりと暮らす少数民族の集落。どこまでも青い珊瑚礁が広がり、人々が魚の群れと共に海と空を回遊する、海洋セクター。灰色の揺り籠しか知らなかったリオにとって、そのすべてが衝撃だった。空には様々な青があり、雲には様々な形があり、大地には数えきれないほどの緑が息-づいている。人々は、父の言うような画一的な「システムの部品」ではなく、それぞれが違う顔で笑い、怒り、泣き、そして歌っていた。


リオは、毎日スケッチブックに向かった。父に焼かれた燃え残りの切れ端ではなく、マキナが市場で買ってきてくれた、真新しいスケッチブックだ。彼は、目にするものすべてを、その驚きと感動を、夢中で描き留めた。風車の街の複雑な構造、密林に咲く奇妙な花、そして、市場で働く人々の、生き生きとした表情。彼の絵を見たマキナは、父のように「非生産的だ」と罵るどころか、目をキラキラさせて言った。


「すっごいじゃん、リオ!あんた、絵の才能あるんだね!写真みたいにそっくりなのに、なんか、それよりずっと温かい感じがする!」


その言葉は、リオの心の奥深く、父によって固く閉ざされていた扉を、優しくノックするようだった。


数週間後、彼らはステラ・マリス号の補給と、集めたジャンクの換金のため、中立空域に浮かぶ巨大な空中交易都市『ポート・エアリア』に立ち寄った。そこは、ありとあらゆる人種と飛行艇乗りが集まる、巨大なバザールのような場所だった。大小様々な飛行艇が、巨大なドッキングアームに蜂のように群がり、街は活気と喧騒、そして多種多様な言語と食べ物の匂いで満ち溢れていた。


「さーて、リオ!ここがアタシの主戦場だよ!ぼーっとしてっと、骨の髄までしゃぶられちまうから、アタシから離れんじゃないよ!」


マキナはそう言うと、人混みにはぐれないように、リオの手をぐいと掴んだ。その手は、リオのそれよりずっと小さかったが、工具を握り慣れた硬いタコがあり、力強かった。リオは、その温かさに少しだけ戸惑いながらも、しっかりと握り返した。街は活気に満ちていたが、その裏には確かな影が落ちていた。広場の中央にある電子掲示板には、商品の取引レートや天候情報の隣に、禍々しい鉤爪のエンブレムと共に『指名手配:オールド・クロウ』の文字が赤く点滅していた。その下には、彼らに襲われ、消息を絶った輸送船のリストが、おびただしい数、並んでいる。人々は、その前を通り過ぎるたびに、顔を曇らせ、ひそひそと声を潜めていた。


「また西の航路でやられたらしいぜ……」


「今度は食料輸送船だ。奴ら、積荷を奪うだけじゃなく、船をズタズタにして楽しんでやがったって話だ」


「女子供にも容赦しないっていうじゃないか。あいつらはただの空賊じゃねえ、悪魔だよ」


マキナの顔なじみである、パン屋の恰幅のいい女将も、焼きたてのパンをマキナに手渡しながら、溜息をついた。


「マキナちゃん、あんたも気をつけるんだよ。あいつらの縄張りには、絶対に近づいちゃいけない。あの子たちに会ったら、もうおしまいさ。ただ物を盗られるだけじゃない。あいつらは、人の希望を壊して、それを笑う連中なんだから……」


女将の言葉には、拭い去れない恐怖が滲んでいた。市場の酒場の隅では、腕に真新しい包帯を巻いた船乗りが、青い顔で仲間たちに語っていた。リオとマキナは、その近くの席で、パーツの取引リストを確認するふりをしながら、その話に耳を傾けた。


「……突然だった。雲の中から、あの鉤爪の船団が現れたんだ。警告も何もなく、いきなり撃ってきた。俺たちの船はあっという間に火だるまさ。奴らは、俺たちが船から逃げ出すのを、笑いながら見てやがった。そして、最後にリーダーの船から拡声器で聞こえてきたんだ。『空に浮かぶもんは、全部俺たちオールド・クロウのもんだ!文句があるやつは、死ね!』ってな……」


その話を聞いていた他の船乗りたちの間にも、重い沈黙が広がった。『オールド・クロウ』は、この空で生きる人々にとって、避けようのない災害のような、絶対的な恐怖の象徴だった。マキナは、黙ってパンをちぎると、リオの口に無理やり押し込んだ。


「……行くぞ、リオ。長居は無用だ」


その横顔は、いつもの快活さが嘘のように、硬く、険しかった。彼女もまた、この空の現実と、常に隣り合わせで生きてきたのだ。


二人は、市場の奥にあるジャンク屋ギルドの取引所へと向かった。そこを取り仕切るのは、隻眼にサイバネティクス義眼を埋め込んだ、バートという名の屈強な老人だった。彼は、マキナの祖父の代からの付き合いらしかった。


「ほう、マキナか。またつまらんガラクタを持ってきたんじゃないだろうな」


バートはぶっきらぼうに言いながらも、その義眼のレンズを嬉しそうに動かした。


「失礼な!今回はとびっきりのお宝だよ、バートさん!」


マキナは、ステラ・マリス号から降ろしたガラクタの山を、慣れた手つきで鑑定台に並べていく。


「ほらよ!こいつは旧帝国軍の装甲巡洋艦で使われてたエネルギー伝達管だ。ちょいと傷はあるが、使われてる合金の純度は一級品だよ!こっちのジャイロスコープは『巨人の寝床』の遺跡から掘り出してきたやつ。古代技術の結晶で、まだ生きてる、とっておきのお宝さ!」


彼女は、ただ品物を並べるだけではない。その出自や性能、希少価値を、まるで物語を語るかのように生き生きと説明する。その目は、ただのジャンクを、ロマンあふれる宝物のように輝かせていた。バートは、鑑定用のルーペを片手に、品物を一つ一つ吟味していく。


「ふむ……伝達管の合金は確かにお前の言う通りだな。だが、この傷じゃあ、正規の値段の7割がいいところだ。ジャイロは面白い。だが、こいつを欲しがる酔狂な収集家が、いつ現れるやら……」


「そこを何とかするのが、バートさんの腕の見せ所だろ?アタシのじいちゃんなら、きっとこう言うね。『価値ってのは、作るもんじゃねえ、見出すもんだ』ってさ!」


マキナは、祖父の口調を真似て、悪戯っぽく笑った。その笑顔に、バートは敵わないといったように、大きなため息をついた。


「……分かった、分かった。お前のじいちゃん、ザックには昔世話になったからな。今回だけ、少し色をつけといてやる。それと、そっちの坊主は新しい助手か?」


バートのサイバネ義眼が、リオをじろりと見た。リオは、その無機質な視線に思わず身をすくませる。


「ああ!リオっていうんだ!すごい才能の持ち主なんだぜ!機械の声が聞こえるんだ!」


「ほう……『マシン・リーディング』か。ザックが探していた、伝説の能力持ちか。面白い。嬢ちゃん、そいつは大事にしろよ。そんなお宝は、そこらのガラクタとは訳が違う」


バートの言葉に、マキナは「当然だろ!」と胸を張った。自分のことのように褒められ、リオは少し気恥ずかしく、しかし同時に誇らしい気持ちになった。


稼いだ金で新しいパーツを仕入れるため、二人は再び市場の喧騒の中へと戻った。その時、あるアンティークショップの店先で、リオは足を止めた。そこには、ガラスケースの中に、息を呑むほど美しい、鳥の羽を模した銀細工のペンダントが飾られていた。それは、かつて自分が描いて父に焼かれた、自由の鳥の翼にそっくりだった。あの絵は、フィンに見せたこともあった。二人で、こんな翼で飛んでいけたらいいな、と語り合った、遠い日の記憶。


「……きれいだ」


思わず呟いたリオの言葉を聞いて、店の主である、蛇のようにねっとりとした目つきの男が、にやにやと笑いながら近づいてきた。


「へへ、坊ちゃん、お目が高い。そいつは、大戦前の名工が作った、正真正銘のアンティークでさ。特別なもんだが、坊っちゃんなら勉強させてもらいやすぜ。金貨50枚でどうで……」


「冗談じゃないよ、ハゲタカのギル」


男の言葉を遮って、マキナがリオの前に立ちはだかった。


「あんた、それがただの銀メッキで、ここらの工房で量産されてるレプリカだってこと、あたしが知らないとでも思ってんの?そんなガラクタに金貨50枚?足元見るのも大概にしな!」


マキナの瞳は、普段の快活さとは打って変わって、鋭い刃物のような光を宿していた。


「な、なんだと……!い、言い掛かりはよしてもらおう!こ、こいつは本物だ!」


狼狽する店主に対し、マキナは鼻で笑った。


「へえ?じゃあ、その台座の裏に彫られてるはずの、職人のサインを見せてみなよ。本物なら、『アリアの工房』って細い筆記体で刻印があるはずだ。それに、本物の『アリアの銀』は、大気中の硫黄成分に反応して、もっと深みのある黒ずみ方をする。あんたのそのピカピカのガラクタは、東の空域の偽物職人が使う、安物のクロム合金の輝きだね。このあたしの鼻は、金属の匂いで本物と偽物くらい、嗅ぎ分けられるんだよ!」


マキナの、専門知識に裏打ちされた確信に満ちた言葉に、店主は顔を真っ青にした。周囲にいた他の商人たちも、興味深そうにこちらを見ている。


「ちっ……覚えてやがれ!」


店主は悪態をつきながら、そそくさと店の奥に引っ込んでしまった。すると、周りから「さすがマキナ嬢ちゃんだ!」「よく言った!」という賞賛の声と、拍手が沸き起こった。


「……ありがとう、マキナ」


「いーってことよ!ああいうハイエナに、世間知らずのカモが引っかかるんだ。リオ、あんたは人が良すぎるから気をつけな」


マキナはそう言ってリオの背中をパンと叩いた。彼女は、ただ腕が立つだけではない。悪意や欺瞞を見抜く鋭い目と、それに立ち向かうための知識と勇気、そして彼女を支持する人々の繋がりを持っている。それもまた、彼女の「強さ」だった。リオは、父が嫌悪した「非効率な人間関係」こそが、人を強くするのだということを、初めて肌で感じていた。


「さてと、まだ用事は終わってないよ」


ギルドで手に入れた資金を懐にしまい、マキナは言った。


「船のエンジンの調子がずっと悪いんだ。メインのエネルギー循環器に繋がる『音叉型レギュレーター』がもう寿命でね。普通の市場じゃ手に入らない、軍用の特殊パーツなんだ」


彼女は声を潜め、リオにだけ聞こえるように続けた。


「これから行く場所じゃ、絶対に大きな声を出しちゃダメ。喋ることも禁止だ。いいかい?」


リオが頷くと、マキナは彼を連れて、賑やかな大通りから外れ、迷路のように入り組んだ裏路地へと入っていった。そこは、ポート・エアリアの光がほとんど届かない、暗く湿った場所だった。二人がたどり着いたのは、何の変哲もない、錆びついた鉄の扉の前だった。マキナが扉を特定のパターンで3回ノックすると、中から覗き窓が開き、無言のまま扉が開かれた。そこは、『沈黙市場サイレント・マーケット』と呼ばれる、ポート・エアリアの裏の顔だった。中では大勢の人間が取引をしているにもかかわらず、物音一つしない。声を発することは、ここでは最大のタブーなのだ。取引は全て、チョークで書き込むか、複雑なハンドサインで行われる。市場を支配する組織が、音を拾う超高感度の盗聴器を張り巡らせ、裏切りや密告を監視しているのだという。マキナは慣れた様子で、リオの手を引き、人混みをかき分けて進んでいく。リオは、その異様な光景に息を呑んだ。声の代わりに、人々の鋭い視線や、緊迫した身振り手振りが、雄弁に感情を物語っている。父の元にいた頃の静寂は管理された無機質なものだったが、ここの静寂は、暴力と欲望が渦巻く、生き物のような重圧を持っていた。マキナが目的のパーツを扱う店の前で立ち止まり、店主と身振りで交渉を始めた、その時だった。リオは、背後で微かな違和感を覚えた。物乞いのふりをして壁際に座っていた男が、ゆっくりと立ち上がり、別の男と目で合図を交わしている。彼らの視線は、マキナが懐に入れたばかりの、資金袋に注がれていた。男たちが、マキナの背後に忍び寄る。声を出せば、市場の掟を破ることになる。そうなれば、自分たちも危険に晒される。一瞬の逡巡。だが、リオは行動した。彼は、足元に転がっていた空き缶を拾うと、わざとらしく足を滑らせ、通路の反対側にある金属製の棚に向かって、力いっぱい蹴り飛ばした。ガッシャーン!静寂の市場に、けたたましい破壊音が響き渡る。全ての視線が、音のした方へと一斉に向けられた。マキナを狙っていた男たちも、思わずそちらに気を取られる。その隙に、マキナは危険を察知し、素早くリオの手を掴んだ。


「行くよ!」


二人は、市場の衛兵たちが駆けつけてくるより早く、出口へと走り出した。外の喧騒の中に出て、ようやく息をつく。


「……あんた、すごいね」


マキナは、息を切らしながらも、感心したように言った。


「咄嗟に、あの状況で、一番いい手を打つなんて。あんたのそういうところ、アタシは好きだよ」


リオは、ただ黙って頷いた。言葉ではなく、行動で、初めてマキナを守ることができた。その事実が、彼の胸を温かいもので満たしていた。


ポート・エアリアを離れ、次なる目的地へと航行していたある日の午後。彼らは、地図にも載っていない、巨大な積乱雲が渦巻く「雲の海峡」と呼ばれる難所を通過していた。


「じいちゃんが言ってた。この海峡には、空の主がいるってね。怒らせたら、どんな船も木っ端微塵にされちまうって」


マキナは、緊張した面持ちで操縦桿を握っていた。その時、厚い雲の向こうから、山脈が動いているかのような、巨大な影が現れた。それは、全長数キロにも及ぶ、巨大なクジラのような生物だった。その身体は、雲と同じ白い色をしており、背中には、長い年月をかけて形成されたのであろう、水晶の森が生えている。古代からこの空を生きる、伝説の『空喰らい(スカイ・レヴィアタン)』だった。スカイ・レヴィアタンは、敵意なく、ただ悠々と空を泳いでいるだけだった。だが、その巨体が動くたびに、周囲の大気が乱れ、凄まじい乱気流と、雷さえも発生させる。ステラ・マリス号は、木の葉のように翻弄され、コントロールを失いかけた。


「くそっ!このままじゃ、あいつの身体に叩きつけられる!」


マキナが悲鳴に近い声を上げる。その時、リオの脳内に、不思議な感覚が流れ込んできた。それは、言葉ではなかった。歌。深く、穏やかで、どこか物悲しい、魂に直接響くような歌だった。スカイ・レヴィアタンの「声」だ。リオは、それが機械ではないと分かっていた。だが、その巨体から発せられる強大な生命エネルギー、そのエーテルの流れを、『マシン・リーディング』の能力が、歌として捉えていたのだ。『…永い…孤独…我は…ただ…歌う…』リオは、その歌に耳を澄ませた。そして、気づいた。レヴィアタンの周囲に発生する乱気流は、完全にランダムなのではない。その歌の、壮大なメロディとリズムに合わせて、一定のパターンで、波のようにうねっているのだ。「マキナ!」リオは叫んだ。


「こいつの歌に合わせて飛ぶんだ!息を吸うタイミングで上昇して、吐くタイミングで下降する!こいつは、僕たちに怒ってるんじゃない。ただ、孤独を歌ってるだけなんだ!」


マキナは、一瞬、リオの言葉を信じられなかった。だが、彼の真剣な瞳を見て、覚悟を決めた。


「分かった!あんたの指揮に、この船を預ける!」


マキナは、自らの勘と経験を捨て、リオが告げる歌のリズムに、完全に操縦を委ねた。上昇、下降、右旋回。ステラ・マリス号は、まるで巨大なレヴィアタンと、優雅なワルツを踊るかのように、危険な乱気流の波を乗りこなし、その巨大な身体のすぐそばを、すり抜けていった。やがて、彼らが海峡を抜け出すと、レヴィアタンは、名残を惜しむかのように、一声、高く、美しい歌声を響かせ、雲の海の奥深くへと姿を消していった。コックピットには、安堵の沈黙が流れていた。マキナは、汗で濡れた額を拭うと、リオに向かって、最高の笑顔を見せた。


「……あんた、本当に何者なのさ。空の主と、デュエットしちまうなんて。ますます、あんたから目が離せなくなったよ」 


その言葉に、リオは、ただ照れくさそうに笑うことしかできなかった。彼の力は、機械と繋がるだけでなく、この世界の、もっと根源的な生命とも繋がることができるのかもしれない。その可能性が、彼の胸を、静かな興奮で満たしていた。


市場からの帰り道、マキナは露店で、奇妙な形をした紫色の果物を二つ買った。「ほらよ」一つをリオに無造作に放ってよこす。


「これ、なんていう果物なの?」


「さあ?知らねえ。でも、美味そうじゃん!」


彼女はそう言うと、大きな口を開けて、皮ごとガブリと齧り付いた。甘酸っぱい果汁が、彼女の口の端から滴り落ちる。その姿は、少し行儀が悪いが、生命力に満ち溢れていて、見ているだけで楽しくなってくる。リオも、恐る恐るそれを真似てみた。口の中に広がる、初めての甘酸っぱい味。それは、あの不味いコーヒーとは違う、素直な美味しさだった。


「……おいしい」


「だろ?」


 マキナは、口の周りを果汁でベトベトにしながら、子供のように笑った。悪徳商人と対峙していた時の鋭い表情は、もうどこにもない。そのギャップが、リオの目にはたまらなく魅力的に映った。この人は、強いだけじゃない。太陽みたいに明るくて、無邪気で、可愛い人だ。リオの心に、これまで感じたことのない、温かくて、少しだけくすぐったいような感情が、静かに芽生え始めていた。


ポート・エアリアを離れ、次なる目的地へと航行していたある日の午後。二人は、地図にも載っていない小さな浮島で、船の小休憩を取っていた。その島は、豊かな緑と、奇妙な形をした水晶の岩で覆われた、静かで美しい場所だった。リオが船体のチェックをしていると、マキナが「うわっ!何だこいつ!」と、興奮した声を上げた。彼女が見つめる先には、木の枝から、一匹の奇妙な小動物がこちらを窺っていた。リスに似ているが、その前足と後ろ足の間には皮膜があり、背中には美しい瑠璃色の毛が生えている。


「空飛ぶリス…いや、『スカイ・スクイレル』だ!じいちゃんの日記でしか見たことない、幻の動物!」


マキナは、普段の男勝りな様子はどこへやら、子供のように目をキラキラさせて、その動物にゆっくりと近づいていく。だが、スカイ・スクイレルは警戒心が強いのか、すぐに木の洞へと隠れてしまった。


「あーあ、行っちゃった……」


しょんぼりと肩を落とすマキナ。その姿は、いつもの快活な彼女とは違い、年相応の少女のようで、リオはなんだか新鮮な気持ちになった。しかし、よく見ると、隠れた木の根元に、まだ飛べないらしい、さらに小さな赤ん坊のスカイ・スクイレルが一匹、震えている。どうやら、親とはぐれてしまったようだ。


「……こいつ、このままじゃ……」


マキナは、そっとしゃがみ込むと、ツナギのポケットから、市場で買った木の実を取り出した。そして、それをゆっくりと地面に置き、自分は後ずさりした。


「ほら、怖くないよ。お食べ」


その声は、驚くほど優しかった。赤ん坊は、しばらく警戒していたが、やがておずおずと木の実にかじりついた。マキナは、その様子を、本当に嬉しそうに、頬を緩ませて見守っていた。リオは、その光景を黙って見ていた。巨大なレンチを振り回し、空賊とも渡り合う強い少女が、こんなにも優しい顔をすることに、胸の奥が温かくなるのを感じた。


その夜、船に戻ったマキナは、何やら作業台でゴソゴソとやっていた。見ると、彼女は、自分のツナギの破れた袖を、慣れない手つきで修繕しようとしていた。しかし、針は明後日の方向を突き、糸はぐちゃぐちゃに絡まっている。「あうっ!」ついに、自分の指を針で刺してしまったらしく、彼女は小さな悲鳴を上げた。


「……もう!なんで上手くいかないんだよ、こんちくしょう!」


悔しそうに、半泣きで針を放り出す。


「貸して」


見かねたリオが、そっと声をかけた。


「え?でも……」


「セクターにいた頃、衣類の修繕くらいは自分でやらなくちゃいけなかったから」


嘘だった。彼には、全てを管理するオートバトラーがいた。だが、フィンが、自分の破れたツナギを器用に縫っているのを見て、そのやり方を教えてもらったことがあったのだ。リオは、マキナから針と糸を受け取ると、静かに、しかし正確に、破れた部分を縫い合わせていった。彼の指先は、機械をいじるのと同じくらい、精密に動いた。マキナは、その様子を、感心したように、そして少しだけ拗ねたように見ていた。


「……あんた、何でもできるんだな」


「そんなことないよ」


「料理も、アタシより上手いし」


ちなみにマキナの料理は、全ての食材が炭になるか、さもなくば奇妙なスライム状になるかの二択だった。


「……裁縫もできるし」


「……」


「なんか、アタシ、船長失格かな」


珍しく弱気な彼女に、リオは縫い終えた袖を差し出しながら、静かに言った。


「そんなことない。マキナがいなかったら、僕は今も灰色の世界にいた。マキナは、この船の、そして僕の、太陽みたいだ」


「…………!」


マキナは、顔をカッと赤くすると、勢いよく立ち上がった。


「ば、ばばば、バカ!何言ってんだ、気色悪い!寝る!」


そう言って、彼女は自分の寝台に潜り込み、毛布を頭まで被ってしまった。だが、その耳まで真っ赤になっているのが、リオには見えていた。不器用で、強がりで、でも、誰よりも優しい。リオは、マキナのそんな「可愛さ」に、ますます惹かれていくのだった。


ある夜、彼らは仕事を終え、ステラ・マリス号を大砂漠の上空に停泊させていた。地上には人工の光一つなく、その代わりに、頭上には信じられないほどの数の星が、ダイヤモンドダストのように、あるいは神がばらまいた宝石のように、無数に輝いていた。セクター7では、星とは教科書に載っている、ただの記号でしかなかった。本物の星空は、あまりに雄大で、荘厳で、人の存在をちっぽけなものだと感じさせた。


「すごい……」


甲板に座り込み、空を見上げていたリオの隣に、マキナが腰を下ろした。


「綺麗だろ?じいちゃんがよく言ってた。空は、世界で一番でっかい宝箱なんだってさ。星は、その宝箱に詰まった、数えきれないくらいの物語なんだって」


「じいちゃん?」


「うん。アタシにこの船の作り方と、空の飛び方を教えてくれた、たった一人の家族。世界中を旅してた、アタシと同じジャンク屋兼冒険家だったんだ」


マキナは、星空の彼方に視線を向けながら、夢見るような、そして少しだけ寂しそうな声で言った。


「アタシの夢はね、そのじいちゃんが追い求めていた、伝説の空中都市『アヴァロン』を見つけることなんだ!」


アヴァロン。それは、大昔に栄えた古代文明が空に残した、最後の理想郷。そこには、どんな病も癒し、どんな機械も蘇らせるという、無限のエネルギーと失われた超技術が眠っていると伝えられている、おとぎ話のような場所だった。


「アヴァロンに行けば、どんなガラクタだってピカピカの新品にできるかもしれない。この子のエンジンだってもっと静かになるだろうし、もっと速く飛べるようになるかもしれない。病気で苦しんでる人たちも、みんな治せるかもしれない。何より……」


マキナは少しだけ俯いて、でも誇らしげに笑った。


「たった一人で世界中を旅してきたじいちゃんが、最後に目指した場所だから。アタシも、見てみたいんだ。じいちゃんが見たかった景色を、この目で」


その数日後、彼らは巨大な雷雲に行く手を阻まれ、近くの浮遊岩礁の洞窟で、嵐が過ぎ去るのを待っていた。ステラ・マリス号の船内で、二人は黙々と、傷ついた船体のメンテナンスをしていた。激しい雨が船を叩く音だけが、洞窟の中に響いている。リオも、今では簡単な修理なら手伝えるようになっていた。


「……なあ、リオ。あんた、家族の話、したことないよな」


マキナが、不意にそんなことを尋ねてきた。彼女は、スパナを回す手を止めずに、前を向いたままだ。リオは、一瞬、言葉に詰まった。父の顔が、灰色の執務室が、脳裏をよぎる。


「……話すような、面白い話はないよ」


そう答えるのが精一杯だった。


「そっか」


マキナは、それ以上は何も聞かなかった。ただ、代わりに、自分の話をぽつりぽつりと語り始めた。


「アタシの家族は、じいちゃんだけだった。物心ついた時には、もう親はいなくてさ。じいちゃんが、このステラ・マリス号で、赤ん坊のアタシを拾ったんだって。どっかの浮遊大陸の廃墟に、カゴに入れられて捨てられてたらしい。ひでえ話だろ?」


彼女は、カラカラと笑った。だが、その目は少しも笑っていなかった。


「でもさ、全然、寂しくなかった。じいちゃんがいたから。じいちゃんは、アタシの親で、先生で、最高の友達だった」


彼女の脳裏に、遠い日の温かい記憶が蘇る。

まだマキナがリオよりもずっと小さかった頃。彼女の遊び場は、ステラ・マリス号のコックピットと、世界中のガラクタの山だった。


「いいか、マキナ。この船は、ただの鉄の塊じゃねえ。俺たちの家で、翼で、相棒だ。だから、ちゃんと話を聞いてやらなきゃならねえ」


祖父のザックは、いつもそう言って、幼いマキナにエンジンの音の聞き分け方を教えた。


「ほら、この『トトトト』って音は、ご機嫌な時の鼻歌だ。でもな、『カタカタ』って音が混じり始めたら、どこか調子が悪いって拗ねてる証拠。そういう時は、優しく撫でてやるんだ。ここを、こうやってな」


ザックの、油とタコで硬くなった大きな手が、マキナの小さな手を取り、エンジンの調整ネジを優しく回す。すると、不思議なことに、エンジンの機嫌が直るのだ。それは、マキナにとって魔法のように見えた。ザックは、マキナを「女の子だから」という理由で、危険なことから遠ざけたりはしなかった。操縦桿も、溶接機も、幼い頃から彼女に握らせた。


「空を飛ぶのに、男も女も関係ねえ。大事なのは、空を敬う心と、自分の船を信じる気持ちだけだ」


初めて操縦桿を握らせてもらった日、マキナは恐怖でガチガチになった。だが、ザックは後ろから彼女の肩を抱き、こう言った。


「怖がらなくていい。お前は風と友達になれ。そうすりゃ、船は自然とお前の行きたい場所に連れてってくれる」


その言葉通り、彼女が力を抜くと、ステラ・マリス号は、まるで巨大な鳥のように、優雅に雲の上を滑り始めた。眼下に広がる、どこまでも続く雲の海。その美しさに、彼女は息を呑んだ。この瞬間、彼女は空に恋をしたのだ。リオの父、アウグストゥスがリオを「作品」として管理し、思考を奪おうとしたのとは対照的に、ザックはマキナに「自由」を与え、世界を愛する方法を教えた。彼は、星空の下で、マキナを膝に乗せ、神話や伝説を語って聞かせた。


「あのギラギラ光るのが『竜の目』だ。あの七つ並んだのが『空飛ぶ船の錨』。星の一つ一つに、昔の船乗りたちがつけた名前と物語がある。空ってのは、でっかい絵本みてえなもんなんだ」


リオが電子教科書の無機質な記号としてしか星を知らなかったのに対し、マキナは、星を温かい物語として心に刻んでいた。リオが父から「感情はバグだ」と教えられたのに対し、マキナは祖父から「ガラクタにも魂が宿る」と教わった。二人の生い立ちは、光と影のように、あまりにも対照的だった。そんな幸せな日々は、しかし、永遠には続かなかった。マキナが14歳になった年、ザックは、長い旅の無理がたたって、重い病に倒れた。どんな薬も効かず、彼の体は日に日に弱っていった。


「……マキナ。俺の旅は、どうやらここまでのようだ」


ベッドの上で、ザックは、皺だらけの手でマキナの頭を撫でた。


「泣くな。船乗りは、最後の港に入る時、笑顔で見送られるもんだ」


彼は、枕元から、一冊のボロボロになった航海日誌を取り出し、マキナに手渡した。


「こいつは、俺の宝物だ。俺が旅してきた、すべての記録。そして……俺がたどり着けなかった、最後の場所への地図が記してある」


その日誌の最後のページには、震える文字で、こう書かれていた。


『伝説の空中都市、アヴァロン。すべての始まりの場所。もし、本当に存在するのなら、もう一度、あいつに……』


その先は、インクが滲んで読めなかった。


「アヴァロンには、どんな病も治す力があるっていう。俺は、間に合わなかったが……お前は、行け。お前の目で、俺が見たかった景色を見てきてくれ。それが、俺の最後の夢だ」


それが、ザックの最後の言葉だった。祖父が亡くなった後、マキナは一人になった。周囲の大人たちは、彼女を地上に引き取ろうとした。一人で空を旅するのは危険すぎると。だが、彼女は首を縦に振らなかった。ザックが亡くなった夜、彼女は一人、ステラ・マリス号のコックピットで、祖父の航海日誌を抱きしめて泣いた。そして、夜が明ける頃、涙を拭い、エンジンをかけた。悲しみに沈んでいる暇はない。じいちゃんの夢を、アタシが終わらせるわけにはいかない。アタシの旅は、ここから始まるんだ。


「……てな訳でさ。アタシの旅は、じいちゃんの夢の続きなんだ。だから、絶対に諦められない!……ごめん!自分の話ばっかりしちゃって!」


マキナは、話を終えると、少し照れくさそうに笑った。


「……ううん」


リオは、静かに首を振った。彼の胸は、様々な感情で満たされていた。マキナの過去を知り、彼女の強さと明るさが、どれほど深い愛情と、そして悲しみの上に成り立っているのかを、初めて理解した。そして、自分の境遇がいかに歪んでいたかを、改めて思い知らされた。


「君は、すごいよ、マキナ」


心からの言葉だった。


「僕には、そんな風に思える家族はいなかった。受け継ぐ夢も、守りたい思い出も……何もなかったんだ」


「……」


マキナは、何も言わずに、ただ黙ってリオの言葉を聞いていた。そして、おもむろに立ち上がると、リオの頭を、あの日、初めて会った時のように、ごしごしと撫でた。


「だったら、今から作ればいいじゃんか。思い出ってやつをさ。アタシと、このステラ・マリス号と、あんたと。三人でさ」


その言葉は、どんな慰めよりも、リオの心に深く、温かく響いた。


自分の内に眠る不思議な力、『マシン・リーディング』。マキナに「すごい才能だ」と言われても、リオはその力の正体が分からず、言い知れぬ不安を感じていた。それは、父が忌み嫌った「予測不可能なバグ」そのものではないのか。この力は、本当に自分のものなのか。嵐が過ぎ去った静かな夜、リオは一人、船室で自分の首筋にそっと手を触れた。そこには、皮膚の下に、硬く、冷たい『レギュレーター』の感触が、今も生々しく残っている。父が埋め込んだ、支配の象徴。いつから、僕はこの声が聞こえるようになったんだろう。セクターにいた頃だろうか。いや、あの頃は、父のシステムが常に僕の精神を監視し、霧の中に閉じ込めていた。でも、兆候はあったのかもしれない。リオは、記憶の糸をたぐり寄せた。フィンと二人、秘密基地でガラクタの山をいじっていた時。古い機械の部品に触れた瞬間、一瞬だけ、それが作られた工場の光景や、働いていた人々の会話が、幻のように脳裏をよぎったことがあった。その時は、疲れているのだと、気にも留めなかった。

父の書斎のメインフレームにハッキングを仕掛けた時もそうだ。複雑なセキュリティシステムを前にして、どうすれば突破できるのか、まるでシステム自身が囁きかけてくるかのように、直感的にその脆弱性が分かった瞬間があった。あれも、無意識にこの力を使っていたのだろうか。そして、灰色の世界から脱出し、レギュレーターの常時監視から解放されたあの瞬間から、その声は、よりはっきりと、より強く聞こえるようになったのだ。だとしたら、なぜ?リオは、意を決して、意識を集中させた。自分の身体の一部である、この異質な機械に向かって、『マシン・リーディング』の能力を向けたのだ。


瞬間、彼の脳裏に、ノイズ混じりの情報が洪水のように流れ込んできた。


――無数の数字とコード。彼の生体データを監視し、送信し続けるプログラムの残骸。

――『感情抑制シーケンス、実行』『対象の脳波、規定値内に安定』という、冷たいシステム音声のログ。

――そして、そのノイズの奥深くから、断片的な映像と、聞き覚えのある、しかし知らないはずの、優しい女性の声が聞こえてきた。映像には、白衣を着た女性が、複雑な機械装置の前で、誰かに語りかけていた。


『…アウグストゥス、あなたも昔は知っていたはずよ。機械が奏でる音楽の美しさを。それが持つ魂の響きを…』


映像のノイズが走り、場面が変わる。女性は、カプセルのような装置の中に横たわっている。


『この技術は、人を縛るためのものじゃない。人と機械が、心で繋がり、理解し合うための…新しい可能性なの。支配じゃない、共生よ』


そして、最後に、彼女の顔がアップになる。その瞳は、紛れもなく、リオに向けられていた。


『リオ…私の愛しい子…あなたに、私の夢を…』


母、リリスの声と記憶だった。それは、彼女が被験者となった際に記録され、システムの深層に残留していた、データの断片。リオは確信した。この力は、父が与えたものではない。母が、絶望の中で遺してくれた、希望の欠片なのだ。父が、人と機械を「支配/被支配」の関係でしか見られなかったのに対し、母は、両者が「共感」し、「調和」する未来を夢見ていた。そしてその夢が、奇跡的に息子である自分の中に受け継がれたのだ。そして、レギュレーター。この忌まわしい支配の装置が、皮肉にも、母の遺したその才能を開花させるための、アンテナの役割を果たしていたのかもしれない。涙が、リオの頬を伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。自分の力のルーツを知り、その意味を理解した、安堵の涙だった。この力は、バグじゃない。母さんが遺してくれた、絆の証だ。だとしたら、僕はこの力で、機械と、そして人と、繋がってみせる。父とは違うやり方で。


ある日、彼らはアヴァロンの手がかりとなる古代の地図を手に入れるため、巨大な砂漠地帯の上空を飛んでいた。その時、眼下で一隻の大型輸送船が、複数の小型戦闘機に襲われているのを発見した。戦闘機の機体には、蠍のようにも、鳥の鉤爪のようにも見える、禍々しいエンブレムが描かれている。市場で聞いた、あの『オールド・クロウ』だった。


「ちっ、最悪のタイミングで出くわしたな!」


マキナは即座に進路を変えようとした。市場での噂が、彼女の判断を裏付けていた。関わるべきではない、と。しかし、彼らの運は尽きていた。空賊の一機が、太陽の光を反射したステラ・マリス号の存在に気づいてしまったのだ。


「面倒なことになった!しっかり掴まってな、リオ!」


マキナは悪態をつきながら、ステラ・マリス号のエンジンを全開にした。眼前に、巨大なキノコのような形をした岩礁群がそびえ立つ。マキナは、躊躇なくその迷路のような岩礁地帯へと突っ込んだ。ステラ・マリス号は、巨大な岩のアーチを潜り抜け、狭い渓谷を垂直に駆け上がり、敵機を巧みに翻弄する。追跡してきた一機が、岩壁に激突して火花を散らした。彼女の操縦は、もはや技術というより芸術の域に達していた。それは、彼女が長年、この船と、そして空と対話し続けてきた証だった。だが、敵は数で勝る。巧みな連携で、彼らは徐々にステラ・マリス号を追い詰め、開けた空域へと追い出す。


「くそっ、しつこい!」


マキナは、コックピットの、普段は使わないスイッチを起動した。


「喰らいな!じいちゃん特製『目くらまし花火』!」


船体後部から、眩い光を放つ金属片がばらまかれる。敵の照準システムが一時的に混乱し、数秒の猶予が生まれた。しかし、それは気休めにしかならない。やがて、リーダー機と思われる一際大きな戦闘機が、ステラ・マリス号の真横につけた。コックピットのキャノピーが開き、顔中傷だらけの、下品な笑みを浮かべた大男が顔を出す。


「そのオンボロ船と積荷を全部置いていきな。そうすりゃ、命だけは助けてやるぜ、お嬢ちゃん」


スピーカーから、耳障りな笑い声が響く。


「冗談じゃない!こいつはアタシの宝物だ!じいちゃんの形見なんだ!指一本触れさせてたまるか!」


マキナが叫び返した、その時だった。リオの身体が、思考より先に動いていた。恐怖よりも、怒りよりも強く、一つの感情が彼を支配していた。


――マキナを、この船を、僕が初めて見つけたこの居場所を、失いたくない。母が遺してくれたこの力で、大切なものを守るんだ。


リオは、船の荷台に山と積んであった、ジャンクパーツの山に駆け寄った。


『マシン・リーディング』の能力を、最大限に解放する。彼の脳裏で、ガラクタの山が、青白い光を放つエネルギーの集合体として見えた。一つ一つのパーツが持つ「記憶」と「可能性」が、美しい音楽のように、彼に囁きかける。古びたエネルギー集束装置が「もっと力を集めたい」と歌う。壊れた工業用レーザーカッターが「もう一度、光を放ちたい」と叫ぶ。高電圧に耐えられるエネルギーケーブルが「絆となりたい」と願う。彼の精神が、それらの声に共鳴する。彼の意志が、指揮者のタクトのように、ガラクタたちを導く。リオが手をかざすと、彼の意志に応えるように、いくつかのパーツがひとりでに宙に浮き、彼の周りを衛星のように旋回し始めた。そして、目に見えない力に導かれるように、それらは完璧な設計図通りに、空中で結合していく。火花が散り、金属が軋み、新たな機械が産声を上げる。それは、もはや「組み立て」という行為ではなかった。リオの魂を触媒として、ガラクタに新しい命を吹き込む、まさしく『創造』の奇跡だった。


「マキナ!船の予備電源の出力を最大にして、こっちに回してくれ!」


「え!?何すんのさ、そんなことしたらヒューズが飛んで、メインエンジンまで止まっちゃうよ!」


「いいから、早く!僕を信じて!」


普段は物静かなリオの、気迫に満ちた、命令に近い声。マキナは一瞬ためらったが、彼の、そして彼の周りで起こっている超常的な光景を信じることにした。


「分かった!もし船が落ちたら、あんたのせいだからね!」


彼女はコンソールの特定のスイッチを、安全カバーを叩き割って、無理やり押し込んだ。次の瞬間、リオが創造した、鳥の翼のような形状を持つ即席のエネルギー砲に、船のジェネレーターが悲鳴を上げるほどの莫大なエネルギーが供給された。だが、それだけではなかった。砲身の先端が開くと、周囲の砂嵐に含まれる膨大な静電気を、まるでクジラがプランクトンを吸い込むように、凄まじい勢いで吸収し始めたのだ。ケーブルが赤熱し、砲全体が蒼い光を放つ。


「いけえええええっ!」


リオが叫ぶと同時に、純白の閃光が、空を引き裂いた。それは、もはやビームではなかった。破壊の光の奔流だった。閃光は、リーダー機の右翼を撃ち抜くだけでは終わらない。そのまま軌道を変え、隣にいた別の戦闘機を飲み込み、蒸発させる。さらに、その余波だけで、後方の数機がコントロールを失い、互いに衝突して爆発四散した。


「な、なな、なんだありゃあ!?化け物か!?」


たった一撃で、戦況は覆った。オールド・クロウの空賊たちは、目の前で起こった悪夢のような光景に完全に戦意を喪失し、我先にと逃げ出していく。戦いの後、煙を上げるステラ・マリス号の甲板には、静寂が戻った。リオは、エネルギーを使い果たし、その場にへたり込んでいた。マキナが、震える足でコックピットから出てきて、彼の前に立つ。


「……あんた、一体、何者なの」


呆然とした顔で、彼女は言った。


「わからない……ただ、頭の中にイメージが……どうすればいいのか、全部見えたんだ。みんなの声が、聞こえたんだ。守りたいって、思ったら……」


「マシン・リーディングだけじゃない。あんた、それを応用して、ガラクタから新しいものを作り出す力があるんだ!それこそ、伝説の能力…じいちゃんの本にあった、究極の技…『クリエイト』だ!」


マキナは、ゴクリと唾を飲んだ後、次の瞬間、これまでで一番の、太陽のような笑顔を弾けさせた。


「最高じゃん!リオ!あんたがいれば、百人力だ!いや、千人力だよ!アタシの船に、とんでもないお宝が乗り込んできた!」


彼女は、自分のことのように喜び、興奮してリオの背中を力いっぱい叩いた。初めて、自分の力が誰かの役に立った。初めて、自分の意志で、大切な誰かを守ることができた。灰色の檻の中にいた頃には、決して感じることのできなかった熱い感情が、リオの胸を確かに満たしていた。それは、自分の存在を、この世界に肯定されたかのような、誇らしい温かさだった。


その夜、リオは新しいスケッチブックの最初のページを開いた。そして、そこに、これまで描いてきた風景や機械ではなく、一人の少女の横顔を描き始めた。ゴーグルを額に上げ、少しだけ油で汚れた頬で、屈託なく笑う、赤い髪の少女。僕の太陽。僕を、灰色の世界から連れ出してくれた人。そして、彼はリュックの奥から、ずっと大切に持っていたスケッチブックの燃え残りをそっと取り出した。そこに描かれていたのは、鳥のように自由に空を飛ぶ、小さな機械の設計図。セクターにいた頃、無意識に描き続けていた、自由への渇望そのものだった。リオは、満天の星に向かって、静かに、しかしはっきりと呟いた。


「僕も、見つけたいな。僕だけの、アヴァロンを」


それは、父に与えられた役割でも、誰かの夢に乗っかるのでもなく、彼が自分の意志で、生まれて初めて抱いた、自分自身の、確かな夢だった。

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