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リオ-鳥籠の少年-

空が灰色以外の色を持つことを、リオは知識として知っていた。古びた電子教科書の片隅に表示される、彩度の低い参考画像。それは「(ソラ)」という単語に紐付けられた、ただの記号に過ぎなかった。彼にとって、現実の世界は、物心ついた時から、濃淡の異なる無限の灰色で塗りつぶされていた。磨き上げられた鋼鉄の冷たい灰色。絶えず大気に浮遊し、肺腑を静かに蝕む煤煙の淀んだ灰色。打ち捨てられた機械の骸に降り積もる、時間の死骸のような埃の灰色。そして何よりも、この都市の住民たちの瞳に宿る、希望という名の光をとうの昔に失った、鈍く、諦観に満ちた灰色。


リオが生まれ育ったのは、インダストリアル・セクター7。そのあまりに的確で、皮肉な通称を、人々は囁くように、あるいは吐き捨てるように、『灰色の揺り籠』と呼んだ。大地を覆い尽くすようにして築かれたこの巨大な工業都市は、天を衝くほどの支柱群に支えられた金属プレートが、何百、何千という階層を成して重なり合っている。その結果、本物の空という概念そのものが、住民たちの意識から奪い去られていた。頭上にあるのは、さらに上層のプレートの裏側であり、そこから染み出す汚染された廃液のシミが、不気味な地図のように広がっているだけだ。


本物の太陽、本物の雲、そして、本物の空。それらはみな、統制された教育プログラムの中で、子供たちがおとぎ話として聞かされる、遠い昔の遺物、あるいは神話の産物だった。「太陽光」と呼ばれるものは、分厚いスモッグと幾重にも重なる金属プレートの僅かな隙間から、まるで気まぐれな神が細い指で世界をなぞるかように差し込む、くすんだ光の筋のことを指した。その光ですら、何層もの汚れた大気を通り抜けるうちにその熱と輝きを失い、地上に届く頃には、舞い上がる無数の粉塵を虚しくきらめかせるのが精一杯だった。


空気は常に、粘りつくようなオイルの匂いと、金属がゆっくりと酸化し死んでいく錆の匂い、そして得体の知れぬ化学薬品が放つ、鼻腔の奥を痺れさせるような刺激臭が混じり合っていた。深く息を吸い込むことは、自らの寿命を少しずつ削り取る行為に等しいと、誰もが暗黙のうちに理解していた。街のあらゆる場所から、巨大な機械が絶え間なく吐き出す、内臓を揺さぶるような低周波の唸りと、巨大な金属部品同士が軋み、擦れ合う、耳障りな不協和音が響き渡る。その音は、この都市が生きている証であると同時に、その巨大な鉄の身体が上げ続ける、終わりのない苦痛の呻き声のようでもあった。静寂は、年に一度、すべての機械が沈黙する『サイレント・ナイト』の数時間だけ訪れる。その静寂は、最も希少で、最も高価な贅沢品だった。


リオの家は、そのセクター7の最上層部、第1層プレート『オリュンポス』にそびえ立つ、一本の巨大な塔の中にあった。ここは、セクター内で唯一、くすんだ陽光が比較的長く滞在し、汚染された大気が特殊なフィルターによって浄化されているエリアだ。セクターのすべてを支配する巨大企業『オルクス動力』。その頂点に君臨する社長の邸宅。彼の父が座す、灰色の世界の玉座である。


リオの父、アウグストゥスは、セクター7の創造主であり、そこに住まう人々にとっては絶対的な神だった。エネルギー供給から警備システム、食料配給、情報統制、天候管理、そして住民一人ひとりの生体データに至るまで、彼の承認なくして動くものは何一つなかった。彼は、秩序と効率を神聖な教義のように崇拝し、人間の感情をシステムの安定性を損なう予測不可能なバグ、あるいは早急に除去すべき危険なウイルスのように嫌悪していた。彼にとって、幸福とは安定したシステムの中で各々の役割を過不足なく全うすることであり、愛とは完璧な管理体制を敷くことであった。


彼の執務室は、彼の精神をそのまま具現化したような、冷たく、静謐な空間だった。床は、寸分の狂いもなく磨き上げられた黒曜石でできており、歩く者の姿を歪んだ影として映し出す。壁は、一切の装飾を排したチタン合金で覆われ、微かな光さえも吸い込んでしまうかのようだった。そして、部屋の一面を占めるのは、都市のすべてを見渡せる巨大な強化ガラスの窓。そこからは、彼が創り上げた灰色のミニチュアガーデンが、まるで神の視点のように一望できた。部屋の中央には、巨大な円形のホログラム・コンソールが鎮座し、セクターのあらゆる情報が青白い光の数字とグラフとなって、絶え間なく流れ続けていた。各層のエネルギー消費量、生産効率、大気汚染レベル、犯罪発生率、そして住民たちの平均心拍数。人々は、彼の前では単なる個性を失った数値の集合体でしかなかった。


一度だけ、リオは父の許可を得て、セクターの中層部にある中央配給タワーを見学したことがあった。それは彼の「教育」の一環であり、父が創り上げた完璧なシステムの効率性をその目に焼き付けさせるための、一種のデモンストレーションだった。そこは、巨大な体育館ほどの広さを持つ、だだっ広い空間だった。天井からは、無機質な照明が、床に落ちる影さえも計算されているかのように、均一な光を投げかけている。空間を支配しているのは、静寂ではなく、千人を超える人々が集まっているにもかかわらず、一切の私語やざわめきが聞こえないという、異常なまでの「無音」だった。聞こえるのは、配給レーンを滑るコンテナの機械的な駆動音と、人々が列を成して規則正しく歩く、揃いすぎた足音だけ。人々は、まるでプログラムされた機械人形のように、寸分の乱れもなく列を形成し、自分の番が来ると、個人IDが埋め込まれた腕輪を認証パネルにかざす。すると、オートメーション化されたアームが、その人物の年齢、性別、労働内容に応じて最適化された栄養素を含む、灰色の栄養ペーストのカートリッジを正確に配給する。誰も、隣の人間と視線を合わせようとはしない。誰も、配給される食事に喜びも不満も示さない。ただ、淡々と、決められたルーティンをこなすだけ。その光景は、効率的であると同時に、恐ろしく不気味だった。リオは、その中に、自分と同じ年頃の子供たちの姿を見つけた。彼らの瞳もまた、大人たちと同じ、諦観に満ちた灰色をしていた。彼らは、空腹を満たすという、生物として根源的な行為においてさえ、何の感情も抱くことを許されていなかった。配給レーンの出口で、小さな女の子が、配給されたカートリッジを誤って床に落としてしまった。カートリッジは音を立てて割れ、中身の灰色のペーストが床に広がった。少女は、一瞬、泣き出しそうな顔をした。その瞳に、ほんの僅かな「悲しみ」の色が宿った、その瞬間。彼女の首筋にあるレギュレーターが、微かに赤い光を点滅させた。次の瞬間、少女の表情から、一切の感情が消え去った。彼女は、床に広がった自分の食事を、まるで汚物でも見るかのように一瞥すると、何も言わずに、列の最後尾に並び直した。周囲の誰も、彼女を助けようとはしない。気遣う素振りさえ見せない。まるで、最初から何も起こらなかったかのように、完璧な秩序が保たれていた。父のシステムの前では、個人の失敗や悲しみは、存在しないことになっているのだ。リオは、その光景から目を逸らした。胸の奥が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。父は、このセクターから、飢えや争いを無くしたのかもしれない。だが、その代わりに、人々から人間であることの証そのものを、根こそぎ奪い去ってしまったのだ。帰り際、父は満足げに言った。


「見たか、リオ。完璧な秩序だ。無駄な感情の揺らぎがなければ、システムはこれほどまでに美しく機能する。お前も、いずれ、このシステムの頂点に立つ者として、この美しさを理解しなければならない」


その言葉は、賞賛でも、期待でもなく、逃れることのできない呪いのように、リオの心に重くのしかかった。


「思考するな、リオ」


父の言葉は、冷たい鋼鉄の檻そのものだった。温度も、感情の揺らぎも一切感じさせない、完璧に調整された合成音声のような声。その声は、執務室のどこからともなく響き渡り、黒曜石の床とチタンの壁に反響して、逃げ場のない音の牢獄を作り出した。


「ただ、従え。それがお前に与えられた役割であり、揺らぎない幸福なのだ。疑念はシステムのノイズだ。好奇心は非効率な逸脱だ。感情は、最も質の悪いバグに他ならない」


その言葉が発せられるたび、リオは、目に見えない無数の鎖で手足と心を縛り付けられるような、息苦しい感覚に陥った。父の目は、決してリオという個人を見てはいなかった。彼の瞳に映っているのは、自らが設計した「完璧なる後継者」というプロジェクトの進捗状況であり、そのパラメーターが規定値から外れていないかを確認する、ただの作業だった。


リオの「教育」は、一般的な学習とはかけ離れていた。彼のメインカリキュラムは、『ヘゲモニア』と名付けられた統治者育成シミュレーションだった。それは、彼の意識を直接リンクさせる仮想現実空間で行われる。目を閉じ、専用のヘッドギアを装着すると、リオの意識はセクター7を完璧に再現した仮想都市へとダイブする。彼は、父と同じように、神の視点から都市を俯瞰し、そこに発生する様々な「問題」に対処するよう求められた。


『ケース073:第48層区画において、非認可の音楽集会が確認された。参加者の感情レベルが高揚し、生産性の低下が予測される。推奨される対処法は、主導者の即時拘束と、参加者全員へのレギュレーター強制介入レベルの引き上げである。実行せよ』


無機質なシステム音声が、課題を告げる。リオの眼下には、薄暗い広場に集まり、古びた弦楽器らしきものを奏でる人々のホログラムが見えた。彼らの表情は、現実のセクターでは決して見られない、穏やかな喜びに満ていた。その音楽は、どこか物悲しくも、温かい響きを持っていた。リオは、躊躇した。この人々から音楽を奪うことに、何の合理的な意味があるのだろうか。しかし、彼が思考に時間をかければかけるほど、画面の隅に表示される「非効率指数」が上昇していく。


『警告:思考の遅延は、システムの不安定化を招く。感情的バイアスを排除し、最適な解決策を速やかに実行せよ』


父が、すぐ後ろで見ているかのような錯覚。首筋のレギュレーターが、彼の躊躇を「システムへの反逆」と判断したかのように、微かな警告振動を発する。リオは、目を固く閉じ、コンソールに「実行」のコマンドを打ち込んだ。瞬間、仮想都市に警備ドローンが投入され、音楽は無慈悲な警告音にかき消される。人々は拘束され、その瞳から光が消えていく。シミュレーションは、「問題の解決」を告げ、リオの評価スコアが上昇した。


『素晴らしい、リオ。感情に流されず、合理的な判断を下した。それが統治者に必要な資質だ』


父の声が、ヘッドギアのスピーカーから直接脳に響く。それは賞賛のはずなのに、リオの心には、冷たい灰が降り積もっていくだけだった。 ある日のシミュレーションは、より悪質だった。


『ケース124:下層区画で、システムに反発する思想を持つ小規模なコミュニティが形成されつつある。リーダーは、外部世界の存在を説き、住民の間に無用な混乱と非生産的な希望を広めている。放置すれば、システム全体への脅威となり得る。コミュニティを解体し、リーダーを「再配置」せよ』


リオがリーダーのホログラムにズームすると、その顔は、数年前に引き離された友人、フィンに酷似していた。もちろん、ただの偶然だ。AIが生成した、無意味な顔のパターン。そう頭では分かっているのに、指が震えて動かなかった。


「何をしている、リオ。躊躇は、システムの癌だ。その癌細胞は、小さいうちに、躊躇なく切除せねばならない。お前は機械になれ。完璧で、冷徹で、寸分の狂いもない、私の理想を体現する機械に」


父の冷たい指が、リオの肩に置かれる。その重圧に耐えかねるように、リオは「実行」コマンドを承認した。フィンの顔をしたホログラムは、抵抗することなく、警備ドローンに連行されていった。その瞳が、最後にこちらを向いて、何かを言いたそうに歪んだ気がした。シミュレーションが終わった後、リオは自室のトイレで、食べたばかりの栄養ペーストをすべて吐いた。レギュレーターが、彼の激しい罪悪感と自己嫌悪を異常値として検知し、強力な抑制信号を送ってくる。頭が痺れ、思考が停止する。だが、心の奥底で、何かが確かに壊れていく音を聞いた。父は、僕を支配するだけでは飽き足らず、僕を、父自身と同じ「怪物」に作り替えようとしている。


塔の中の生活に、リリスの痕跡は、意図的に消し去られたかのように、どこにも見当たらなかった。アウグストゥスの完璧な管理の下、過去は不要なデータとして破棄され、未来は予測可能な変数として制御される。そこには、思い出という名の「ノイズ」が入り込む余地はなかった。しかし、たった一箇所だけ、父の支配が及んでいない、忘れ去られた空間が存在することを、リオは偶然知った。それは、塔の最上層部、居住区画のさらに奥、地図にさえ記されていない小さな扉の向こうにあった。何かに導かれるように、厳重な電子ロックを、父の書斎で盗み見たメンテナンスコードを使って解除したリオが目にしたのは、信じがたい光景だった。そこは、ガラス張りの天井を持つ、小さな温室だったのだ。かつては、様々な植物が育てられていたのだろう。だが、今はそのほとんどが枯れ果て、茶色い残骸となって残っているだけだった。しかし、その枯れた世界の中で、たった一株だけ、壁際の、かろうじて光が差し込む場所で、小さな緑の双葉が、奇跡のように芽吹いていた。おそらく、何年も前にこぼれた種子が、偶然にも生き延びていたのだろう。空気は、セクターのどの場所とも違っていた。オイルや錆の匂いではなく、微かに、乾いた土と、枯れた植物の、どこか懐かしい匂いがした。部屋の中央には、埃をかぶった作業台と、一脚の椅子が置かれていた。作業台の上には、一冊の古い電子ブックが、まるで誰かがついさっきまで読んでいたかのように、開かれたままになっていた。リオが、恐る恐るその電子ブックに触れる。電源はとうの昔に切れていたが、補助的な記憶媒体に、最後のページだけが、かろうじて記録されていた。それは、手書きの、美しい女性の文字だった。


『アウグストゥスへ。あなたの理想は、きっと世界を正しい方向へ導くと信じています。けれど、忘れないで。完璧なシステムは、時に、不完全な心が生み出す、ささやかな美しさを見過ごしてしまう。この小さな庭が、いつかあなたの心が迷った時の、道標となりますように。たとえ私が、いなくなっても』


その下には、リオが生まれる前の日付と、『愛を込めて、リリス』という署名が記されていた。母。父が語ろうとしなかった、その人の、生きた証が、そこにあった。父は、母を愛していた。だが、その愛さえも、彼の完璧なシステムを構築するための過程で、切り捨ててしまったのだ。この温室は、父にとって、自らが捨て去った「感情」という名の弱さの象徴であり、故に、記憶の奥底に封印した、開けてはならないパンドラの箱だったのかもしれない。リオは、その場に落ちていた小さな水差しを見つけ、近くの配管から染み出していた浄化水を汲んだ。そして、あの奇跡の双葉に、そっと水をやった。緑の葉が、喜ぶように微かに震えた気がした。この小さな命を、守りたい。母が遺した、最後の希望を。それは、父への反逆とは違う、もっと個人的で、切実な、リオ自身の意志の芽生えだった。この日から、リオは父の監視を盗んで、この秘密の温室に通うようになった。双葉は、彼の世話に応えるように、少しずつ、しかし確実に成長していった。それは、灰色の世界における、リオだけの、秘密の色彩だった。この場所の存在と、母の遺した言葉が、彼にデータバンクの深層を探る決意をさせた、最後のひと押しとなったことは言うまでもない。


リオがまだ十歳にも満たない頃、彼は一つの小さな命と出会った。それは、オリュンポスの外縁部、巨大な換気システムの通気グリルに挟まっていた、一匹の汚れた子猫だった。どこから迷い込んだのか、おそらくは下層から貨物リフトにでも紛れ込んだのだろう。セクター7において、認可されていない生物の存在は、システムの安定性を乱す「汚染物質」と見なされ、即時駆除の対象だった。子猫は、リオの手を見て怯え、か細い声で威嚇した。だが、その瞳の奥には、恐怖と同じくらい強い、生きようとする意志の光が見えた。リオは、生まれて初めて、自分よりも弱い存在を守りたいという、強烈な衝動に駆られた。彼は周囲を警戒しながら、素早く子猫を自分のジャケットの中に隠し、自室へと連れ帰った。リオは、その子猫に「グレイ」と名付けた。灰色の世界で見つけた、灰色の小さな友達。彼は、自分のベッドの下に隠した箱をグレイの住処にし、配給される栄養ペーストをこっそり分け与えた。最初は警戒していたグレイも、リオの献身的な世話に、少しずつ心を開いていった。やがて、リオが部屋に戻ると、喉をゴロゴロと鳴らして足元にすり寄ってくるようになった。リオにとって、グレイとの時間は、灰色の日常における唯一の色彩だった。柔らかい毛の感触、温かい体温、そして自分を完全に信頼してくれる存在。グレイを撫でていると、心の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくるのを感じた。首筋のレギュレーターが、その感情を「幸福」と判断し、規定値を超えたホルモン分泌を検知して、微弱な抑制信号を送ってくる。頭の芯が少しだけ冷たくなる感覚。だが、グレイの温もりが、その冷たさを上回った。リオは初めて、システムの支配に、無意識のうちに抵抗していた。


その秘密の生活は、一ヶ月ほど続いた。しかし、父の全知全能の監視システムから、逃れられるはずもなかった。ある夜、リオが眠っていると、部屋の明かりが点き、父がベッドの脇に立っていた。その表情は、いつも通り、何の感情も浮かんでいない。


「リオ。説明しなさい」


父の視線の先には、ベッドの下から顔を出したグレイがいた。グレイは、見慣れない父の姿に怯え、リオの腕の中に逃げ込む。


「それは、システムの異物だ。非生産的で、非衛生的で、非合理的な存在。なぜ、ここにいる?」


「僕の……友達です」


か細い声で、リオは答えた。父は、ため息ともつかない、微かな息を漏らした。


「友情。それもまた、制御すべき感情の一つだ。特に、このような生産性のない生物に対する愛着は、最も無価値な感傷だ。それは資源を消費するだけの寄生虫であり、お前の判断を曇らせるバグの温床となる」


父は、少し屈むと、リオの腕の中からグレイをいとも簡単に取り上げた。グレイは怯えて暴れたが、父の鋼鉄のようなグリップからは逃れられない。


「やめてください!」


リオは叫んだ。だが、父は意にも介さない。

「お前のために、この『バグ』を駆除してやろう。これも、お前への愛情だ、リオ。お前を完璧な作品にするための、必要な工程なのだ」

父は、部屋の壁に設置されている廃棄物処理シュートのパネルを開いた。それは、小さなゴミを外部のメインダストシュートに直接投棄するためのものだ。


「やめて!お願いです、父さん!」


リオはベッドから飛び出し、父の足にすがりついた。だが、父は息子を冷たく一瞥すると、そのままグレイをシュートの中に放り込んだ。子猫の短い悲鳴と、シュートが作動する機械音。そして、完全な沈黙。


「…………あ……ああ……」


リオの喉から、声にならない声が漏れた。全身が激しく震え、目の前が真っ暗になる。悲しみ、怒り、絶望、そして、自分の無力さへの憎しみ。感情の嵐が、彼の小さな心を破壊しようとした、その瞬間。ゴツン、と後頭部に衝撃があった。レギュレーターが、これまで経験したことのない最大出力で、強制シャットダウン信号を送ったのだ。意識が、遠のく。激しい感情の奔流は、無慈悲な電子の波に飲み込まれ、かき消されていく。


次に彼が目を覚ました時、ベッドの上にいた。何が起こったのか、すぐには思い出せなかった。ただ、心の中心に、ぽっかりと大きな穴が空いたような、途方もない喪失感だけが残っていた。グレイの温もりも、ゴロゴロという喉の音も、もうどこにもない。愛情は、罰せられる。何かを大切に想うことは、それを失う苦しみを味わうことと同義なのだ。この日を境に、リオは二度と、何かに心を寄せることをしなくなった。感情を抱くことは、あまりにも危険で、あまりにも痛みを伴う行為だと、その魂に深く、深く刻み込まれたからだ。


リオは、一度だけ、同年代の少年と親しくなったことがある。その出会いは、偶然の産物だった。シミュレーションでの罪悪感に苛まれたリオは、衝動的に塔を抜け出したことがあった。警備ドローンの巡回ルートの隙間を縫って、彼は下層へと向かう貨物用リフトに忍び込んだのだ。父の言う「非効率」で「無価値」な世界を、この目で確かめてみたかった。リフトが到着したのは、セクター35。オリュンポスとは別世界の光景が広がっていた。空気は重く、湿っていて、カビと機械油の匂いがした。頭上の配管からは絶えず水滴が落ち、地面には正体不明の汚泥が溜まっている。人々は皆、うつむき加減に、足早に歩いていた。その瞳は、やはり灰色だった。父の言う通り、ここはただ停滞した、救いようのない場所なのかもしれない。そう思いながら、迷路のような路地を彷徨っていたリオの耳に、微かな音が届いた。それは、禁止されているはずの、楽器の音色だった。音のする方へ、吸寄せられるように歩いていくと、そこは小さな広場になっていた。その中心で、一人の老人が、ガラクタの金属パイプを組み合わせて作った、奇妙な笛を吹いていた。その周りには、数人の子供たちが座り込み、うっとりと聴き入っている。その音色は、シミュレーションで聞いたものとは比べ物にならないほど、豊かで、力強かった。それは悲しみを歌い、怒りを奏で、それでもなお生きようとする生命の力を讃えるような、魂の音楽だった。警備ドローンが来ないか、リオはハラハラしながら見守った。だが、広場の入り口では、数人の大人たちが見張りに立ち、仲間たちにだけ分かる合図を送り合っていた。彼らは、システムに抗い、自分たちの文化を、人間性を、守ろうとしていたのだ。さらに奥へと進むと、別の光景が目に飛び込んできた。ある家の一角では、女性たちが、廃棄されたケーブルの被膜を編み込んで、色鮮やかな腕輪を作っていた。灰色しかないこの世界で、彼女たちは自らの手で「色」を生み出していたのだ。それは、配給チケットと交換するための、ささやかな商いだった。リオは、その中の一つに目を奪われた。青い被膜と、銀色の被膜を編み込んだ、夜空と星を思わす腕輪。彼は、ポケットに入れていた、上層区画でしか手に入らない高品質のレーションバーを差し出した。女性は驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑い、腕輪とレーションバーを交換してくれた。その笑顔は、父の執務室の誰にも見られない、温かいものだった。その時だ。


「おい、お前、上のもんだろ」


背後から、ぶっきらぼうな声がした。振り返ると、そこに一人の少年が立っていた。髪は機械油で汚れ、ツナギはツギハ-ギだらけ。だが、その瞳には、他の誰とも違う、警戒心と好奇心が入り混じった、鋭い光が宿っていた。彼の名はフィン。整備士見習いの少年だった。これが、リオとフィンの出会いだった。フィンは、リオがオルクス動力の社長の息子だと知ると、最初は唾を吐きかけるような視線を向けた。


「てめえの親父のせいで、俺たちの生活はめちゃくちゃだ」


だが、リオが何も言い返せず、ただ悲しそうな顔で俯いているのを見て、興味を持ったようだった。リオが、他の上層の人間とは何かが違うと感じ取ったのかもしれない。


「……ついてこいよ」


フィンに導かれてたどり着いたのは、廃棄された貨物コンテナを改造した、彼の秘密の隠れ家だった。そこは、ガラクタの山だったが、リオにとっては宝の山に見えた。分解された機械部品、正体不明の電子パーツ、そして、壁一面に貼られた、古い電子ジャーナルの切り抜き。それらはすべて、セクターの外の世界に関する記事だった。フィンは、この灰色の世界の常識に縛られていなかった。彼はリオに、セクターの外の世界の話を、まるで見てきたかのように生き生きと語ってくれた。雲の上に広がる、どこまでも青い『蒼穹の海』の話。季節の風に乗って、大陸から大陸へと旅をする『渡り鳥』と呼ばれる飛行機械の群れの話。夜空には、月の他に無数の星が輝いているという話。


「なあ、リオ。俺のじいちゃんのじいちゃんは、外の世界から来たんだってさ。そこじゃ、空はこんな天井じゃなくて、どこまでも続いてるんだ。雨は酸っぱい匂いじゃなくて、土の匂いがするらしいぜ」


フィンの言葉は、乾ききったリオの心に染み込む、一滴の清水のようだった。どれもが、リオの心を躍らせる、眩しい光に満ちた物語だった。二人は、その日から、監視の目を盗んでは秘密基地で落ち合った。フィンはリオに、機械の分解の仕方を教え、リオはフィンに、学校で習った難しい数式の解き方を教えた。ある日、フィンはどこからか拾ってきたという、壊れたオルゴールをリオに見せた。それは、かつて上層区画の子供が持っていたものらしく、繊細な装飾が施されていたが、今は錆びつき、音を奏でるための櫛歯が何本も折れてしまっていた。


「こいつを、直せないか?」


フィンは、期待に満ちた目でリオに言った。


「じいちゃんが言ってたんだ。昔の世界じゃ、音楽は、こうやって箱に閉じ込めて、いつでもどこでも、聞くことができたんだって。すげえだろ?」


リオは、オルゴールを手に取った。彼の頭脳は、その複雑な機械構造を瞬時に理解し、破損箇所と、修理に必要な数式を弾き出した。だが、それだけではなかった。彼がオルゴールに触れた瞬間、脳裏に、幻のような光景が流れ込んできたのだ。暖炉のそばで、母親が、赤ん坊の自分に、このオルゴールを聞かせている。優しい笑顔。温かい歌声。それは、リオが全く覚えていないはずの、しかし、魂の奥底で知っている、遠い日の記憶の断片だった。リオは、無意識のうちに、その記憶に導かれるように、工具を手に取っていた。彼は、フィンが驚くほどの集中力で、折れた櫛歯の代わりに、様々な長さの金属片を精密に削り出し、配置していった。それは、もはや修理というより、新しい楽器を創造する作業に近かった。数時間後、リオが小さなゼンマイを巻くと、オルゴールは、再びその音色を奏で始めた。それは、元の曲とは違う、どこか物悲しくも、温かい、初めて聞くはずなのに、なぜか涙が出そうになる、不思議なメロディだった。


「す……すげえ!リオ、お前、天才かよ!」


フィンは、目を丸くして、その音色に聴き入っていた。リオ自身も、自分のしたことが信じられなかった。なぜ、自分にこんなことができたのか。だが、一つだけ、確かなことがあった。この音色は、フィンを喜ばせたいという自分の「感情」と、この機械が元々持っていた「記憶」が、奇跡のように結びついて生まれたものだということ。二人は、その秘密の音楽を、日が暮れるまで、何度も何度も、飽きることなく聴き続けた。フィンは、リオがこっそり描いていた鳥のスケッチを見て、馬鹿にするどころか、目を輝かせて言った。


「すげえじゃん!こいつ、飛べそうだな!俺がエンジンを作ってやるよ!」


フィンは、秘密基地の奥から、ガラクタの山をかき分けて、古びた動力ユニットを引っ張り出してきた。


「こいつは、昔の貨物ドローンのエンジンだ。今はもう動かねえけど、俺が絶対、叩き直してやる。そしたら、お前の設計したこの翼をつけて、二人で、この天井をぶち抜いてやるんだ!」


二人は、いつか本物の飛行機械を作って、この灰色の揺り籠から一緒に飛び立とうと、子供らしい、しかし真剣な夢を語り合った。それは、リオの人生で初めて経験する、対等で、温かい友情だった。


そのささやかな幸福は、長くは続かなかった。ある日を境に、フィンは秘密基地に現れなくなった。心配になったリオが、フィンの住んでいた居住区画を訪れると、その部屋はもぬけの殻になっていた。まるで、最初から誰も住んでいなかったかのように、すべての生活の痕が消し去られていた。その日の夕食の席で、父は、まるで天気の話でもするかのようにリオに告げた。


「無意味な交流は、システムの予測不可能性を高めるノイズを生む。下層区画の住人との過剰な接触は、お前の思考に悪影響を及ぼすウイルスとなり得る。彼らには、より生産性の高いセクター12の鉱物採掘エリアで、新たな役割を与えておいた。お前のための、合理的な判断だ」


セクター12。そこは、高濃度の汚染物質が漂う、最も過酷な労働環境として知られる場所だった。事実上の、終身刑に等しい流刑地だ。リオは何も言えなかった。スプーンを握る手に、力がこもる。悲しみ、怒り、絶望、そして父への燃え上がるような憎しみ。それらの感情が、濁流となって喉元までせり上がってくる。だが、それを言葉にすることも、涙として流すことも、彼には許されていなかった。なぜなら、彼の感情はすべて、父によって、24時間365日、完璧に監視されていたからだ。首筋に埋め込まれた、冷たい金属の感触。直径5ミリほどの、小さなチップ。オルクス動力が誇る、究極の人間管理システム――『レギュレーター』。それは、父が最愛の息子に与えた、愛情という名の、電子的な首輪だった。リオの心拍数、血圧、脳波、アドレナリンやセロトニンといったホルモンの分泌量。彼の身体と精神に関するあらゆる生体データは、リアルタイムで父のメインコンソールへと送信され続ける。喜び、好奇心、悲しみ、怒り。感情の振れ幅が、父によって設定された規定値を超えると、レギュレーターは脳の扁桃体に直接、微弱な抑制信号を送り、心を強制的に平坦な、凪いだ状態へと『最適化』する。それは、魂を目の細かい紙やすりで、少しずつ、少しずつ削り取られていくような、静かで、終わりのない拷問だった。友を失った悲しみで涙を流そうとしても、レギュレーターがそれを許さない。胸が締め付けられるような痛みも、脳がそれを苦痛として認識する前に、化学的な抑制信号によってかき消される。感情の波が起きるたびに、頭蓋の内側に、冷たい霧が吹き付けられるような感覚。思考が白く染まり、何も考えられなくなる。最初は、それに抗おうとした。もっと悲しませてくれ、もっと怒らせてくれ、と心の中で叫んだ。だが、システムは無慈悲だ。感情の奔流が起きれば起きるほど、抑制信号は強くなる。やがてリオは、何かを感じることそのものを、諦めるようになっていった。感じることは、苦しむことと同義だったからだ。彼は、自分の心を灰色の壁で塗り固め、感情という名の厄介な客人を、決して中に入れないようにした。


「お前の人生は、私の作品だ、リオ」


ある日、父は巨大な窓の外に広がる灰色の都市を見下ろしながら、そう言った。まるで、高名な芸術家が自分の最高傑作について語るかのように、その声には微かな陶酔の色さえ滲んでいた。


「私が完璧にデザインし、構築する、究極の芸術品。それがお前だ。そこに、設計図にない瑕疵は、決して許されない。お前の感情、お前の意志、それらすべては、私がコントロールする変数の一つに過ぎない」


その言葉を聞いた瞬間、リオの中で何かがぷつりと、音を立てて切れた。作品? 僕の人生が? 僕の心も、体も、魂も、この苦しみさえも、すべてが、あんたの自己満足のための道具だというのか。沸騰しそうな怒りが、脳を焼く。瞬間、レギュレーターが最大出力で稼働し、頭の中に氷の杭を打ち込まれたような激痛が走った。視界が白く点滅し、呼吸が浅くなる。父への殺意にも似た衝動が、強制的に鎮められていく。だが、その冷たい奔流がすべてを洗い流したはずの、精神の更地の奥深くで。一つの小さな、しかし決して消えない火種が生まれた。それは、反逆の炎だった。もう、ごめんだ。この灰色の檻の中にいるのは。この男の作品として、無感情な人形として、予測可能な一生を終えるくらいなら。いっそ、スクラップになった方がましだ。


反逆の決意を固めたリオは、より大胆な行動に出るようになった。脱出のためには、父のシステムを、そして何よりも自分を縛るレギュレーターを、より深く知る必要があった。彼は、父の書斎のメインフレームに、自作のプログラムを潜り込ませ、深夜、父が眠っている僅かな時間に、最高機密レベルのデータバンクへのアクセスを試みた。数週間にわたる試行錯誤の末、彼はついに目的のファイルにたどり着いた『プロジェクト・パクス』。それが、レギュレーター開発計画のコードネームだった。そこに記されていた内容は、リオの想像を絶するほど、非人道的なものだった。計画の初期段階では、セクターの下層区画の住人が、被験者として「提供」されていた。同意のない、強制的な臨床実験。ファイルには、被験者たちの無機質な識別番号と共に、その悲惨な経過が淡々と記録されていた。


『被験者7A:感情抑制信号への過剰反応。大脳新皮質の機能が不可逆的に損傷。思考能力を喪失し、植物状態に移行。処理済み』


『被験者12C:抑制された情動が、悪性ミームとして精神内部で増殖。重度の幻覚・幻聴を引き起こし、自我崩壊。処理済み』


『被験者3F:システムへの適応に成功するも、すべての自発的行動意欲を喪失。外部からの命令がなければ、食事・睡眠さえ行わない人形状態となる。失敗作として廃棄』


無数の「失敗」と「処理」の記録。その犠牲の上に、現在の安定したレギュレーター・システムが成り立っているのだ。リオは、吐き気をこらえながら、ファイルをスクロールし続けた。そして、一つのフォルダに目が留まった。『特殊被験者:LILITH』。そのフォルダを開くには、父の生体認証が必要だった。だが、リオは諦めなかった。父の行動パターン、声紋、虹彩データ。彼は、これまで監視され続けてきた膨大な記録の中から、父の生体データを逆シミュレートし、仮想的な認証キーを生成した。ファイルが開かれる。そこにいたのは、一枚の女性の写真だった。柔らかな笑みを浮かべ、その瞳は、リオが知らないはずなのに、なぜか懐かしい温かさに満てていた。リオの、母親だった。彼女に関する記録は、ほとんどが暗号化されていたが、断片的なテキストデータから、衝撃の事実が浮かび上がってきた。


『……アウグストゥスの理想に共感するも、感情の完全な排除には最後まで反対……』


『……彼女自身の提案により、被験者となる。人間の心を失わずに、情動を制御できる可能性を探るため……』


『……実験中の事故。感情の奔流がシステムをオーバーロードさせ、彼女の精神は……データ化され、メインフレームの深層に……』


母は、父の理想のために死んだのではなかった。父の狂気を止めようとして、その犠牲になったのだ。そして父は、母の失敗を教訓に、より完璧で、より非情なレギュレーターを完成させ、それを実の息子に埋め込んだのだ。怒りが、悲しみが、絶望が、再びリオの心を焼き尽くそうとする。だが、レギュレーターがそれを許さない。強制的な冷却システムが作動し、彼の心は再び平坦な無感情へと引き戻される。しかし、今回は何かが違った。真実を知った彼の魂は、もうシステムの支配を完全には受け付けなかった。氷のように冷たい無感情の奥で、母の悲しみと、無数の犠牲者たちの叫びが、決して消えない灼熱の核となって燃え続けていた。 この脱出は、もう自分一人のためのものではない。父の歪んだ理想に踏みにじられた、すべての人々の魂を解放するための、戦いなのだ。決行の日は、16歳の誕生日と決めた。その日、セクター全域で年に一度の大規模なシステムメンテナンスが行われる『サイレント・ナイト』が訪れる。午前0時から6時間、セクターのほぼ全ての電源が落とされ、都市の絶え間ない喧騒が嘘のように静まり返る、唯一の夜。そして何より、レギュレーターの監視機能を含む、オルクス動力のメインシステムが、完全にシャットダウンする、唯一のチャンスだった。年に一度だけ訪れる、魂の解放の夜。リオは、数ヶ月前から、父の監視システムの僅かな死角を突いて、密かに準備を進めていた。父との食事の席で、栄養ペーストを僅かずつ残し、乾燥させてレーションバーに変え、自室の床下の隠しスペースに隠した。父の書斎にハッキングを仕掛け、警備ドローンの巡回ルートと時間、そのアルゴリズムのパターンを記憶し、セキュリティシステムの物理的な死角を計算し尽くした。それは、父から叩き込まれた知識と論理的思考を、初めて父に反逆するために使う、皮肉な作業だった。そして、たった一つの、宝物だけは手放さなかった。かつて父に焼かれた、鳥のスケッチが描かれていた金属片。その燃え残りの、歪んだ小さな破片。そこには、高熱で溶けながらも、不格好な鳥の翼の先端が、奇跡的に残っていた。それは、彼が守りたかった、唯一の自分自身の証だった。


そして、運命の夜が来た。午後11時59分。カウントダウンの数字が、部屋の壁に埋め込まれたホログラム時計に、冷たく映し出される。セクター中に響き渡っていた巨大な機械の唸りが、一つ、また一つと、その音量を下げていく。まるで、巨大な獣がゆっくりと眠りにつくかのように。59秒。世界から、音が消えた。 同時に、生まれてからずっと首筋に感じていた、レギュレーターが発する微弱な振動と、脳にまとわりつく霧のような圧迫感が、ぴたりと止まった。解放感。何年ぶりだろうか。いや、生まれて初めて感じる、完全な精神の自由。堰を切ったように、これまで抑圧され、心の奥底に沈殿していた感情の澱が、濁流となって心を駆け巡る。フィンを失った時の、悲しみ。グレイを失った時の、痛み。母を想う、愛情。父に支配され続けた、怒り。未来への、漠然とした不安。そして何よりも、これから始まろうとしている未知への、焦がれるような期待。全身が、打ち震えた。これは恐怖ではない。歓喜だ。震える手で、粗末な布製のリュックを背負う。中には、数日分の自作レーションバーと、小さな水筒、そしてあのスケッチの燃え残り。それが彼の、16年間の人生の、全財産だった。 窓の電子ロックを、自作のツールで静かに解除する。ひやりとした夜気が、浄化されていない、ありのままのオイルと錆の匂いを乗せて、彼の肌を撫でた。眼下には、無数の配管とケーブルが、まるで巨大な生物の血管と神経のように絡み合う、セクターの階層が広がっている。緊急用の赤い誘導灯だけが、巨大な鉄の迷宮を、不気味に、そして幻想的に照らし出していた。窓枠に足をかけ、躊躇なく外壁に設置された非常階段へと飛び移る。金属が微かに軋む音が、心臓を鷲掴みにするかのようだ。だが、構わない。このスリルこそが、自分が生きている証だった。息を殺し、駆け下りる。一歩一歩、父の支配から遠ざかっていく。警備ドローンの巡回ルート。次のドローンがこのエリアに来るまで、あと90秒。記憶したデータを頭の中で反芻し、最短ルートを叩き出す。錆びついて赤茶けた、直径3メートルはあろうかという巨大なパイプの上を、まるで綱渡りをするように、バランスを取りながら渡る。眼下は、数百メートルはあろうかという、吸い込まれそうな奈落。落ちれば、灰色の世界のコンクリートに叩きつけられて終わりだ。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、この心臓の激しい鼓動、額を伝う冷たい汗、そのすべてが、自分が「生きている」という紛れもない証のように感じられた。


セクターの最下層、第200層に位置する廃棄物処理エリア『ハデス』。そこが、リオの目指す場所だった。セクターのあらゆるゴミ――壊れた機械部品、汚染された廃液、そして時には、システムにとって『不要』と判断された人間さえも――が集められ、さらに下層の、地図にも載っていない『アンダーグラウンド』と呼ばれる無法地帯へと投棄される場所。そこに存在する、都市の巨大な排泄口。巨大なダストシュートこそが、この灰色の揺り籠から脱出するための、唯一の出口だった。エリアにたどり着いた時、背筋が凍るような、圧倒的な感覚に襲われた。


「どこへ行く、リオ」


拡声器を通したような、平坦で、感情のない父の声。セクター中に設置された緊急放送用のスピーカーから、父の声が響き渡っていた。停電のはずだ。サイレント・ナイトのはずだ。それなのに。父は、塔の最上階にある、独立した非常用電源を使い、たった一人、息子の逃亡劇を監視していたのだ。この日のために、彼専用のバックアップシステムを構築していたのだ。 スピーカーが、エリアの四方八方で次々と起動し、父の声がリオを物理的に包囲する。


「無駄な抵抗だ。お前は私の最高傑作。私の管理下にあることで、お前は初めてその価値を持つ。そこから一歩でも外に出れば、お前はただの出来損ないの部品に過ぎない」


声が、壁に、床に、天井に反響し、幾重にも重なってリオを打ちのめす。


「私の描いた完璧な設計図から、なぜ逸脱する?理解できない。お前の行動は、論理的ではない。合理的ではない。ただの感情的な発作だ。やはり、バグが残っていたか」


「戻ってこい、リオ。再調整が必要なようだ。今度はお前のその『自由意志』という、最も厄介なバグを、完全に、跡形もなく除去してやろう」


恐怖。圧倒的な絶望。あの灰色の日常、魂を削られる静かな拷問の日々に、また引き戻される。足が鉛のように重くなり、その場に縫い付けられたように動けなくなった。その時、複数のサーチライトが、漆黒の闇を切り裂き、逃げ惑うリオの小さな姿を、無慈悲に捉えた。絶望が、彼の心を支配しようとした、その瞬間だった。足元の、直径数十メートルはあろうかという巨大な円形のハッチが、警告音と共に、轟音を立ててゆっくりと開き始めた。年に一度、この時間にだけ行われる、廃棄物の定期投棄。眼下には、光さえも飲み込むような、完全な暗闇が口を開けていた。セクターのあらゆる廃棄物を、遥か下層のアンダーグラウンドへと投棄するための、巨大な垂直のトンネル。


「無駄なことを。ドローン部隊がお前を捕獲するまで、あと30秒もない」


父の声が、すぐそこまで迫っている。複数のドローンが放つ、甲高い飛行音が、急速にこちらへ向かってくるのが聞こえた。リオは、一瞬だけ振り返った。サーチライトに照らされた灰色の世界の中心で、巨大な塔の窓から、自分を見下ろす父の影を見た気がした。感情のない、ただの影。自分を「作品」としか見ていない、創造主のシルエット。もう、あんたの作品でいるのは終わりだ。たとえこの先に待つのが、スクラップの山に叩きつけられる無残な死だとしても。この灰色の空の下で、あんたの人形として生き続けるよりは、ずっといい。リオは、奈落へ向かって、飛んだ。


猛烈な風圧。風が耳元で獣のように唸りを上げ、鉄とゴミとオイルが混じり合った、セクターの体臭ともいえる濃密な匂いが、肺の奥まで満たしていく。落ちている。どこまでも、どこまでも。重力だけが、唯一確かな感覚だった。これで終わりだ。灰色の世界からは、逃げ出せた。でも、その先には、何もない。目を固く閉じたリオの耳に、その時、聞き慣れない音が飛び込んできた。それは、都市の機械音とは全く違う、不規則で、どこか陽気で、生命力に満ちた音だった。大型の鳥が羽ばたくような、それでいて機械的な、プロペラが空気を力強く切り裂く音。


「よっと!ギリッギリ、セーフ!ったく、最近は上から降ってくる生ゴミも質が悪くなったねえ!」


突然、まるで巨大な手に優しく掬い上げられたかのように、何かに受け止められた。恐る恐る目を開けると、そこは小さな飛行機械――飛行艇と呼ぶにはあまりに小さく、雑多なパーツの寄せ集めで構成された――の甲板の上だった。船体は錆と無数のツギハギで覆われ、お世辞にも綺麗とは言えない。だが、そのオンボロな見た目とは裏腹に、機体は力強く、安定して空中に浮かんでいた。操縦桿を握っていたのは、一人の少女だった。額に押し上げたゴーグルの下で、大きな瞳が好奇心に満ちて、星のようにきらめいている。油汚れのついたオレンジ色のツナギは、彼女の快活な雰囲気に妙にマッチしていた。そして何よりリオの目を奪ったのは、その髪の色だった。燃えるような、鮮やかな赤い髪。ポニーテールに結わえられたその髪が、上昇気流を受けて、生命の炎のように揺れている。灰色以外の色。こんなにも、鮮烈な、心を揺さぶる色。少女は、悪戯っぽくニカッと笑った。白い歯が、薄暗いアンダーグラウンドの中で、眩しく光る。


「あんた、ツイてるね!アタシの『ステラ・マリス号』が、たまたま廃品回収に来てなかったら、今頃あんたはスクラップの山にダイブして、ペチャンコになってたところだよ!」


その声は、父の無機質な声とは正反対の、感情豊かで、太陽のように明るい響きを持っていた。リオは、言葉を失ったまま、彼女の背後に広がる光景に釘付けになった。生まれて初めて見る、本物の『空』。セクター7を覆っていた巨大な金属プレートの、さらに下。厚いスモッグの切れ間から、どこまでも、どこまでも広がる、深い、深い蒼。そして、灰色のセクターでは見たこともない、世界そのものを祝福するかのような、眩いほどの陽の光。その光に照らされた世界は、無数の色で満ち溢れていた。錆びた鉄の赤茶色。僅かに芽吹いた植物の、健気な緑色。遠くに見える、巨大な廃棄物処理場の、様々な色の洪水。それは、リオの脳が処理できる情報量を、遥かに超えていた。色の奔流が、彼の視界を、彼の心を、洗い流していく。リオは、そのあまりの美しさに、呼吸をすることさえ忘れていた。頬を、何かが伝う感覚があった。熱い雫が、次から次へと溢れ出してくる。 レギュレーターに抑制されることのない、生まれて初めて流す、本物の涙だった。


「アタシはマキナ!見ての通り、空を駆けるジャンク屋さ!あんたは?」


少女――マキナが、屈託のない笑顔で問いかける。


「……リオ」


かろうじて、それだけを答えるのが精一杯だった。声が、震えていた。


「リオね!よろしく!」


マキナは、呆然と涙を流し続けるリオを、不思議そうな顔で見ていた。


「さてと、そのボロボロの様子じゃ、上のお偉いさんから逃げてきたってとこかな?だったら、最高の場所に連れてってあげる!」


彼女は楽しそうにウィンクすると、操縦桿をぐいと倒した。ステラ・マリス号は機体を大きく傾け、急上昇する。眼下には、自分を16年間閉じ込めていた灰色の工業セクターが、みるみるうちに小さくなっていく。父の声も、もう聞こえない。それでも、リオの涙は止まらなかった。それは、悲しみの涙ではなかった。安堵でも、喜びでもない。これまで抑圧され続けてきた全ての感情が、行き場を失って、ただただ溢れ出してくる、浄化の奔流だった。彼は、甲板に座り込み、小さな子供のように声を殺して泣き続けた。マキナは、そんなリオの様子を、最初は少し面白そうに眺めていた。だが、彼の嗚咽が、単なる感傷から来るものではない、もっと根深く、魂に刻み込まれた苦痛から発せられていることに、彼女の野生の勘が気づいた。


「……しょーがないなあ」


マキナは操縦を一時的にオートパイロットに切り替えると、ゴソゴソと船内から何かを持ってきた。それは、油汚れのついた、しかし温かいマグカップだった。


「ほらよ」


ぶっきらぼうに差し出されたマグカップを、リオは反射的に受け取った。中からは、焦げたような、それでいてどこか木の実を思わせる香ばしい香りが立ち上っている。


「アタシの特製コーヒー。まあ、代用豆だけどな。クソまずいが、体は温まる」


リオがそれを飲むのを、マキナは立ったまま見守っていた。そして、おもむろに、彼の隣にどさりと腰を下ろした。そして、ごしごしと、少し乱暴に、リオの頭を撫でた。


「!」


リオの体が、雷に打たれたように硬直した。温かい。他人の、肌の温もり。彼が知っている接触は、父の、命令を下すために肩に置かれる、冷たい重圧だけだった。あるいは、レギュレーターを埋め込まれた時の、無機質な機械の感触だけだった。マキナの、少し硬く、機械油の匂いがする手のひらは、信じられないくらい、温かかった。


「ま、色々あったんだろ。無理にとは言わねえけど、泣くだけ泣いたら、全部忘れちまえ。空の上じゃ、下の世界のゴタゴタなんて、ちっぽけなもんだぜ」


その言葉は、粗野で、単純で、何の論理性もなかった。だが、その言葉と、頭を撫でる手の温かさが、リオの心の奥深く、厚い氷で覆われていた場所に、初めて届いた。氷が、少しだけ、溶ける音がした。涙の理由が、苦しみから、温かい安堵へと、ゆっくりと変わっていくのを感じた。


「……ありがとう」


蚊の鳴くような声で、リオは言った。マキナは、ニカッと笑うと、再び操縦席に戻った。

「礼には及ばねえよ!さて、行くとすっか!新しい世界へ!」


どこまでも広がる大空へと飛び立っていく。 それは、リオの魂が、灰色の揺り籠から解き放たれ、初めて鮮やかな世界の色と、人の温もりを取り戻した瞬間だった。


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