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月を想う


 あれは、夏の終わりのことだった。

 風の匂いがかすかに変わり、夜が少しずつ長くなりはじめた頃。

 私は、都を離れ、竹取の翁の家を訪れた。

 噂に聞いていた「光る姫」……

 それは、ただの比喩ではなかった。

 まことに、彼女の姿は月そのものであった。

 白く透きとおる肌、夜露のような髪、そして、目にした者の心を静かに震わせる、あの瞳。

 初めて彼女と向き合ったとき、私は言葉を失った。

 その美しさにではない。

 その瞳に、計り知れぬ哀しみが宿っていたからだ。

「なぜ、そんな目をしておられるのか」

 私は問うた。けれど彼女はただ、微笑んだ。

 その笑みの奥に、言葉にできぬ重さを隠して。


 私は帝として、多くの女を見てきた。

 政治のために、血筋のために、数多の婚姻もあった。

 だが、かぐや姫だけは違っていた。

 静けさのなかに宿る気高さ。

 どこかこの地上に属していないような儚さ。

 私は知らぬ間に、心を奪われていた。

 それから、私は幾度となく彼女のもとを訪れた。

 花の香が風に溶ける夕暮れ。

 虫の声が静かに満ちる夜更け。

 焚いた香の煙がゆらめく縁側に並んで座り、ときには言葉も交わさずに、夜空を見上げた。


 彼女は言葉少なで、過去も未来も語らなかった。

 だが、ふとした沈黙のなかに、私は何度も彼女の孤独を感じた。

 まるで、この世に寄り添いながらも、どこか遠くの場所を見ているような、そんな瞳。

「あなたの心は、どこにあるのですか」

 ある夜、私がそう尋ねると、

 姫は小さく微笑んで、遠くの空を見上げた。

「……月の向こうに」

 私はそのとき、悟った。

 この恋は、地上では決して叶わぬものだと。

 それでもよかった。

 彼女がそばにいてくれる、それだけで。


 けれど、それすらも叶わぬ夜が訪れた。

 中秋の名月。

 空は澄みわたり、風は静まり返り、

 夜が、月に吸い込まれるように始まった。

 かぐや姫は、私の前に立ち、目を伏せて言った。

「もう……行かねばなりませぬ」

「この国の誰よりも、私はそなたを愛している。なぜ、その手を取らせてくれぬのか!」

 私の声は、思いがけず震えていた。

「私も……愛しておりまする。けれど、この愛を抱いたまま、月へ帰ることが、私の罰なのです」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。

 そして、涙を流した。

 それが、彼女が地上で見せた、最後の感情だった。


 天より降り立った月の使者たちは、羽衣を差し出した。

 それを纏えば、彼女はこの世のすべての記憶を失うという。

 私は、叫びたいほどの衝動をこらえながら、ただ彼女の手を握った。

 その手は、夜風のように冷たく、それでも確かに、私の手を包んだ。

「もしこの地上に、もう一度生まれ落ちることがあるのなら……」

 彼女は真っ直ぐにわたしを見て言った。

「その時はまた、あなたに会いたい」


 そして姫は羽衣を纏い、静かに空へと昇っていった。

 私の手のぬくもりが、消えていった。

 夜が明け、月が山の端に消えていっても、私は立ち尽くしていた。

 あれは幻だったのか。

 ほんとうに……光る姫は、この世にいたのか。

 否、確かに、彼女はいた。

 私の心のなかで、今も、生きている。


 私は夜毎に月を仰ぐ。

 そこに、彼女がもういないと知りながら。

 けれど、そうせずにはいられない。

 もし、来世というものがあるのなら、もう一度、この地上に咲いてくれ。

 今度こそ、決して手放さぬ。

 たとえどんな宿命が待っていようとも。


 私は、待つ。

 月を見上げながら。


「かぐや……私の心は、今もお前のものだ」

竹取物語より

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