月影の別れ
竹取の翁が見つけた、光を放つ一本の竹。
その中に座すようにしていた、美しき赤子。
名は、かぐや。
娘として育てられたその姫は、やがて成長し、人の世に咲く花のごとく、美しさと気高さを兼ね備えるようになった。
誰もが、その姿をひと目見ようと村へと訪れ、やがて、かぐや姫の名は都にも響き渡った。
公家の子息、武士、法師、果ては皇族に至るまで。
求婚の行列は尽きなかったが、誰一人として姫の心を動かす者はいなかった。
その瞳はつねに、どこか遠くを見ていた。
まるでこの地上に未練がないかのように。
ただ、一人だけを除いて。
それが若き帝であった。
帝は、姫の元へ贈り物も連れの使者もよこさず、ある夜、ただ一人で訪れた。
かぐや姫はその不思議な客に、微笑を向けた。
「夜風の中、お寒うございませぬか」
その晩、二人は庭に腰を下ろし、沈黙の中で空を仰いだ。
帝は、静かに言った。
「月が澄んでおるな。……そなたは、どこかこの世の人ではないように思える」
かぐや姫は、その言葉に胸を刺された。
唇がかすかに震え、やがて押し殺したような声が漏れる。
「……そうかもしれませぬ」
ふたりの間に、恋の言葉はなかった。
だが、交わすまなざしに嘘はなく、沈黙のなかにだけ育まれる想いがあった。
月を見上げるたび、かぐや姫の胸に刻まれる時の重み。
それは、近づいていた。
中秋の満月。
その夜、姫は月へ帰らねばならぬ定めだった。
誰が決めたのでもない。
かぐや姫は、そう生まれてきたのだ。
地上にとどまる時間は限られていた。
翁も媼も、姫のその運命をうすうす悟っていた。
けれど、何も問わず、何も責めず、ただその日まで、家族として共にいた。
そして、その夜は訪れた。
雲ひとつない澄んだ空に、青白く冷たい満月が浮かぶ。
地に生きるものすべての影が、静かに光に照らされていた。
かぐや姫は、装束を整え、ゆっくりと庭に出た。
翁と媼は、縁側に立ち尽くし、声も出なかった。
姫は、涙をこらえて頭を下げた。
父と母に、心からの礼を込めて。
「長い間、ありがとうございました」
その背中に、翁が一歩踏み出そうとするが、媼が袖を掴んで止めた。
言葉も涙も、もう姫には届かぬことを知っていたのだ。
そのとき。
帝の駕籠が、風を裂くようにして姫のもとへたどり着いた。
帝の姿は、いつかの夜と変わらぬまま。
けれどその目には、切なさと怒り、そして必死な愛が宿っていた。
「もう……行かねばなりませぬ」
姫が静かにそう言ったとき、帝は姫の前に立ちはだかる。
「この国の誰よりも、私はそなたを愛している。なぜ、その手を取らせてくれぬのか!」
姫の瞳に涙がにじむ。
しかしその声は、凛としていた。
「私も……愛しておりまする。けれど、この愛を抱いたまま、月へ帰ることが、私の罰なのです」
そのとき、空が静かに揺れた。
白く輝く光の道が開かれ、月の使者たちが地上に降り立つ。
天女たちが羽衣を携え、姫の前にひざまずく。
それを纏えば、感情も記憶も……すべてが、静かに消えてしまう。
かぐや姫は、最後の最後に、帝の手を取った。
手のひらのぬくもり。
それだけは、忘れたくなかった。
「もし、この地上に生まれ変わることがあるのなら……その時は、また、あなたに会いたい」
天女たちは微笑み、羽衣を姫の肩にそっとかけた。
それは、夜露のように淡く、はかない光を纏っていた。
姫の姿が、月の道へ吸い込まれていく。
涙も流せぬまま、帝は、空に向かって立ち尽くした。
声は震えて、風にまぎれた。
「愛しておった……かぐや」
その言葉だけが、いつまでも夜空に残った。
そして、月は、静かに雲へと隠れていった。
竹取物語より