夏休み
タカシの短い夏休みが始まった。その日は暑かった。サイクリングが趣味のタカシは、ホームタウンから40㎞程離れた港町を目的地に設定し、自転車をこぎ始めた。近所の商店街を通っている途中、サナちゃんのお母さんが前から歩いてくるのに気づいた。家は近所なのだが、久しぶりに見た。サナちゃんはタカシの小学校のときの同級生で、男子とも気兼ねなく遊ぶ女子だった。男子に混じってタカシの実家に遊びに来たこともあったし、反対に、タカシを含め男子数人でサナちゃんの家に遊びに行ったこともあった。そのとき、サナちゃんのお母さんは、子どもたちの分のお菓子をプレートに乗せて持ってきてくれた。笑顔が素敵な美人で優しい人だった。サナちゃんと疎遠になったのはいつからだろう。中学に入ってからか、6年生のときには既に話さなくなっていたか。詳しくは覚えていないが、お互い男女を意識しだす年頃だし、まあ当たり前のことなんだろう。それと同時にサナちゃんのお母さんとも疎遠になっていった。サナちゃんのお母さんが近づいてくる。気まずいなぁとタカシは思った。サナちゃんのお母さんも気まずいんだろうなぁとタカシは思った。タカシはサナちゃんのお母さんと目を合わせず、まっすぐ前を向いてすれ違った。すれ違ってしまえば、気まずさは一瞬にして消え失せた。
ホームタウンを離れて10分ほど経った。タカシは山道を走っていた。急な上り坂がたくさんある、初心者にとってはハードな山道だ。タカシは途中で自転車を降り、水分補給をした。家から2Lペットボトルのスポーツドリンクを3本持ってきた。2本は提げているリュックサックに、もう1本は自分で取り付けた後ろ籠の中に入れている。準備は万端だ。だからといっていっきに飲みすぎてはいけない。少しずつゆっくり飲むのがカギだ。飲み終えてしばらく道端に座り込んでいると、後ろに誰かの気配を感じた。振り返ると、目の前にオオスズメバチがいた。タカシは自転車もリュックサックも置いて全速力で逃げた。タカシは小学校の時から足が速かった。特に走り出しが早く、高校の体育祭のリレーで、クラスメイトの陸上部から1番走者を任されるくらいだった。10秒ほど走った後、後ろを振り返った。そこにオオスズメバチの姿はなかった。タカシはホッとしてスピードを緩めた。あんなに近距離で生きたオオスズメバチを見たのは人生で初めてだった。恐らくほとんどの人は経験ないだろう。オオスズメバチの邪悪そうな顔がはっきりと認識できた。もう少し気づくのが遅かったら、今頃自分は死んでいただろう。
逃げ切れたのはいいが、自転車もリュックサックも置いてきたままだ。戻らないと。しかし臆病なタカシにはその勇気がない。20分ほど経つと、さっき潤した喉がまた乾きだした。汗が再度滲み出てきたのだ。上り坂以外は、立ち止まっているよりも自転車を漕いでいる方が涼しい。オオスズメバチの危険から逃れられたのに、今度は喉の渇きで危険な状態になるなんて。早く水分を取りたい。そして下り坂の涼しさを味わいたい。よし、戻ろう。タカシは意を決した。あたりを見回しながらゆっくり戻るのと、脇目も振らず一目散に戻るのとどっちがいいだろう。そうか、ゆっくり戻って、オオスズメバチの姿が見えたら再度一目散に走って逃げよう。そのときにできれば後ろ籠のペットボトルかリュックサックだけでも取りたい。
タカシは自転車とリュックサックのところへ向かって歩き始めた。まるで臆病な草食動物のように、目を見開いて辺りを見回している。大丈夫だ。何の気配もない。リュックサックを担ぎ、自転車に乗り、なんとかその場を離れることができた。そして少し離れたところで再度水分補給をした。
山道を抜けると、海沿いの道に出た。ここからまっすぐ突き進めば、目的地の港町にたどり着ける。
夢中で30分ほど走っていると、公園が見えた。ベンチもある。あそこで持ってきたカロリーメイトを食べようとタカシは思った。
その公園は、海沿いの公園にしては珍しく、グラウンドと遊具の両方がある広い公園だった。リュックサックにはメープル味、チョコレート味、フルーツ味の3種類のカロリーメイトが入っている。今はフルーツの気分だな。タカシは一口々々味わって食べた。噛むたびにフルーツの香りが脳全体を駆け巡る。フルーツ味といってもカロリーメイトなので、呑み込むごとにスポーツドリンクで口のパサつきを潤わせる。フルーツ味とスポーツドリンクの相性が非常に良い。4本のカロリーメイトを20分かけて食べ終わった。タカシは自分のマイペースさに驚いた。さっきのオオスズメバチのところでも時間をかけてしまったし、予定よりも長いサイクリングになりそうだ。帰るころには少し暗くなっているかもしれない。まあ、それはそれで涼しいしいいか。
タカシが今後の計画を立てていると、一組の親子がグラウンドに来た。母親は30代半ばくらいで、男の子のほうは10歳くらいか。母親がサッカーボールを脇に抱えている。大人用の高級そうなボールだ。二人ともフットボールのユニフォームを着ている。母親が15mほど離れた息子に向かってボールを蹴った。息子がトラップに失敗して、ボールは息子を通り過ぎた。母親が何か強い口調で言っている。そこには、厳しさというより、熱心さが見える。今度は息子が母親に向かってボールを蹴った。ボールは軌道を逸れ、母親は走ってなんとかそのボールに間に合わせてトラップした。
しばらくその様子を見ていたタカシは、親子の方へ歩き出した。
「こんにちは!」とタカシは親子に挨拶した。母親が挨拶を返した。
「よかったら僕が息子さんの相手しましょうか?」とタカシは母親に提案した。
「え!いいんですか?」と母親は驚いて聞き返した。
「僕も学生時代サッカーやってて、ちょっとあそこのベンチから見させてもらってたんですよ。」とタカシは言った。
「あ、それじゃお願いします。小太郎、良かったね。」そう言って母親は息子の方を見た。息子は恥ずかしそうにしている。
タカシと小太郎がパスとトラップの練習をし始めた。小太郎がトラップを失敗してしまうときのパターンは二つあった。空振りしてボールが通り過ぎてしまうパターンと、トラップが大きくてボールが前に出すぎてしまうパターンだ。
「トラップのコツは、ボールが足に触れる寸前に足を後ろに下げること。そうするとトラップを小さくすることができるんだ。」とタカシは小太郎に言った。何度か繰り返していると、少しずつ小太郎のトラップが小さくなってきた。頃合いを見て、もう少し難易度の高いことも教えてみようとタカシは思った。
「もう一つトラップのしかたがあるんだ。ボールの手前を踏みつけるトラップ。そうすると、バックスピンがかかってボールが足に吸い付くように自分のところに返ってくるよ。面白いでしょ?よしやってみよう。」とタカシは小太郎に言った。
何度か挑戦してみたが、なかなかうまくできない。「難しい。」と小太郎は言った。「よし、お母さんのところに戻って休憩しようか。」とタカシは小太郎に言った。
「ありがとうございます。」と母親がタカシに言った。
「僕も楽しかったです。お母さんもサッカーやられてたんですか?」とタカシは母親に尋ねた。
「小学校と中学でやってました。高校に入ってから辞めたんですけど。」と母親は言った。
「そうなんですね。小太郎君、トラップ良い感じですよ。」とタカシは言った。
「私が教えても全然良くならなかったのに(笑)。突然サッカーやりたいって言いだして。私も急いで近くのサッカー教室探したんです。」そういって母親は笑った。
親子と別れの挨拶をした後、タカシは再び自転車をこぎ始めた。