微粒子過敏症
朝の光がまだ薄い部屋の中で、白石は微かに身をよじった。
室内の空気は清浄機で何重にもろ過されているはずなのに、彼の鼻先はピリピリと刺激を受ける。
目を凝らせば、わずかな繊維くずがふわふわと舞い、白石の呼吸を遠慮なく妨げていた。
「 ここにもハウスダストが漂っている 」白石は眉間を寄せながら息を浅くする。
空気清浄機のランプは緑色のままで、機械的には“安全”と判断されているが、彼の体はいつもながら神経を研ぎ澄ませるように反応していた。
ラジオをつければ耳奥がチクチクとした。
それはAM波が混ざることで彼の神経を微妙に苛立たせるようで、さらにFM波や短波が交錯する時間帯になると頭の芯にじんわりと圧がかかる感触がする。
携帯電話の通話用周波数帯が生む電磁波も、外から微かに室内へ侵入してきていた。
800MHz帯、1.7GHz帯、2GHz帯――そのすべてが皮膚に触れるたびかすかな痛みとなって跳ね返る。
「 Wi-Fiも感じるし、もっと低い周波数のものまで分かる 」白石は熱っぽい視線を窓の外に向けた。
外には各家庭が使う無線LANの2.4GHzや5GHzが渦巻くように漂い、さらに職場や公共施設で飛び交うBluetoothの2.4GHzも合わさって、彼の周囲をひっきりなしに取り巻いている。
一方、電子レンジから漏れ出す電波も彼にとっては無視できない存在だった。
数秒間動作するだけで、まるで皮膚の裏を熱のようなものがじんわりと走るのだ。
特に高周波帯の強い電波が放たれると、耳鳴りが遠くから寄せてくる。
「 見えない電波がこれほどまでにあるなんて、普通の人にはなかなか信じてもらえないだろうな 」白石は深呼吸できないまま苦い笑みを浮かべた。
それだけではない。
彼はハウスダストや花粉にも鋭い感受性を持っている。
木造住宅から出る微細な木の粉、古い布団の綿やカビの胞子、押し入れに隠れたダニの死骸――そういったものがほんの少しでも舞い上がると、鼻の粘膜が焼けるように反応してしまう。
医者が見れば単なるアレルギーとも言われそうだが、白石の症状はそれだけでは片付けられない。
花粉が風に乗ってやってくる季節になれば、彼はあらゆるマスクを試してもまるで対処しきれない。
スギの花粉、ヒノキの花粉、ブタクサやイネ科植物の花粉――どれも空気中に漂う程度が増えてくると、彼の目は一気に赤くなり、頭痛が起こり、関節までもが軋むように痛む。
「 毎年この時期は気が重い 」彼は目元を押さえながらつぶやいた。
ごく小さな粒子が彼の鼻腔だけでなく全身へ警報を送るように駆け巡るのだ。
大気中にはPM2.5のような超微粒子も浮遊している。
工場からの排煙や車の排気ガスなど、多様な成分が混じり合って微細な粒子となり、身体の深部にまで侵入する。
通常ならば目に見えないほど小さなそれらが、白石にとっては誰の目よりも鮮明に「そこに存在している」とわかってしまう。
皮膚の表面に張り付くざらつきや目の粘膜を苛立たせる痛みが、他の人とはまるで異なる形で現れるのだ。
屋外へ出れば、自動車やバイク、工事現場の重機が放つ無数の音波までもが、彼の耳を圧迫する。
しかし白石の場合、音としての振動だけでなく、それが生む超低周波や高周波まで皮膚で感じ取ってしまうらしい。
携帯基地局が発する電磁波と、工事用機械の稼働音が織りなす波の干渉が、頭部から足先にかけて薄いしびれとして伝わってくることもある。
「 まともに歩ける日は少ないな 」白石は歩道橋の手すりに手を置き、眩しそうに空を見上げる。
彼の言う「空を見上げる」という行為には、単に陽の光を感じるだけではない意味が含まれている。
青空の中を漂う化学物質、都市部では排気ガスの成分の一部が蒸発し、紫外線と反応して生成されるさまざまな二次汚染物質――そういう無数の存在が、太陽の光とともに降り注いでくるのだ。
しかもそこに、航空機が飛ぶことで撒き散らされる燃焼後の微細粒子も重なり合う。
彼の身体は、それらを呼吸器や皮膚を通じて細やかに感じ取り、微かな倦怠感や痛みに変換してしまう。
職場に足を踏み入れれば、室内照明の蛍光灯やLEDから出る光が持つ波長まで気になる。
一部のLED照明はブルーライトが強く、長時間その下にいると目の奥が鋭く痛む。
「 照明さえもこんなに辛いのか 」白石は片手で額を押さえながら、深い呼吸をしようとしたが、胸の苦しさは和らがない。
エアコンのフィルターをどれだけ頻繁に交換しても、室内を浮遊する微細な塵やウイルス、そして化学物質が混ざった空気は消えることがない。
ときには職場の同僚が使う整髪料や香水、その成分が彼の鼻をつんと刺す。
一般的には心地よいはずの香りでも、白石にとっては頭痛と吐き気の原因になる。
さらに、彼のデスク周りに使われている合成樹脂系の仕上げ材や接着剤の揮発成分も微量ながら空気中を漂っていた。
その刺激は鼻孔からすぐに脳へ伝わり、呼吸を浅くさせる。
細菌やウイルスにも敏感で、わずかな風邪やインフルエンザの流行が始まると、彼の身体は真っ先に異変を察知する。
くしゃみが出る前に「体内に入り込んだ」とわかるような感覚が走るのだ。
その感覚は、胸の中央が何か湿った空気に触れたように重たくなることで起こる。
通常の人なら細菌やウイルスの存在は見えないし、潜伏期間などを経て徐々に症状が出るものだが、白石はそれらが近づいた瞬間に「そこにある」と感じることがある。
彼は実際に幾度も病院を訪れて検査を受けているが、明確な原因は不明のままだ。
化学物質過敏症や電磁波過敏症と診断されることはあっても、治療法らしい治療法は見つけられない。
薬の種類を変えても、その副作用でかえって苦しむというジレンマが生じるばかりだった。
周囲からは「気のせい」や「神経質すぎる」という声も飛ぶが、彼の肉体は紛れもなく現実の痛みを感じ続けている。
ある夕暮れ時、白石は帰宅途中の住宅街で足を止めた。
近所の家々から漏れるWi-Fi、テレビ放送のUHF帯、さらには5Gの電波が混線する。
遠くの工場が排出する煙にまぎれて細かな粉塵が舞い、草木が伸びる庭からは微弱ながら花粉が一斉に散っていた。
彼はそのすべてが肌や鼻腔に触れるたびに、痛みと疲労の混じった感覚に襲われる。
「 このままでは家にたどり着くのも一苦労だ 」彼は額の汗を拭いながら、ゆっくり歩き出す。
帰宅後の室内では、照明を落とし、無線機器を必要最低限だけ使い、空気の入れ替えをきめ細かく行う。
それでも四方八方から侵入してくる電波と微粒子をゼロにすることは不可能だった。
「 なんとか生き抜くしかないんだよな 」白石はそうつぶやきながら、水を一口飲んで乾いた喉を潤す。
微粒子や電波から逃れた瞬間など一日としてないが、彼は少しでも安らげる場所を探し求め続けていた。
深夜、ようやく外界の電波が落ち着く頃になると、白石の神経はわずかに解放される。
他の人のスマートフォン利用が減り、電磁波の渦がささやかに穏やかになるからだ。
けれど、冷蔵庫やテレビの待機電力からも低周波や電磁波は発生しているし、外では街灯や信号機が常に稼働している。
埃が舞うことは減らせても、完全に消し去る方法はなく、彼は薄暗い部屋の中で瞼を閉じ、ただ息を整えるしかない。
夜明け前、白石は結局いつも熟睡できずに目を覚ます。
窓の外から携帯電話の基地局アンテナが小さく光って見えるのは、彼にとって休む間もなく身体を刺す存在の象徴だった。
今日もまた、あらゆる周波数の電波とハウスダスト、花粉、細菌、ウイルス、化学物質、それらが織り成す無数の微粒子が彼のもとへ押し寄せる。
彼はまぶたを開き、ゆっくりと起き上がる。
「 この感覚が本当に理解される日は来るんだろうか 」そうつぶやいてから、息を吐くように小さく頭を振る。
いつもの朝の始まりに変わりはないが、彼はあきらめることなく自分の体と共存する術を探していた。
そんなある日、白石はネット上で過敏症に関するコミュニティを見つける。
多くの苦しんでいる人々が情報交換をする中、「最新型の防護デバイスを開発している研究者がいるらしい」との噂が書き込まれていた。
真偽不明の書き込みではあったが、その人物が電磁波や化学物質から身体を守る“画期的な装置”を試作し、モニターを探しているという。
白石は半ば疑いながらも「救われる方法があるなら」と、その連絡先へメールを送ってみる。
数日後、白石の携帯に見慣れない番号から着信があり、低く響く声が「 詳細をお伝えしたいので一度お会いできませんか 」と告げた。
いざ日時を決めてみたものの、相手は場所や身元をはっきりと明かさず、白石はわずかに不安を感じていた。
しかし渦中にいる自分の苦しさを思えば、どんな希望であれ掴みたかった。
それからさらに数日が経ち、明け方に準備をしていた白石の部屋へ突然の呼び鈴が鳴り響く。
玄関を開けると、そこには全身を奇抜な装置で固めた見慣れない男が立っていた。
男は怪しげな笑みを浮かべながら「 あなたを救う方法を見つけました 」と囁く。
そして無言のまま銀色のケースを差し出し、中には頭部に装着する小さなヘルメットのような機械が収まっていた。
「 外界のあらゆる周波数を遮断し、空気中の微粒子を弾く究極の防御装置です 」男は言葉を続けると、白石の部屋を一瞥しながら静かに立ち去ろうとする。
半信半疑のまま、白石はヘルメットをかぶり、ゆっくり深呼吸をする。
たしかに、肌を刺すようなチクチク感は消え、鼻を焼くような花粉も感じない。
それどころか、周囲の雑音や匂いさえもすべてがシャットアウトされていた。
「 これでようやく安らげる 」白石は感激のあまり思わず呟く。
だが、出口の前で振り返った男はついと目を細め「 残念ですが一度装着したら、外すと危険ですよ 」と意味深に言い残す。
しんと静まりかえる室内にドアの閉まる音だけが響き、次の瞬間、白石は完全な静寂の中に取り残されていた。
空気のざわめきも、部屋の温度すらも感じられない世界。
安らげるどころか、そこには自分の呼吸音すら遮断するような不気味な無音の空間が広がっている。
白石は慌てて装置を外そうと手をかけるが、なぜかホックが外れない。
「 ちょっと、どうなってるんだ…… 」困惑して声を上げるが、耳元には何の反響も返ってこない。
戸惑いのあまり、白石はドアを開け放ち外へ出る。
けれど路上を行き交う人々や車の音は一切届かない。
周囲の景色は動いているのに、まるでサイレント映画のように何も聞こえず、何も感じない。
そのとき、たまたま通りかかった隣人が怪訝そうに振り返り、ヘルメット姿の白石を見つめる。
おそらく相手はこちらに何か声をかけているのだろうが、その口の動きさえ泡のように消えていく。
彼がずっと求めていたはずの安息は、見たことのないほどの完全防御になってやって来た。
しかし白石はそこで気づく。
いくら苦痛を取り除いても、自分だけが何も感じられない世界に閉じ込められてしまえば、それは生きていると言えるのか。
彼は必死の思いでヘルメットを叩き、ついには壁にこすりつけて傷をつくろうとする。
外界の刺激を避けるために選んだはずの道具が、今では彼の存在そのものを奪おうとしていた。
そして何度も何度ももがくうち、ようやくヘルメットは微かな裂け目をつくる。
空気の振動がわずかに漏れ入り、彼の耳に聞き慣れない雑音が飛び込んでくる。
近所の犬の鳴き声、車のクラクション、風に揺れる木々の葉擦れ――一瞬にして様々な音や匂いが戻ってくる。
彼の五感を苦しめてきたものたちが、一斉に襲いかかるように蘇る。
それでも白石は、顔をしかめながらもほっと息をついた。
「 これでいい…… 」彼の胸中には、不便でも現実を感じて生きているほうが遥かにましなのだという確信だけが、確かな重みをもって残っていた。