7話:動けるヒロイン
バリーン、ガシャーン。
そんなけたたましい音が聞こえ、アナの制服が汚れ、頬に傷ができてしまう。
血相を変えたジャレッドが、私に怒鳴る――。
メイドに自分の体がぶつかった時。
そんな悲惨な場面がこれから目の前で起きると思っていた。
見ていられない。
しかもアナの顔に傷を作るなんて。
申し訳ない気持ちでいっぱいとなり、自然と目を閉じていた。
だが……。
一向にカップやティーポットが壊れる音は聞こえない。
「えっ……」
目を開けると、桜色に輝く魔法陣が見えた。ジャレッドとアナが座るテーブルから、メイドや私の足元付近まで、光り輝いている。そしてティーカップとソーサーが、浮遊していた。ティーポットからはずれた蓋も浮いている。
「転ばぬ先の杖といいますが、何が起きるか分かりませんからね」
アナはそう言うと椅子から立ち上がり、浮遊するカップなどを、メイドのトレンチの上に戻していく。メイドは驚いて口をぽかーんと開けているが、ジャレッドと私もフリーズしている。周囲の席の令嬢令息も何が起きたのかと、アナの様子を見守った。
状況から判断するに、アナは転ばぬ先の杖ということで、浮遊魔法がすぐに発動できるよう、魔法陣を展開していたようだ。魔法陣は起動すると光るが、そうではない時はその複雑な幾何学模様は浮かび上がらない。つまり別の魔法を駆使して感知しないと、そこに魔法陣があるとは分からなかった。
さらにメイドの体に私がぶつかった時、アナは瞬時に浮遊魔法の詠唱を行っている。とんでもない反射神経だと思う。よってゲームのシナリオ通り、悪役令嬢エマによるメイドぶつかりティーセット落下事件は起きたものの。ティーカップやソーサー、ティーポットは割れることはなかった。
アナの制服が汚れ、その顔に傷を作ることもなかったのだ。
「アナ、君はなんてすごいんだ! その瞬発力は只者ではないよ」
最前列とも言える場所で、一部始終を目撃したジャレッドは、感動で目を輝かせていた。
しかもアナのことを、ファースートネームで呼んでいる。
通常、それは親しい者同士がするべきこと。
婚約者である私のことは、ファミリーネームで呼んでいるのに。
やはりジャレッドの心は既にアナにあった。
その上で、今の奇跡的な魔法により、ジャレッドのアナへの好感度はさらに上がっている。その一方で――。
「キャンデル伯爵令嬢。君、気をつけて欲しいな。アナが咄嗟に魔法を使わなかったから、ティーセットは割れ、制服も汚れていたかもしれない。もしかすると破片が飛び、アナが怪我をしたのかもしれないんだぞ」
ジャレッドの私への好感度はしっかり下がっている。
まさにゲームのシナリオの通り!
しかし私の意志とは無関係とはいえ、確かにメイドにぶつかったのだ。
ここは謝罪が妥当だった。
私はアナ、メイドに頭を下げた。
「頭を下げるだけか? お詫びの品を明日にでも届けたらどうなんだ、キャンデル伯爵令嬢!」
「「イートン令息」」
声の方を、ジャレッドが驚いた顔で見る。
そこにいたのはセシリオとヴェルナー!
「わざとではないと思う。それに謝罪をしているんだ。怪我もなかったのだし、ここは許してあげては? むしろいつまでも、メイドとキャンデル伯爵令嬢を引き留めることこそ、迷惑な行為に思える」
このセシリオの言葉にジャレッドは反論できず、代わりにアナが応じた。
「殿下のおっしゃる通りです。メイドさん、ごめんなさい。どうぞ、お仕事を続けてください。キャンデル伯爵令嬢も、お気になさらずに。こういうハプニングに備えていたのですから」
そう言ってアナはニコリと笑う。
この時は、アナは危機管理能力がとても高いのね……とただ感動していた。
何より嫌がらせをせずに済み、でもシナリオ通り、ジャレッドのアナへの好感度は上がっている。その奇跡に安堵していた。
だがこの不思議な奇跡は続くのだ。
『待ち合わせの中庭に向かい、歩いているあなた。すると突然、頭の上から水が降ってきました。雨などではありません。ハッとして顔を上げると、校舎の二階の窓から一瞬シルバーブロンドの巻き髪が見えました。どうやら悪役令嬢のエマが、バケツの水をあなたにかけたようです。 ⇒続きを読む』
まさにこのシーンを再現するかのように。
私は二階の窓からバケツの水を、アナ目掛けて放っていた。これもシナリオの強制力で、私はそんなことをしたいと思っていない。でも体が勝手に動いている。
すると。
アナは「!」と何かを察知し、素早くその場を離れたのだ。
バケツの水は、ビシャッと地面に広がる。
アナは何事もなかったかのように、こちらに背を向け歩いていた。
こ、これも危機管理能力の賜物!?と私は驚く。
そしてまたある時。
『廊下の曲がり角で、あなたは足をひっかけられ、転倒してしまいます。膝を打ち、制服のスカートのレースも破れてしまいました。ですがすぐそこに彼が駆けつけ、あなたを助け起こしてくれます。そしてあなたを支え、逃げ去る女生徒の後ろ姿をしっかり見ていました。そう、悪役令嬢のエマです。 ⇒続きを読む』
まさに校内の廊下の曲がり角に差し掛かった時。
アナを転倒させようと、私の足は勝手に動いていた。
そして私の足に確かにアナはひっかかり、転倒すると思ったら……。
制服姿だった。
それなのになんと機敏な動き!
何よりも体操選手なの!?と思う、その動き。
なんと前方宙返りをしたのだ、アナは!
なんて動けるヒロインなの、アナは!
それはもう見事なもので、さらにあまりにも一瞬の出来事。
何が起きたのかと一瞬、私も分からなかった。
ゲーム画面で見たような、スカートのレースが破けることもなく、怪我もしていない。
下ろしたストレートの髪を払い、何事もなかったかのように、アナは歩き出す。
だがそこにジャレッドが現れ、アナに話しかけた。
そしてジャレッドが怖い目で私を一瞥している。
多分、私がアナに足をかけた瞬間を、ジャレッドは見ていたのだと思う。
でもアナは転倒することはなかった。
本人は何事もなかったようにしている。
だからジャレッドは恨みがましく私を睨んだのだろう。
しかしこれはこの時だけではない。
こんなことの繰り返しだった。
時に魔法で。時に自身の身体能力で。さらには野生の勘!?で、アナは私の仕掛ける嫌がらせを受け流す。一応はシナリオの進行通りだ。でも私の嫌がらせの実績はゼロ状態が続いていた。