【番外編】貴方を絶対に離さない
名もなき少女は、とある家の中で密かにその生を受けた。
クレマチス伯爵家。アスベルト国の由緒正しき貴族の家柄である。
彼女にはひとりの兄と両親がいた。時期伯爵ライルとクレマチス夫妻。けれども少女は母親の顔を覚えていない。
少女は物心つく前から、暗く深い闇の中でただ只管、時が過ぎるのだけを静かに待ち続けた。
一時たりとも話さず、笑いさえしない彼女を、父ガルフは彼女を忌み子だと罵った。対するライルも父に倣って彼女を見下し、家族として扱わなかった。
彼は、嫌々食事を運んで来ては、少女の目の前でそれを撒き散らした。犬のように残飯を舐め取る彼女を見て、鬱憤を晴らしていたのだ。
少女は、外に出たいと思ったことは一度もなかった。
そもそも、それが彼女にとっての"当たり前の日常"だったから、この状況に疑問を抱くことさえなかった。食事が撒かれて、熱湯を掛けられて、罵詈雑言を浴びせられて、狭い狭い檻の中から出ることが出来ない毎日が。
外の世界を知らない彼女には檻から出られないことなど苦痛でさえなかったし、幼い頃から痛みつけられてきたから痛みにも強かったし、言葉の意味を解していなかったから何を言われても気にも留めなかった。が、日々栄養不足の彼女にとって、食事だけは特別な時間だったことは確かで、毎日、その時間だけを楽しみに待ち続けていた。
そんなある日、転機が訪れた。それは、理不尽な理由で数日間食事を抜かれた時のことだった。
最初は我慢していた。いつ来るのだろうかと期待して。
けれども、少女にとうとう限界が来た。腹が減って減って溜まらなくなった彼女は、眼前の鉄格子に手当たり次第突進し、あるいは噛み付き始めたのだ。
本能的に"死"の恐怖に怯え、その危機から逃れようとした故の行動だった。
すると、
―――キイイイイ。
と、小気味良い音を立てて格子扉が開く。偶然か、はたまた端から施錠されていなかったのか。
そんなこと少女には何も関係ない。開いたという事実だけが目の先に広がっている。
少女の様子を伺いに、ガルフたちがやって来ては去っていく階段。格子越しではなく、彼女の瞳にはっきりとそれは映り込んだ。自然と息を呑む。
そうしてとうとう、少女は無意識の内に開いた扉から這い出した。涎を垂らしながら階段を攀じ登り、目前にそびえ立つ壁へと辿り着く。
少女は腕をゆっくりと前に出した。
カリッと、爪と扉が擦れる音が鳴るだけで、肝心の扉がピクリとも開かない。地上へと通ずる扉が。
滅気ずに、ガリガリと扉を搔き続ける。彼女は此処から出られると直感していたのだ。
傷んだ爪が捲れ上がっても、指に血が滲んでも気に留めなかった。いや、彼女は痛みに疎くなっていた。
腹が空いて空いて堪らない。ただ、此れだけが彼女の頭の中を支配した。
それから少しして、タイミングが良いのか悪いのか、扉が勢い良く開いた。
扉に擦り寄っていた少女は、軽くて小さな身体を壁へと打ち付けた。が、骨ばんだ肉と硬い壁がぶつかり合う音は兄の叫び声で掻き消される。
「おい!五月蝿いぞ!!」
格子に体当たりして鳴り響いた音が外に聞こえていたのか。それとも単なる八つ当たりか。怒鳴り声を上げながら、ライルが階段を駆け下りて行った。
少女が苦労して攀じ登った階段をいとも容易く。
無用心にもきちんと閉まり切っていない扉。
その隙間から、少しの光が漏れていた。地べたに降り注いだ一筋の希望の光。
そんな光に突き動かされて、彼女は思わず震える手を前へ前へと伸ばした。やがてその手は扉の隙間に届き、スゥッと扉が開かれた。
身体を乗り出す。明るい日差しに誘われるように、彼女は外へと転がり出した。
外の世界は、少女には眩しすぎた。目を細めて辺りを見渡す。
視野に広がるは伸び切った雑草と雑木林。遠くに豪邸。後ろには場にそぐわない扉がポツリと立っていた。少女が出てきた扉。
隠されたような場所に少女の暮らした地下があったのだ。
初めて見る景色に目を奪われていると、彼女の後ろから狂ったような怒号が飛んで来た。「いない!?どこだ!!何処にいったあぁぁ!!」と。
けれども、そんな声は今の彼女の耳には届かない。外の、魅惑的で何処か危険な香りに彼女は取り憑かれてしまったのだ。
緑の香りが風に乗せられやって来る。風よってなびいた草木は、少女を畏れ敬うかのようにお辞儀した。
けしかけるような風は、少女の心を揺れ動かせ、腹の具合を誤魔化してくれた。
この言葉を何と表現したら良いのか、今の彼女には分からなかった。
けれども、只々一秒でも長く、この絢爛たる景色をその目に焼き付けておきたかった。
が、それをする余裕などある筈もなく、弾かれたように草むらに転げ込んだ。この何とも開放的な自然の中、突如として身の危険を感じ取ったのである。
事実、彼女の勘は当たっていた。瞬間、額に青筋を浮かべたライルが出て来たのだから。
彼は、怒りと焦りで顔を歪め、直ぐ様何処かへと走り去って行った。ガルフを呼びに行ったのか。
警備もなく、無防備な空間にひとり取り残された少女は、命からがら敷地の中から抜け出した。
引っ張られるように足が動く。こんなに眩しい、美しい世界に昂ぶって。
けれども、流石にそれも長くは続かなかった。
気が付くいたら、糸が切れたように少女は道端に倒れ込んでいた。
もう腹の音も鳴らない。身体もピクリとも動かない。
「‥‥‥‥‥‥‥っ〜〜‥‥‥」
薄れ行く意識の中で、幼い男の子の声が聞こえて来る。生まれて初めて聞く優しい声に安堵を覚えたのか、少女は眠るようにその意識を手放した。
◆◇◆
少女が目を覚ますと、誰かが彼女の顔を心配げに覗き込んでいた。少女と同い年くらいの小さな紳士は、彼女が目覚めたことに気が付くと、大丈夫かと安否を尋ねた。
けれども少女は依然として、一言たりとも返事をしない。否、返事出来なかった。
見つめ返すばかりで何も話さない彼女に、彼は困ったような表情を見せた。どうしたら返事をしてくれるのだろうかと考えているようだ。
彼女が言葉を解していないことには気が付いていない。
「話は出来ますか?名前は?」
何か引き出せないものかと彼は続けた。怯えさせないように精一杯気を遣っているのか、柔らかな口調で。
けれども、やはり彼女は何も返事をしなかった。
今の彼女に一つだけ分かること。それは、目の前の少年は"他とは違う"という事だけだ。
柔らかい声色。心配する声。向けられる眼差し。そのどれもが温かくて心地良い。
どうしてそう感じたのかは分からなかったけれども、初めて感じた優しさに、とうとう彼女は耐えきれずに一筋の涙を溢した。
止めどもなく流れ始めた涙は、やがて大きな雫となり、ポロポロと柔らかな布団へと零れ落ちていった。
「えぇっと、‥‥‥どうしよう」
少女の様子を見て、男の子は慌てふためいた。悪いことをしてしまったのかと困惑して、何とフォローすれば良いのか思い悩んでいる。
「‥‥‥もしかして、言葉を理解していないのではないでしょうか」
そうしていると、傍で様子を見ていたメイドが、恐る恐るその少年に進言した。
思わず目を見開いた彼は、メイドを一瞥した後、少女を見直す。不思議そうに、嬉しそうに見つめ返す少女。
その様子を見て、少年は「確かに」と呟いた。それから、メイドと話し合うこと数分間。
何も分かっていない少女にとっては、どんな話をしているかなど理解できる筈もなく、ただただ自身だけ置いてけぼりで話していることがどうしてか嫌だった。
話を交えるふたりを見ていることしか出来ないことにもどかしさを感じて、メイドが彼を独り占めしているような気がして、胸が苦しくて苦しくて堪らなかった。
顔を少しだけ歪めた少女は、慣れない痛みに戸惑っていた。
そんな様子は露知らず、漸く話を終えた少年は、手近な紙とペンを持って来て、彼女が眠っていたベッドの傍らの椅子に腰掛けた。それから、紙に何かをサラサラと書いて、少女に差し出す。
その様子をじっと見ていた彼女は、突然のことに困惑しつつも、ゆっくりと紙を受け取った。彼女には読めない文字が並んでいる。
何て書いてあるのだろう?そう思って何度も何度も文字を見返した。けれども、読める訳はなく、ととう少女は顔を落とした。
文字を読みたいのに読めないことが辛かったのだ。
そうしている内に、彼が言葉を紡ぎ始めた。紙に指を指して。
「そこには名前が書いてあるんだ。"アバンリッシュ"。僕の名前だ。これから暫くの間、宜しくね」
「ア‥‥バ、ン‥‥‥‥」
少女には何を言っているのかよく分からなかったけれども、自然とそれが彼の名前なのだと認知した。ぽつりとその名前を呟く。
それが、彼女にとって初めての意味の成す言葉だった。
渡された紙を見返し、グシャグシャになることを厭わずに抱き締めた。それから、アバンリッシュと名乗った少年を見て微笑んだのだ。
不意な出来事に、メイドとアバンリッシュがふたり目を見開いたけれども、やっと笑顔を見せた彼女に微笑み返してくれた。
それから暫くの間、少女はアバンリッシュの住む家――ナイーゼ家で生活することになった。彼が親に頼み込んで、少しだけならと少女を保護することを認めて貰ったのだ。
いくつかの条件と引き換えに。
その内の1つは、体裁を保つ為、外部の人間と信用できるメイド以外には出来るだけ知られないようにすることだった。
だから、彼は少女を外に出さなかったし、勘繰られないよう部屋の中からも極力出さないように気をつけた。
色とりどりの料理は部屋に運ばれ、特定のメイドを付けて夜分遅くに風呂に行かせた。
初めてのまともな食事は、嗅いだことのない、味わったことのないような素晴らしいものばかりで、思わず食らいつく程だった。
犬のようにがっつこうが、着せられた服をいくら汚そうが誰にも罵られない。そんな日々。
日が立つにつれ、少女の容体は少しずつ良くなっていった。痩けた肌はふっくらと、艶のない髪は輝きを増し、笑顔をよく見せるようになった。
その間、アバンリッシュは少女に言葉や文字を教えた。優しく丁寧に。
感情も、彼から学んだ。嬉しいや悲しい、愛しいや憎いに至るまで自然と。
だからか、彼女は彼に恋をした。初めての恋。
確かにその時は、彼女の生きてきた中で最も幸せな時間だった。
愛しい人が"私の為に"毎日のように部屋へと訪ねて来てくれる。愛しい人が"私だけに"微笑んでくれる。と。
虐待の事実に気が付かされたけれども、そんな些細なことは、今の彼女にどうでも良かった。だって家族はここにはいないのだし、守ってくれる存在が目の前にいるのだから。
ずっと一緒にいれる。ずっとずっと守ってくれる。少女はそう信じて疑わなかった。
それが有限だったことなど知らずに。
ある日、少女の身元が割れた。クレマチス伯爵の娘。
アバンリッシュはガルフを家へと呼び出し、虐待の事実をちらつかせて彼を脅した。けれども、その内容は少女が望んだことではなかった。
いくつかの約束を交わして、アバンリッシュはガルフに少女を引き渡した。
ガルフはたじろぎつつも、渋々その条件を呑んだ。彼にとって子供相手に言い含められることは屈辱以外の何者でもなかったけれども、頷かなければ全てのことが公になるから。
もう家族に虐められることはなく、身分のしっかりとした家柄で安心して育つことが出来る。アバンリッシュはそう考えて、彼女を貴族である家族の元へと帰したのだ。
どの道、彼は父親と約束していた。
少女の容体が落ち着いて来たら、これ以上の滞在は許さないと。拾って来た責任を持って、彼自身が彼女のこれからを決めなければならないと。
こうして、少女の件については漸く一段落ついたとアバンリッシュは呑気にも思っていた。
◆◇◆
クレマチス家に引き戻された少女は、ラミアと言う名前を与えられて、長いこと彼女が育ってきた地下室の牢屋の中ではなく、父兄の暮らす本邸の一室へと部屋を移された。
広々として明るい貴族の部屋は、アバンリッシュとの毎日を決して忘れさせず、だからこそ彼女には余計辛かった。誰かが彼女の部屋を開ける度に、つい彼の名前を読んでしまうことさえあった程だ。
その度に事実を突き付けられて、何度絶望したことか。それ程までにあちらでの生活は幸せだった。
初めは、毎日のように悲しみで泣いていた。その度にメイドが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
彼女たちはラミアが虐待されていた過去のことを知らない。これは後で知ったことなのだが、流行り病で隔離していたとガルフは説明していたらしい。
つまり、彼女がいつ死んでも問題なかったということだ。
それを知った時、むしろ彼女は冷静になった。こんな奴らに私の大切な時間は削られていたのかと。
知性を身に着けた彼女にとって、父兄の存在だけは絶対に許せなかった。いくら急に手の平を返して家族のように接されようが、過去のことは変えられる筈もないし、そんなことで赦せる筈もない。
それに、彼女は知っていた。アバンリッシュがガルフを脅したことを。だから、演技をしていることは端から気が付いていた。
何事もなかったかのように接してくる家族に嫌気が差したけれども、今の彼女には何の力もないから、反抗のしようもなかった。したところで、頭が可笑しいと騒がれるのが関の山だ。
最悪、今は優しくしてくれるメイドまでもが敵に回る可能性すらある。
折角アバンリッシュが手回ししてくれたのに、自身でそれを壊すなど、あってはならなかった。
―――これは、私たちへの試練なのよ。
何時しか彼女は自身にそう言い聞かせ始めた。そうすると、今起こっている出来事がストンと腑に落ちるのを感じた。
いや、何かを信じたくなかったかもしれない。
けれどもそう思い込むだけで、これまでの理不尽の数々が報われる気がしたのだ。
これを耐え抜けば幸せな未来が待っていると、そう信じて、彼女は希望に縋り付いた。
そのまま、どんな事でも貪欲に学び続け、ラミアの学力はやがてライルを凌ぐ程になった。
いや、とうに超えていたのだが、それを隠していたのに過ぎない。彼らに何れ復讐する為に。
当然ながら、妹が自身の学力を超えたというのだから、初めライルは信じなかった。けれども、共に受けた試験でそれが明らかになったのだ。
何時ものようにラミアは試験に手を抜いていた。つもりだった。
けれども、その時の試験は抜き打ちな上に、ライルが学んだばかりの所だった為に、彼女は兄との差を知らしめる羽目になったのだ。
ラミアからすれば、兄が此処まで馬鹿だとは思っていなかったから、むしろ衝撃だった。これならば、楽に復讐出来そうだと。
けれども兎に角、キッカケが大事だった。メイドに慕われている兄が化けの皮を剥がす為の。
だから彼女は、遂に仕掛けた。試験のことをネタにして、ライルを煽ったのだ。他の誰にも聞かれないように、耳打ちしてやった。
当然、とうとうライルは怒り狂った。愚かにも拳を振りかざし、彼女が牢屋にいた時のように、ラミアを殴り飛ばす。
溝落の直ぐ側を殴られて、彼女は久々の痛みに腹を押さえて、思わずえずいた。
やはり性格は変わらないもので、自然とライルの口角は歪に吊り上がっていた。
そんな時、近くで仕事をしていたメイドが視線をそちらへと向ける。余りの音に、何事かと反応したのだろう。
「キャアアアア―――!!ラ、ライル様。何をして、………お止めください!!!どうか、どうか……」
大声で叫んだメイドの声を聞いて、漸くライルは正気に戻った。依然として振り上げていた拳をピタリと止めて、声のする方を見ると、怯えきったメイドが立っていた。
彼女はライルと目が合うと、声を縮こませて懇願するように彼の方を見た。
今度は自分が殴られるかもしれない。そんな恐怖が頭を過ぎったのだ。
すっかり怯えきって逃げる事さえ出来なかったメイドに、誤解を解こうと彼が近付く。当然、メイドはより一層震え出した。
メイドの叫び声を聞き付けて、屋敷中の人々が徐々に其処へと集まってくる。
そうして、とうとう言い逃れ出来ない状況にまで陥った時、居た堪れなくなったライルは一目散にその場から逃げ出した。
漸く彼女の元にツキが回ってきたのだ。
此処で虐待の事実を晒すことも出来たけれども、彼女はそうしなかった。だってまだ弱いから。
瞬く間に噂は広まり、家の中だけでなく社交界でも評判が地に落ちたライルは、使用人の誰に対しても態度を変えなくなった。憂さ晴らしに悪戯を仕掛け、小さな声で話すと因縁をつけて殴り、傍を通るだけで彼は使用人を罵った。
流石に父に止められて、それ以降ラミアに対しては暴言だけで済んだが、ガルフの対応にも使用人たちは不信感を抱いた。私たちを人として見ていないのか、と。
ガルフはアバンリッシュとの取り決めを守っていただけに過ぎないのだが。
ラミアが病弱だったという話も胡散臭くなり、彼方此方で噂が飛び交った。色々な噂があったが、中には確信を突く者さえ現れ始めた。
皆、一つの貴族を引きずり降ろすことに躍起になっていたのだ。滅多なことでは見られない、と。
父兄が責め立てられ、ラミアは同情される。その状況に、彼女は内心ほくそ笑んだ。
可笑しくて堪らなかった。自身を虐待していた人たちが、自身を下に見ていた人たちが、今は彼女の思う壺であるという事実に。
このまま、生き地獄を味わって貰うことも考えたのだが、彼女自身の経験上、やり返されないとは限らない。
が、この他の罪が発覚したとして、脅威が消え去ることはきっとこの先有り得ない。
だからラミアは、遂に彼らを殺すことにした。必ず彼女が処罰されない方法で。
◆◇◆
運命の日は案外早く訪れた。使用人の中でも、クレマチス家に特に恨みを持ったメイドを見つけ出したのだ。
その理由は単純で、家族の為に姉妹で働きに出ていたという彼女は、妹をライルに汚されたのだという。
身分上拒むことさえ出来ず、彼女の妹は懐妊してしし、遂には心を病んで自殺した。恋人を裏切った気持ちに苛まれ、耐えきれなくなったのだ。
妹が間接的に殺されても彼女がメイドを止めなかったのは、偏に心の中に復讐の炎が宿っていたからであった。
だから、そのメイドに"私も彼らを恨んでいる"だとか、"悪いようにはしない"だとか、"貴女の家族に被害は及ばない"などと言い含めて、ラミアは彼女に機会を与えた。復讐する機会を。
世間が騒いでいる間に、ゆっくりと時間を掛けてメイドの信頼を勝ち取っていたのだ。
ラミアを信じ切ったメイドは、彼女の指示通り、食事中の飲み物に毒を混ぜた。配膳の旨を自ら進み出て。
その毒は、森にでも行けば採取出来る毒で、珍しくも何ともなかった。けれども、少量で人体に被害を与える危険な薬物だ。
ラミアはメイドに、それをたっぷりと混ぜるように指示した。勿論、ラミアのものにも。
ライルだけで良いのではないかと聞かれたら、隠滅した親にも責任があると言って、何とかメイドを納得させた。ラミアのものにも入れるのは、念の為だとでも言っておく。
何も知らないライルとガルフは、この状況の中、せめてこれだけでも楽しもうと、食事の時間中は配膳係以外のメイドを追い出していた。
二人にとって邪魔者でしかないラミアも同席しているが、そもそも彼女からは滅多に話さないので、何時ものように彼女の存在には口を出さず、二人話しながら食事を進めている。
ラミアは静かに、しかしこれから起こることに内心期待しながら時を待ち続けた。
二人が飲み物に手を付けてから数分後、効果は現れ出した。その時にやっと、ラミアもほんの少量のそれを口に含む。死なない程度の量。
グラリと重心を崩し、二人の身体が力なく地面に叩きつけられる。
辺りにメイドはおらず、ラミアは冷ややかな視線で二人を見据えた。その口元は、歪な三か月を作り出している。
そのまま叫ぶこともせず、暫くの間ラミアは二人を見下ろしていた。すると漸く、ラミアにも毒の効果が出始めた。
頭がクラリと来て、心臓がバクバクと跳ねる。身体が燃えそうだ。
うめき声を上げて、這いつくばって扉の方へと進む。それから、力を振り絞って扉を何度も何度も叩いた。
漸く異変に気が付いたメイドの一人が扉を開ける。すると、そのメイドにとって訳の分からぬ光景が其処には広がっていた。
慌てて、他の者を呼びにいくが、毒が回って暫く経ったライルとガルフに助かる術はない。辛うじてラミアは救出されたものの、二人は呆気なく亡くなった。
それは、メイドを追い出していたのが裏目に出た結果だった。
料理を配膳してから持ち場を離れた配膳係のメイドは、真っ先に疑われ、直ぐ様捕らえられた。
検出された毒は、植物由来のものだと断定され、誰でも採取出来ることと、メイドの過去が明らかになったこと、その他の物的証拠から、恨みからの犯行と決定付けられた。
平民が二人もの貴族を手に掛けた罪は重かったけれども、情状の余地があった。本来であれば拷問の末に殺されても、死ぬまで重労働を課されても可笑しくない話なのだが、彼女は単に打首だけで手を打たれることになった。
最期に被害者であるラミアが面会に行った時、その元メイドに家族のことを聞かれた。"彼らに罰はない"と答えたら、元メイドは微笑んでいた。
約束を律儀に守るつもりはなかったが、それが裁判での判断だったから、彼女は事実を告げたまでだ。
彼女は一寸も揺るがなかった。いつの日からだろうか、彼女の良心は既に死んでしまっていたのだ。
◆◇◆
そうして日々は過ぎ去り、クレマチス家の実権はうら若いラミアのものとなった。歴史を探してみると、他にもそんな事例があったので、特に珍しいことではない。
使用人には信頼されていたが、直ぐに手の平を返す彼らを信用出来る程ラミアは愚かではなかった。
あんな事があった後なので怖いなどと言い訳を用意して、彼女は使用人たちに不信感を与えないよう、紹介状を手渡して解雇した。これで路頭に迷うことはないだろうと。
そうして広々とした屋敷を独りで暮らした。初めは世間に女一人では無理だろうと侮辱されたり、あるいは評判稼ぎの為に支援してくれたり、玉の輿を狙おうとする下位貴族までいたが、何時まで経ってもクレマチス家は没落しなかった。
これも偏に、将来アバンリッシュを傍で手助けする為に、これまで必死に身に着けてきた教養の賜物だった。
そうして、あの頃とは似ても似つかない程目まぐるしい変貌を遂げたラミアは、とうとう学園へと入学した。
正直な所、現状家を治めていた彼女が学園に入学する必要はなかったのだが、彼女は単に彼と再開できることを心待ちにしていたのだ。
あの時貴方が助けてくれたから、今の私があるのだと心から伝えたかった。そして――、ゆくゆくは生涯を共にするのだと信じて疑わなかった。
―――彼女が現れるまでは。
アルテミス・ベルジェ。ベルジェ男爵家の二人目の子であり、比較的控え目な令嬢。
そもそも数多いる令嬢の中でも一際目を引いて可愛らしく、令嬢特有の裏の顔が見えない彼女は、妖艶な雰囲気を持ち合わせるラミアとは全く異なっていた。
初めはラミアも、同じクラスの一員であるアルテミスのことを気にも留めていなかったし、他クラスのアバンリッシュに会いに行くのに必死だった。それなのに、運が悪いのか中々一人でいる所が見つからない。
この時のラミアは、人の間に割り込むような、それこそ彼の嫌がるようなことなどしたくなかったのだ。
けれどもある日、ある噂が彼女の耳に入って来た。その内容は、アバンリッシュがとある男爵令嬢に夢中になっている、ということだった。
それこそが、他ならぬアルテミスを指していることに気が付くのにはそう時間は掛からなかった。
当然、ラミアはそれを信じなかった。信じたくなかった。けれども、心の何処かで確信してしまっている彼女自身が、どうしようもなく嫌だった。
愛している人のことなど、見ていたら自ずと分かる。ラミアのいるクラスに、友人を連れた彼がやって来た時の視線も、彼女に向ける感情も、全て察していた筈なのに到底認め難かった。
だから、ラミアはアルテミスに近付いた。
公爵令息であるアバンリッシュからの熱を一心に受けて、良い気になる令嬢はそういない。それも、男爵令嬢ともなれば尚更だ。
アルテミスに迫るラミアに対して、周囲は何かを期待したけれども、その期待は大いに裏切られた。
だって、すっかり令嬢たちに疎まれていたアルテミスに、ラミアは一言、"私とお友達になりましょう"と手を差し伸べたのだから。
突然話しかけられるものだから動揺していたけれども、アルテミスは初めてのお誘いに心底嬉しそうに頷いた。ラミアの心中など知らずに。
ラミアは、アルテミスの化けの皮を剥がすことが目的だった。そうしたら、すっかり騙されている彼の目が覚めるとでも考えていたのだ。
彼女は密かに笑った。彼が最後には彼女の元へと帰って来てくれるだろうことを想像して。
初め彼女は、アルテミスに優しく、優しく接した。そうすれば何れ心を開いて、心の内を曝け出してくれるかと考えたから。
邪魔者を単に排除することも出来たのだが、ラミアは敢えてそうしなかった。最後には、騙されていた事実をアバンリッシュに知らしめることで、彼の心に深い傷を負わせることが狙いだったから。
この時既に、彼女の純粋な恋心は歪み始めていたのだ。
けれど何時まで経っても、アルテミスは化けの皮を剥がさなかった。彼女の語ることと言ったら、勉強のことや、単なる世間話、あるいはアバンリッシュの話ばかりで、ラミアに何ら収穫はない。
だから今度は方法を変えた。
影で"男爵と公爵では不釣り合いだ"とアルテミスを罵っていた令嬢たちが、彼女に危害を加えるよう焚き付けたのだ。当然、ラミアが首謀者であると発覚しないように。
令嬢たちは寄ってたかってアルテミスを攻撃した。
そうしたら、ラミアはその度に手を差し伸べて彼女を励ました。むしろこっちのものにしてやろうと、アルテミスが自身に依存するよう仕向けたのだ。
けれどもそれさえ上手くいかず、令嬢たちは思うように動いてくれない。ラミアが見ていない時でもアルテミスに接触してくるのだから。
人の行動ばかりはラミアに制御出来なかったのである。
単にそれだけならまだ良かった。アバンリッシュが彼女を助けさえしなければ。
偶然にも虐めの現場に鉢合わせた彼は、"公爵家"の立場を見せしめて、令嬢たちを退けたのだ。
陰口は変わらずとも、それだけで直接的な被害は大幅に減った。ラミアの用意した虐めは、彼の手で終わりを迎えたのである。
ラミアは痺れを切らしそうになった。
そうして思いついたのは、いっそのことアルテミスの弱い部分に付け込んで、"アバンリッシュがアルテミスを好いていない"と思い込ませることだった。
その為には、対するアバンリッシュにもアルテミスのことを誤解させることが必要で、とうとう彼女はアバンリッシュに話し掛けたのだ。
廊下で、隣を横切ろうとする彼に、小さな声で耳打ちした。手短に、場所と用件だけを伝えておく。
学園内と言うこともあり、彼は律儀にも彼女の言う通り一人で空き部屋へとやって来た。
告白されると思っていたのか、申し訳なさげに部屋の中へと入る。きっと日常茶飯事なのだろう。
けれども、中には誰もいなかった。
早く来すぎたのだろうかと、アバンリッシュは時計をちらりと見て、誰かが来るのを待っていた。
が、段々と意識が混濁していく。微量ではあるが気化した薬品を吸ったのだ。
ふらつく身体。朦朧とする意識の中、アバンリッシュは誰かの囁やき声を聞いた。
"アルテミスは貴方を愛していない"、"アルテミスは貴方ではなく他の人を愛している"などと、何度も何度も聞き続けた。その言葉は、何も考えられない頭に自然と浸透していって、彼の思考を掻き乱した。
そのまま朦朧とした状態の彼を、ラミアは学園の医務室へと連れて行った。
そうして目がハッキリと覚めた彼に嘘をついた。"貴方は外れで倒れていたのよ"と。記憶が混濁していた為か、助けてくれた恩人だと認識されたのか、彼はラミアの言葉を素直に信じた。
但し、ラミアをあのときの少女だとは気が付かない。成長して姿形が変わっているのだから当然であるが、ラミアは少しでも彼に気が付いて欲しかった。
アルテミスの友人として認知されていたラミアは、余りの苦しみに、ひとり静かに拳を握りしめた。
兎に角、事はラミアの思うように進んだ。
彼女は恋愛に疎いアルテミスを誘導して、欺いた。アバンリッシュにも効果覿面だったようで、彼は全てを誤解した。
そうしてアルテミスはアバンリッシュに、アバンリッシュはアルテミスに、愛されていないのだと思うようになっていった。
これで婚約することも、結婚することもない。そうラミアは安堵した。
後はアバンリッシュの心の傷に付け込むだけだと、ラミアは彼に再び接触しようと試みた。
―――しかし、ふたりは段階を踏まず結婚した。
ラミアにとって、他の貴族にとって、衝撃の出来事だった。簡単に破ることの出来ない政略結婚。
ベルジェ家の保有する広大な鉱山から採取される宝石は希少で加工が難しい。従って加工さえ上手くできれば莫大な資金をもたらしてくれるのだ。
公爵家はそれを逆手に取ったのだ。
決して褒められるべきことではないことであるが、ラミアには彼の本気さが見て取れた。
当然、ラミアはそれを知ったとき、驚愕と怒りに打ち震えた。
これまでしてきたことは何だったのだろうかと。この仕打ちは何なのだろうかと。
この時のラミアは、アバンリッシュが愛しくて、憎くて憎くて堪らなかった。
成長しきった彼女に気が付かなかったから?きちんと彼女を見てくれなかったから?そんなことは今の彼女にはどうでも良かった。
ただ、色んな感情がごちゃまぜになって、彼女の心は壊れそうになっていたのだ。
それからラミアは、学園にも行かず、家に引きこもった。業務も全て投げ出して、世間には何があったのかと心配された。
転機は、彼女の元に届いた一通の招待状だった。"親友"に宛てたアルテミスからの招待状。
心配の言葉と共に綴られていたのは、結婚式への招待状だったのだ。
それを見たとき、彼女の心は激しく揺れ動いた。
―――私はこんな目にあっているのに、貴方たちが幸せになるなんて絶対に許さない。
何かの決意が固まったラミアは綿密に計画を立てた。
幸せの絶頂期に、愛する彼女の命を奪う。悲しみに暮れる彼には一生自身の傍で生きてもらう。二人の間に出来た子供には、楽には殺さずに生き地獄を味わって貰う。
そう決心したら、彼女の中で何かが吹っ切れた気がした。
便利な駒を手に入れるためには他の男に身体を許すことも厭わなかった。幸いにも、彼女は妖艶な娼婦のような風貌をしていて、例え仮面を被っていても男は自然と寄り付いて来た。
皮肉にも、ラミアはアルテミスの性格を熟知していた。アルテミスと仲良くしてきたことがやっと役に立つ瞬間。
変な所で慈愛の心を見せる彼女の元に、間者を送り込むことなど容易だった。
立地や家族構成など、平民の情報を隅々まで調べ上げて、吟味した。子供の親を駒の一人に殺させて、子供の憎しみをナイーゼ家へと仕向けた。
そうやって子供に手を差し伸べて、ラミアを裏切らない間者を作り出した。
事が全て思い通りに運ぶ。そんな状況に、ラミアは復讐の女神までもが彼女に微笑んでくれている気になっていた。
彼女はあくまで手を下さない。ただ、決してバレない所から指示を飛ばしているだけだ。
偶然出来たラミアの子供には、何処までも愚かで自分に従順な子になるように育てた。
全てにおいて、初めは迂闊な所があったけれども、アルテミスを無事に殺した後から、より警戒するようになった。
案外呆気なかった彼女の最期には、何処かもどかしさが残ったが、彼女は歓喜していた。
さて、それからアバンリッシュと再婚するのは簡単な話だった。失意に暮れた彼が通い始めた高級バーに訪れて、酒に溺れた彼に特別なドリンクを差し出した。
警戒心をすっかり欠いていた彼は、ソレが何かも分からないドリンクを有ろうことか飲み干したのだ。
そうして、一夜の過ちを冒した。夜の時間は一度もラミアの名前を呼んでくれなかったけれども、これで彼女の中で準備は整った。
次の日起きた彼に2つの事実を突き付けて、責任を取れと喚いた。ラミアがあの少女だった事実に困惑したのか、はたまた昨夜の出来事に責任を感じたのか、彼はその場で差し出された書類にサインした。
世間に様々な噂が立ったものの、それは直ぐに風化した。皆新しいことを求めているのだ。
ラミアは決心した通り、憎き二人の子であるリリアに生き地獄を与えた。彼女にはある程度の知識も付けさせて、だからこそ余計に苦しませることが出来た。
負い目を感じていたアバンリッシュは、自由気ままに振る舞うラミアたちに何も口出ししなかった。とてもではないが出来なかった。
ある日、リリアが公の場でラミアの子"アナ"の頬を叩いたことを聞いて、彼女は有ることを思いついた。
それは、リリアが信じてやまない皇太子に捨てられることだった。最大級の絶望。
婚約破棄はラミアからはどうにも出来なかったが、見限られるともなれば訳が違う。
ラミアは皇太子の意志で、リリアを捨てさせることに意義を感じたのだ。
ラミアは、アナを唆した。私の言うように動けば全てが上手くいくと。
アナは傲慢にもその通りだと納得して、何も疑わず邪悪にほくそ笑んだ。
何て愚かで可愛い操り人形なのだろうか。ラミアはそんなアナをずっと甘やかし続けた。
ラミアの言う通りにアナは行動を起こした。けれどもアナだけでは心許なかったので、必ずリリアの傍に見張りをつけるようにした。
決して訴えられないように徹底して監視させた。少しでも怪しい動きを見せたらお仕置きを与え、徐々に抵抗さえ出来ないように追い込んで行った。
皇太子には出来るだけ近付けさせないようメイドに命令し、アナには、初めは少数の前で、徐々に大勢の前であたかもリリアに虐められているように見せかけるように指示した。
そうすれば、ラミアの狙い通り、とうとう皇太子までもがリリアを疑うようになったのだ。
それを聞きつけた彼女は、暫くしてリリアの侍女に毒入り茶を振る舞わした。勿論、対象はアナだ。
そのことを知らされていなかったアナは、茶会の場で何の躊躇いもなく茶を飲み干した。藻掻き苦しむアナに、その場に鉢合わせた令嬢たちは真っ先にリリアを疑った。
普段茶会を開かないリリアが主催だったことと、その侍女が振る舞った茶が毒入りだったのだから、疑われて当然の出来事だったのだ。
アナは怒り狂っていたけれども、全ての矛先はリリアに向いた。
これが起爆剤となって、漸くリリアは大勢の貴族の前で盛大に婚約破棄されたのだ。その様子を傍観者の一部となって眺めて、ラミアは口角を吊り上げた。
漸く、憎きアルテミスの娘の絶望が見れた、と。
周囲に"悪女"だと罵られて、皇太子は握り拳を作りながら、リリアに背を向けていた。
自身のしたことに後悔の念でも覚えているのか。
(男はみんなそう。そんなことをするのならいっそ最後まで信じてあげれば良かったのに)
ラミアは皇太子に軽蔑の眼差しを送りながら、リリアの崩れた表情を見に、アナを置いて直ぐ様家へと帰った。
その夜、何とも愉快なことが起こった。
元々間者として送り込んだいた双子の平民が、その片割れをリリアの目の前で殺した。そんな報告がラミアの元へと来た。
遂に、目的を見失って一線を超えた平民の子を、彼女は漸く信用した。もう彼女は裏切ることはないと。
次の日には、リリアの様子を見に行かせた。けれども余りのショックのせいか、リリアは昨夜のことを綺麗サッパリ忘れ去っていたのだ。
ラミアは、リリアの心は壊れかけているのだと勘違いして、独り静かに嗤った。
やっと、彼女の望みは全て叶う。そう確信して。
―――が、その日は終ぞ来ることはなかった。
◆◇◆
「騎士団だ!今すぐに門を開け!!
さもないと強行突破に出る!!」
物々しい雰囲気で、大勢の騎士たちがナイーゼ家を取り囲み、外で待ち構えている。
異変に気が付いた一人のメイドが、ラミアの元へと慌てて駆け出した。突然のことに混乱している様子だ。
そのメイドにも、思い当たる節はいくつもあった。
遺体処理から始まり、公爵令嬢に対する扱いまで、ナイーゼ家で働くメイドは殆ど皆、何かしらをやって来た。いや、やらされて来た。
そうしないと、此処では生き残れなかったから。
ラミアは冷静に、しかし一抹の焦りを覚えながら、メイドに指示を飛ばす。使用人を掻き集めて、騎士たちに少しの間待つよう何としても説得しろ、と。
去るメイドを見送りながら、ラミアは歯噛みした。どうして勘付かれた、と。
これまで散々、細心の注意を払ってきた。なのに、リリアの最期さえ見届けず終わってしまうのが、どうしようもなく許せなかった。
けれども、もうどうしようもないことは明らかだった。
仕方なく、ノーマという、例の家族を手に掛けた平民のメイドを招集する。直ぐに現れた彼女に、最期の命令を下した。
―――リリアを殺せ。
ノーマは静かに頷いた。頷いて、涙を流しながら彼女は笑って言った。"分かりました。"と。
どうしてそんな顔をしているのかラミアにはよく分からなかったけれども、彼女はラミアの命令に一度たりとも背いたことはなかった。
だから、安心して行かせられた。
それからラミアはというと、最期の望みを叶えに彼女の夫のいる部屋へと向かった。
いくらノックをしても返事が来ないので、扉を開けてみると、其処にはアバンリッシュがいた。静かに、ただ時を待っているかのように椅子に腰掛ける彼が。
「アバン。少しいいかしら」
「‥‥‥‥‥‥ああ、お前か」
アバンリッシュはラミアを一瞥すると、直ぐに視線を反らした。
何が起こっているのか気になっている筈なのに、決して聞くことはなく、静かに、とても静かに座っていた。
「何をしに来たか、聞かないのね」
「聞いたところで、何の意味がある?」
深く、重い声で、アバンリッシュがラミアに尋ねた。
◆◇◆
一方で、アナとリリア―――
「ふざけるなあぁあ!!」
ナイフを片手に、アナがリリアへと突進した。
彼女は、この自体を引き起こした犯人がリリアだと思い込んでいるようで、とても話が通じる状況ではなかった。
アナにはリリアを虐めている自覚があった。
だから、安直に考えたのだ。これはリリアの復讐に違いないと。
他の可能性には目もくれず、真っ先にリリアの部屋に向かったアナは、正気を失った様子でリリアと対峙していた。
「ガッ」
リリアが声にならない悲鳴を上げたのを見て、漸く正気に戻ったアナは思わず手からナイフを滑り落とした。
カランッと小気味良い音をたてて、ナイフが転がる。そのナイフに、血はついていなかった。
目の前に広がる光景に、アナは尻餅をついた。手応えがまるでなかった。なのに、リリアの胸には投げナイフが突き刺さっていた。
「ひっ、ひゃあっっ」
彼女は小さく悲鳴を上げた。
その場に力なく倒れ込んだリリアから、じわじわと血が滲み出て、床が赤く染め上げられていく。
「ころ、殺すつもりは‥‥‥」
誰かに言い訳するかのように、アナが独り言を呟いた。が、この状況では彼女が犯人だと疑われても致し方なかった。
愚かなことに、アナは家の実情を全く知らなかったのだ。ラミアに知らされていなかった。
「お、お前!!何をしている!?」
扉の方から叫び声が聞こえて来る。あたかもリリアを殺した犯人のように、アナは焦りきった表情を浮かべて振り返った。
「ち、ちがう!!わたしは、私はやってない!!」
「押さえろ!!」
騎士たちがアナへと迫る。
「気安く触らないで!私は公爵令嬢よ!!やめなさいッ!」
初めは、この状況が受け入れきれず、強気に反抗していた。
けれども彼女の抵抗は虚しく、直ぐに取り押さえられる。床に叩きつけられるかのように。
「いや、やめてぇ!!」
懇願の声を上げるには遅すぎた。そう、遅すぎたのだ。
連行される中、アナは何かを呪詛のようにブツブツと呟き続けた。「私はやっていない」と。
けれどもアナは、自身が刺したのかそうでないのかはっきりしていなかった。記憶が混濁していたのである。
彼女は諦めることなく、ずっとずっと呟き続けていた。
◆◇◆
「ねぇ、アバン。最期に貴方に伝えたいことがあるの」
いい加減痺れを切らして、とうとうラミアが口火を切った。最期に、あることを伝えようと。
呆れきった様子で、アバンリッシュが頭を抱える。
「はぁ、いい加減にしてくれ。もう十分だろう?」
「………そう。じゃあ、これから言うこともどうでもいいのね」
「ああ。もう関係ないことだ」
それを聞いて、ラミアは小さく息を吸った。
そして―――ポツリ、と呟く。彼にずっと隠していたこと。
「アルテミスを殺したのは私よ」
それを言い終わると、アバンリッシュは勢い良く顔を上げた。こんな時に言う冗談にしては寒過ぎる、と言いたげた。
だから、ラミアは自身のしたことを一つ一つ語りだした。アバンリッシュはそれを静かに聞き続けた。
話が終えるまで。
無言で、彼が立ち上がる。それから、ツカツカとラミアに近付いた。
その表情は、憤怒に満ちていた。
「お前、お前が妻を‥‥‥‥!!」
直ぐ側まで差し迫ったアバンリッシュに、彼女は軽く一言言い放った。ナイフをあからさまに手に持って。
「あら、これまでずっと知らなかったじゃない。
ねえ、ア・ナ・タ?
一緒に―――逝きましょう?」
「ッ!!誰がお前なんかと!」
アバンリッシュはラミアを押し飛ばした。床に転がったナイフを拾い上げて、彼女へ迫る。
「はっ、ハハッ詰めが甘かったな。お前ひとりで逝け」
―――ドスッ
そう吐き捨てて、彼はラミアの胸にナイフを深々と突き刺した。
「うっ!?!?」
が、何故かアバンリッシュが苦悶の表情を浮かべた。冷や汗が身体中から吹きでる。
背中からナニカが中へと入って来る感覚が全身に伝わって、何とも言えない気持ち悪さを感じる。
じわじわと服が濡れていく感触。叫びにならない悲鳴。
不意に抱き締められたラミアから逃れようにも、もう彼に振り解く余裕はなかった。
彼女がアバンリッシュを抱く力を強くすると、より一層苦しさが増した。
「もう、離さない。これでずっとずっと一緒よ」
ボソボソとラミアが何かを呟く。しかし、既にアバンリッシュの耳には何も届かなかった。
ラミアは薄れゆく意識の中、愛しい彼を、怨めしい彼を、離すことなくずっと胸に抱き続けた。
―――あぁ、アバン。…………やっと私を見てくれた。
―――愛してるわ。
こうして、代々から続いた誇り高きナイーゼ家の歴史は幕を閉じた。
アナは精神を病んだ。けれども、皇太子含む大勢を欺いた罪。純粋な公爵令嬢に暴行を与えた罪。そして殺人を冒した罪で、彼女は大勢の前で首をはね落とされた。悪女として罵られた末に。
死ぬまで重労働をさせることも考えられていたが、その時のアナにそうする余裕はなかったのだった。
ラミアとアバンリッシュは、騎士たちに発見された時には既に手遅れだった。
幸せそうに微笑んで眠るラミアの傍で、絶望に顔を歪ませたアバンリッシュが彼女に抱き締められながら事切れていたのだ。
雇われていたメイドたちも皆、牢屋に入れられたり、最悪の場合、情状の余地なしとされて処刑された。
少しでも罪を軽くしようとお互いに告発し合ったから、全ては早く発覚した。
けれども、ナイーゼ家で当時働いていた中で唯一、二人だけ姿をくらましたメイドがいた。
彼女らは何処へ行ってしまったのか。いくら探しても一生見つかることはなかったのだが、それは余談である。
ラミアは地獄で彼を抱えながら、静かに笑った。
―――やっと二人きりね、と。
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こちらは番外編となります。
本編『今度は君を幸せに』『今度は貴女を愛さない』も
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また、『ヒロインの座、奪われました』只今連載しておりますので、覗きに来てくださると嬉しいです。