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(8)昭和58年① 罰(ばち)

牧雄は母親から常々、「悪い事をしていると、どんなに誤魔化そうが、どんなに隠れてしようが、そのうち(ばち)が当たるんだよ。逆にいいことをしていると、誰も見ていなくてもそのうち良い事があるんだよ」と聞かされてきた。

それが心に染み付いているからか、山田とその手下どもからどんな酷い事をされようがある程度は耐えることができた。


(どうせあいつらは、いずれ罰が当たるのさ)

そう思うことで、少しは心の慰めにはなった。


4年生になる前の春休み、牧雄は山田たちから会わずに済む長い休みを満喫していた。

そんなある日、彰子が風邪をこじらせて臥せってしまった。


彰子は家で一人で寝ていて、たまたま仕事が休みだった牧雄の母親が1時間おきくらいに様子を見て、看病していた。

牧雄は彰子の身を案じつつ一人で団地の外周の道を歩いているところを、山田の手下の松村に呼び止められた。


山田たちといる時は威張りくさってひどく暴力的になるくせに、一人でいる時は下級生の頭を叩いて逃げたり女の子から消しゴムやキーホルダーなどの小物を取り上げたりというセコい子供だった。

そんな松村は山田たちのグループの中でも最下層の下っ端で、下級生にあたる2年生のメンバーたちからも使い走りなどさせられているようだった。


「ねぇ、小林君・・・」


小林は牧雄の名字である。

君付けまでしていつになく馴れ馴れしく寄ってくる松村を牧雄は無視して、足早に離れようとした。


そこで、腕を掴まれた。

渾身の力を込めたように、強く。


「痛い! 離してくれよ!」


牧雄は松村の手を振り払おうとした。

けれども松村は、牧雄の腕を捻った。


「いたたたた!」


動けなくなった牧雄に、松村は顔を近付けた。

松村は何かに怯えているように思い詰めた顔を歪め、はぁはぁと荒い息をしていた。


「僕の言うことを聞いてくれたら、離してやる」

「言うことって、何?」

「僕の言うことを聞くと約束してくれたら、言ってやる」


どうせろくでもない事をさせようという魂胆なのだろう、そんな約束なんかできるわけがない。

そんな牧雄の腕を、松村はさらに捻り上げた。


「痛い、痛い! 離せよ。聞いてあげるから!」


ついに牧雄は音を上げてしまった。

松村は勝ち誇ったように薄笑いを浮かべながら、牧雄の腕を自由にした。


「いいか、5千円持ってきてくれ」

「5千円? そんなお金、ないよ」

「こないだもおまえの『お金ない』で逃げられて、山田君にひどい目にあったんだぞ・・・ないなら、お母さんの財布から取ってこいよ」

「それ、泥棒だよ。そんな事、できないよ」

「いいから、やれよ! 約束だぞ!」


牧雄は、その場から走って逃げようとした。

松村は牧雄を捕まえて、また腕を捻り上げた。


「言うこと聞かないと、もっと捻って肩を外しちゃうぞ! 山田君からやり方教えてもらったんだぞ!」

「分かった! 分かったから、離してくれよ!」


あまりの痛さに、再び負けてしまった。

松村は乱暴に牧雄の腕を離した。


「いいか、公園のところで待っているから、できるだけ早く持ってこいよ。それから、他のヤツからお金持ってこいって言われても、僕が先だからな! 絶対に僕のところに持ってきてくれよ、お願い!」


松村は牧雄を痛めつけながら、自身は山田やその取り巻きに痛めつけられているのだろうか。

そう思わせるほど、必死に懇願してきた。


牧雄は逃げるように公社住宅の狭い階段を上って家に戻り、ゼイゼイと息を吐いた。

嫌な汗を、背中を中心に全身に感じた。


母親は、彰子のところへ行っているらしい。

家は、牧雄一人だった。


心のなかで、悪い誘惑が浮かび上がるのを感じた。

(今だったら、財布から5千円くらい取れるぞ)と。


牧雄は、誰もいないと分かっている家の中で足を忍ばせて茶の間へ向かった。

母親が財布を入れているバッグは、水屋タンスの下に置いてあった。


本当は、松村の言うことなんか無視するつもりでいた。

松村が山田に酷い目に遭おうが牧雄にはかえってそれが痛快だったし、それに牧雄以外の獲物を見つけてそこから5千円せしめるかもしれない。


けれども、牧雄はバッグに手をかけた。

やはり、春休みが明けてから牧雄自身が酷い目に遭いたくなかった。


バッグの中に、財布はあった。

中には、5千円札が1枚、千円札が1枚、5百円札が1枚、そして硬貨が何枚か。


5千円を抜き取ろうとして、しかし牧雄はそれから指が動かなくなった。

もちろん、すぐバレるだろう。


それ以上に、いつもお金がない、お金がないと言いながら苦労している母親を困らせたくなかった。

なにより、「悪いことをすると罰が当たるよ」という母親の言葉が頭の中によみがえってきた。


苦労している母親からお金を取って、どんな罰が当たるのだろう。

いやそれより、死んでから地獄に落ちてしまうんじゃないだろうか。


向かいの彰子の家の鉄製のドアが閉まる音が聞こえた。

母親が戻ってくる。


牧雄は5千円札から手を離し、小銭入れのポケットから100円硬貨を1枚、取った。

胸が激しく痛み、嫌な汗は頭からも噴き出した。


牧雄の家のドアが開くのと同時にバッグを元に戻し、靴を脱ぐ母親の目の前で玄関脇のトイレに駆け込んだ。

ほのかなアンモニアと買ったばかりの芳香剤の匂いが鼻をつき、ドアにもたれながら手のひらの汗でびっしょりと濡れた100円硬貨をしばらく見つめた。


「牧雄? どうしたの?」


トイレから出てこない牧雄を呼ぶ母親の声にハッとして、牧雄は慌てて「大」で水を流した。

そして汗をかき、おそらくは赤い顔をしながらトイレを出た。


「あらやだ、ウンコでもしてたの?」


母親はいつもと様子が違う牧雄の事を、それほど気に留めていないようだ。

牧雄は母親と顔を合わせるのが怖くて、そのまま「行ってきます」と外に出た。


たとえ100円でも、盗んでしまった・・・。

その事実が、牧雄の心を苛んだ。


しかも、100円ぽっちでは松村は納得しないだろう。

さらに凶暴化する恐れすら感じた。


しばらく団地の公園とは反対側のあたりをウロウロと歩きながら心を整理し、そしてようやく公園へ向かった。

公園では松村が待ちくたびれていた。


「おい、いつまで待たせんだよ! ・・・ちゃんと持ってきただろうな」


松村は噛みつかんばかりに迫ってきたが、牧雄はそんな松村の目の前に上着のポケットから出した100円硬貨を出して見せた。

「へ?」松村は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間に顔を真っ赤にして怒りだした。


「なんだよ、これは! ふざけんな!」

「ふざけてるのは、そっちじゃん!」


牧雄は襲いかかる松村に、渾身の体当たりで応じた。

松村は地面を転がり、「ちくしょう!」と泣き出した。


公園で遊んでいた他の子供達が嘲るように松村を笑うのを背に、牧雄は全力で走って家に帰った。

とても晴れ晴れとして、清々しい気分だった。


一段飛ばしで階段を駆け上がり、家に飛び込んだ。

もう牧雄は、松村をやっつけた事で100円硬貨の事は忘れてしまった。


本当は、彰子にも知らせてやりたかった。

(彰子、早く元気にならないかな)と、彰子の笑う顔を心の中に思い描いた。


しかしその夜中、牧雄が寝ている間に彰子の容態は急変した。

牧雄も知らない間に彰子は救急病院に車で運ばれて入院となり、牧雄がその事を知ったのは翌朝のことだった。


牧雄は、100円硬貨を盗った罰が牧雄が大切に思っている彰子に当たったんだと思って心底うろたえた。

早くあれを返さないといけない。


けれども母親はバッグを持って仕事に出て、家に帰ってからもバッグから目を離す機会がなかなかない。

入浴中を窺おうにも母親はたいてい夜遅く父親よりも後に入浴するから無理で、返せないまま日が過ぎた。


その間、彰子が良くなったという報せは来なかった。

牧雄は北側のベランダから、西の空に消え入りそうに弱々しく震える星たちの集まり・・・牧雄が「彰子の星」と心の中で思っている星々が見えた。


牧雄は毎晩、その星に向かって「彰子が良くなりますように、死にませんように」とひたすら祈った。

それでも、良い報せは来なかった。


そして4日目の日曜日、牧雄の上着を洗濯しようとしていた母親が、とうとう100円硬貨を見つけてしまった。

母親に問われた牧雄は、ついつい「道で拾った」と嘘をついた。


さらに悪い事を重ねてしまった・・・心の中で怯える牧雄だったが、母親は「そう」とだけ言って、牧雄を畳の部屋に座らせた。

母親は牧雄に向かい合った。


「マキちゃん、たとえ100円でもそれは人のお金なのよ・・・それをポッケに隠したままにするのは悪い事。いつか罰が当たるかも。でも道に落ちた100円玉、誰のものかは分からない。交番に届けても、お巡りさんは困ってしまうかもしれない・・・じゃ、どうする?」


牧雄は、困った。

母親は、静かに穏やかに笑みを浮かべていた。


「下のお店に、募金箱があるじゃない。困った人たちを助けるための募金箱。とりあえずは、そこに入れてらっしゃい。それが一番いい方法か、正しい方法かは、お母さんでも分からない。でも、よりましな方法だとは思う」


そして牧雄にお遣いを言いつけた。

財布から100円硬貨を2枚取り出して、「牛乳と、お釣り分で好きなお菓子でも買ってらっしゃい」と。


牧雄は雑貨食料品店へ向かい、真っ先にポケットで眠っていた100円硬貨を1枚、募金箱に入れた。

そして牛乳だけを買い、そのお釣りも募金箱に入れた。


母親は、悪い事をすれば罰が当たると言っていたが、良い事をすれば良い事が返ってくるとも言っていた。

せめてもの善行のつもりだった。


それが功を奏したのかどうかは、分からない。

その夜、競輪に行かずに彰子に付きっきりだった彰子の祖父から、良い知らせがもたらされた。


彰子の容態が午後になって急に快方に向かい、それは医師も驚くくらいだったと。

そして数日のうちには退院できるだろう、とも。

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