(7)昭和57年 ある攻防
大江が山田に刃向かった一件以降、牧雄は大江の家に出入りするようになった。
牧雄には、病気でない限り彰子も一緒についていった。
と言っても、大江は週に4日は街なかの進学塾に通っていて、ふたりが遊びに行けるのはそれ以外の日だったけれど。
その塾には山田も通っているようだった。
大江はそっと教えてくれた。
「山田ってな、本当はあの塾に居られない成績なんだ。でもお母さんがお金を余分に払って居さしてもらってるんだ」
その大江の家はまだほのかに新築の匂いがして、それに加えて同じ建物の中にあるクリニックの匂いも感じられた。
大江の母親は優しくて気さくな人で、牧雄と彰子をいつも温かく迎え入れてくれた。
おやつにはいつも、洋菓子が出された。
それは菓子店で買ったものもあったが、大江の母親の手作りのものも多かった。
牧雄は特にりんごのパウンドケーキが気に入り、それを話したら多めに作ってお土産に持たされたこともあった。
持って帰って母親と食べたが、母親は「まぁ、美味しい!」と言いながら恐縮しきったようだった。
そして、とても難しい顔をした・・・いや、その頃の母親はいつだって難しい顔をしていた。
牧雄は小さいながらも、母親が何か重い物を心に抱えていることを勘付いていた。
それはちょうど、3年生に進級する頃からだった。
奇しくも牧雄と彰子、大江の3人は同じクラスになり担任もお母さん先生が持ち上がりとなった。
幸い山田は別のクラスのままだった。
しかもバカラはよその学校に転勤していった。
しかし山田の虐めはエスカレートしていくばかりだった。
大江をはじめ周りの少なくない子たちが味方してくれるというのは、牧雄にとって何より心強かった。
その頃くらいから、牧雄は母に連れられて母方の祖父母の家に行くことが月に1、2回はあった。
バスで街まで出て、そこから郊外電車に乗る。
郊外電車はたいてい1両編成で、そしてとても古い車両だった。
油の匂いのする板張りの床に、濃緑色の布のシート。
運転手がガリガリとハンドルを回すと、グォーンとモーターの音を響かせて発車。
線路の両側には家々の軒先が迫り、その間を縫うように右に左にカーブしながらゆっくり進む。
しかしふた駅くらいで街を抜け、あとは田んぼや雑木林の中を走っていく。
そんなにスピードは出ていないはずなのに車輪がレールを刻む音はタタッ、トトッ、タタッ、トトッとせわしなく、激しい揺れも相まってスピード感いっぱいだった。
牧雄は座席に母親を残し、運転席の真後ろにへばりつくようにして進行方向を飽きず眺めた。
草に半分埋もれた線路が、郊外の風景のなか続いていた。
終点まで乗ってから、駅近くの小僧寿しで買い物。
そして本屋でコロコロコミックや「Dr.スランプアラレちゃん」の単行本など買ってもらい、歩いて母親の実家へ。
祖父母も交えて食べる小僧寿しは、楽しかった。
牧雄が好きだったのは、バッテラと、ポール巻。
ポール巻というのは、ソーセージが具材の手巻き寿司。
マヨネーズ風味が、子供ごごろに美味しかった。
それから母親は祖父母と「大人の話」をして、その間に牧雄は漫画を読みながら縁側で過ごした。
大人たちの話が終わるまで、ドラえもんやアラレちゃんをなんども読み返した。
買ってもらった漫画本を後日大江の家に持っていくと、とても喜ばれた。
大江は家庭の教育方針で、漫画は月に1回だけ『ドラえもん』の単行本を買ってもらうだけだったからだ。
しかし牧雄が漫画を持ってくることや、「貸しておく」ということで置いて帰ることまでは制限されなかった。
それどころか「お父さん、アラレちゃん笑いながら読んでるよ」と大江から報告を受けたりもした。
大江の父親といえば書棚に並んでいるのは難しそうな活字の本ばかりで、その中に手塚治虫の『火の鳥』『ブラックジャック』、西岸良平の『夕焼けの詩』、ジョージ秋山の『浮浪雲』などかある程度。
それら子供には何が面白いのかわからない漫画を読むイメージだったから、意外だった。
3人で漫画を回し読みする以外には、宿題などの勉強ももちろんした。
大江はなんでもよく知っていて、ふたりにとっては先生のようでもあった。
「弓矢ごっこ」もよくやった。
これは大江が持っているプラスチックのおもちゃの弓矢で、新聞紙で作った人形に山田の似顔絵を貼り付けた的を射るというものだった。
初めはゴム吸盤のついた矢を放っていたが、大江と牧雄はそれを改造した。
弓の弦は強力なゴムにして、矢も太い竹ひごの先を尖らせたものに変えた。
うまくやると、鋭い矢は丸めた新聞紙を寄せ集めてできた「山田くん人形」を貫通した。
何かの拍子に首に当たり、頭が飛んだこともあってふたりは盛り上がった。
しかしその弓矢遊びは、彰子には嫌がられた。
だから、彰子がいないとき限定の遊びだったけれども。
山田は自分の人形が牧雄と大江に矢で射られたり首を飛ばされたりしているとも知らず、ますますやりたい放題だった。
牧雄や裏切り者の大江だけでなく、他の子たちもどんどんその標的にされていった。
それまでは牧雄が一人で標的役を担っていたのを大江によってそうでなくされたかのように逆恨みして、山田とは別系統で嫌がらせをしてくる子供もいた。
山田たちの担任は新人の男性教師で、相当手を焼いていたようだ。
山田は「あいつ、僕のパパとママからのプレゼントを受け取らなかったんだ、すごい無礼者だ」などと吹聴して回っていた。
一事が万事で、山田は授業を荒らすようにもなった。
夏休みが終わる頃の夕方、牧雄の家に松村という山田と同じクラスの子がやって来た。
牧雄と彰子がふたりだけでいたが、牧雄だけが玄関に出た。
松村はかなり元気がなく、疲れ切っているようにも見えた。
牧雄に向かって、松村は薄汚れた一冊の雑誌を差し出した。
「お願い! これを買ってくれ!」
裸の女の人の写真が表紙の雑誌だった。
牧雄はいけないものでも触るように、実際ドキドキしながらページをめくった。
「でもなんで? いくら?」
「3千円・・・」
「そんなお金、ないよ・・・」
小学3年生にとって、3千円なんて途方もない大金だ。
答えながら目の前のページを見て、牧雄は一瞬凍りついた。
裸のおじさんが裸の女の人にのしかかっている写真が、見開きに大きく載っていた。
牧雄は慌てて雑誌を閉じて、松村に突き返した。
「お願いだよ! これを売ってこないと山田君に叩かれるんだ!」
松村は泣きそうになりながら雑誌を押し返してきた。
しかし牧雄はさっきの写真のせいで頭に血が上ったようになっていたから、夢中になって雑誌ごと松村を玄関から押し出してドアを閉めた。
「お願いだよ・・・お願いだよ・・・」
松村はドアの向こうから立ち去らず、泣きながら呼びかけ続けてきた。
牧雄はそんな頼み聞いてやるもんか、ざまぁみろと心の中でつぶやいて、彰子のいる茶の間へ戻った。
なにしろ松村は、山田の手先となって牧雄を虐め続けてきた子だった。
だからむしろ気持ちが良いくらいだった。
けれどもそれはそれとして、雑誌の写真が頭から離れずどうしようもなかった。
牧雄の挙動がおかしかったのだろう、彰子は不思議そうに「どうしたの?」と聞いてきた。
大人になったら、僕も彰子とあんな事するんだろうか・・・?
それともあれは、悪い大人だけがする事なのだろうか・・・?
牧雄が動揺するのには、牧雄なりの訳があった。
それは、時々夜中に感じる両親のちょっとした諍いと、写真の光景とが重なるからだった。
牧雄たち親子は、夜は3人が布団を並べて寝る。
いつも牧雄が父親の帰宅前に寝て、夜中に両親が布団に入る。
何かただならない気配を感じて牧雄が目を覚ます事があったけれど、その度に牧雄は怖くて寝たふりをしていたのだった。
そんな時たいてい父親は酒臭い息を吐きながら母親の布団に入り込み、着ているものを脱がせようとしているようだった。
「駄目よ・・・牧雄が起きちゃう」
「寝てるだろ」
「それに今日は・・・」
「誤魔化すなよ、生理近いだろ」
「嫌よ」
「なんでだよ、どうしてだよ、夫婦だろ、いいじゃないかよ・・・」
そんなやりとりを延々と重ねながら、時には頑なな母親の態度に父親が根負けしてふて寝してしまい、また時には母親が不承不承受け入れるのだった。
母親が受け入れたときは、父親は母親にのしかかるようにして荒い息を吐きながらガクガクと腰を上下に動かす。
それは数分くらいの間の事だったろうが、動く父親に対して母親は一言も発さず静かだった。
牧雄にとっては長い時間に感じられたその間、息を詰めながらその行為が早く終わることを祈っていた。
牧雄にとって父親は悪い大人で、その父親が母親に強要している行為は悪い事、という印象があった。
だからどうして大人の男の人は、裸の女の人が出てくる雑誌や映画にあんなに夢中になるのか分からなかった。
そしてどうして母親はそんな行為を受け入れているのだろうかと、疑問にも思っていた。
しかし牧雄は後で知った事だけど母親はその頃離婚を考えていたらしく、そういえば牧雄は祖父母の家からの帰り道で母親に聞かれた事がある。
「お母さんと、おじいちゃんの家に引っ越す事になるかもしれない」
それは牧雄にとって、守ってやるべき大切な彰子やせっかくできた親友の大江との別れを意味する。
だから牧雄は素直に嫌だと答えた。
それ以来その話が出ることはなく、牧雄にとってはすぐに忘れてしまった小さな出来事だった。
そして結局は離婚などせず、酒とギャンブルに溺れ暴力を振るう父親との生活は続いた。