(3)昭和54年 クロちゃんとユキちゃん
【注意】DV場面(子供への理由なき体罰を含む)を含みます
あれは保育園の年長さんの頃だっただろうと思う。
ある土曜の夜、団地を降りた街道沿いの町の神社で夏祭りがあった。
牧雄の父親も彰子の祖父も残業でいなかったので、牧雄の母親が連れていった。
子供の興味をそそるようなおもちゃや花火、カラーひよこ、それから綿あめや焼きとうもろこし、焼きイカなどの食べ物。
食べ物を焼く煙と発電機の排気ガスとが混ざり合って薄く煙り、裸電球の光が作る無数の人の影が交錯する。
わいわいと賑やかな話し声、屋台からは威勢の良い客寄せの呼び声。
牧雄も彰子も迷子にならないよう母親の手をしっかり掴み、人混みの中を泳ぐように屋台を見て回る。
牧雄は真っ先に、ルーレットくじに飛びついた。
並んだ景品には、箱はすっかり色あせていたけどロボットアニメの「ダンガードA」の超合金もあった。
あれはずっと前にサンタさんにお願いしていたけど、持ってきてくれなかったヤツ。
「賭け事はダメよ・・・1回だけね」
母親から硬貨を受け取り、ルーレットを回す。
しかしルーレットは無情にも「はずれ」のところで止まり、「残念賞」のチロルチョコ。
しかし、力の加減が分かったような気がした。
「もう1回だけ」と牧雄はせがみ、「本当にこれっきりよ」と硬貨を受け取った。
けれどもルーレットは超合金のところの手前で急にブレーキが掛かったように止まった。
結局また「はずれ」のチロルチョコ。
牧雄は「ホントのホントにもう1回だけ!」と半泣きになりながらせがんだが、母親は首を横に振るだけだった。
そんな時、彰子が「あれやりたい」と指を差した。
金魚すくいだった。
母親は「やめなさい」とそれを止めた。
「お祭りの金魚、すぐに死んでしまうから」
でも彰子は唇をへの字に曲げて、上目遣いで母親を見つめた。
母親の服を掴む拳には、力がこもっていた。
「仕方ないわねぇ・・・でも大切に飼ってあげるのよ。約束」
母親はがま口から硬貨を取り出し、彰子と、それから牧雄にも握らせた。
ふたりはおっちゃんに硬貨を渡し、モナカの皮でできたポイを受け取った。
牧雄は早速、ポイを水の中に入れて金魚を追い回した。
けれど金魚はすいすいとそれをかわし、とうとうポイは溶けてしまった。
「はい、残念!」
おっちゃんは笑いながら、牧雄からポイをひったくるように回収した。
それをしゃがんで眺めていた彰子は、中腰になった。
彼女は水面上にポイを水平に動かしながら、狙いを定めているようだった。
おっちゃんは「ほう・・・」と腕組みして覗き込み、硬貨を差し出そうとしていた別の親子連れもそれに見入った。
そして次の瞬間、彰子は水の中にポイを差し入れた。
あっという間に大きめの赤い金魚がポイに捕らえられ、水面に半分浸かったポイの上で暴れて波立った。
「やった、捕った」
牧雄だけでなく、誰もがそう思ったに違いない。
けれども金魚は水でふやけたポイを突き破って、逃げてしまった。
「あ〜あ、残念だった」
おっちゃんまでもがため息を漏らした。
彰子は唇を噛み、目には涙さえ浮かべていた。
おっちゃんは「はい、これ、残念賞」と、1匹の小さい黒い金魚を椀にすくって袋に入れてくれた。
たちまち顔を輝かせる彰子。
(どうせだったら、彰子が逃した金魚をくれたら良かったのに)
そんな牧雄の不満をよそに、金魚の入った袋を大事に両手で持つ彰子。
「名前つけたんだ、クロちゃん」彰子はそう言いながら、袋を高くあげて下から覗き込むようにした。
けれども、クロちゃんは翌朝には死んでしまった。
彰子はおもちゃ箱の代わりに、クロちゃんが浮かんだ洗面器を涙ながらに抱えながら牧雄の家にやってきた。
「あら、あら」牧雄の母親は、悲しげにそれを覗き込んだ。「・・・お墓を作ってあげなきゃね」
前の夜に捨てられたかまぼこ板を洗ってきれいに拭いて、母親はマジックで「きんぎょのおはか」と書いてくれた。
白いガーゼハンカチにクロちゃんを包み、3人揃って外に出た。
小雨が降っていた。
ひとつの傘に母親と、その両側に牧雄と彰子。
団地の外れから雑木林の中の小道を進み、道の脇の大きな木の根元に小さい穴を掘った。
そこにクロちゃんの入ったハンカチを埋めて、かまぼこ板の墓標を立てた。
しゃがんでナムアミダブツを唱えてから、3人はそこを離れた。
彰子はしゃくりあげながら、何度も振り返りながら・・・。
・・・そういえば、それから何か月か過ぎたある日の出来事も思い出される。
その日はよく晴れた日曜日で、開け放した窓から気持ちいい秋風が流れていた。
昼食後、牧雄と彰子はままごとの続きをしていた。
牧雄のお父さん、彰子のお母さん、リカちゃんっぽいけど違うきせかえ人形の子供と、仔山羊の人形のペット。
仔山羊の人形は仔犬ほどの大きさで、ぬいぐるみと言うには固く作られていた。
真っ白で、頭にはフェルトでできた花、首には実際に鳴る鈴。
彰子は「ユキちゃん」と名付けて、おもちゃの中でもそれを特に大切にしていた。
寝るのも一緒で、保育園を休んで鉄工所の事務所に預けられるときも常に連れて行っていた。
そんなユキちゃんの口元に、牧雄がミルクに見立てた椀を持っていったその時。
競輪でオケラになった牧雄の父親が、彰子の祖父を置いてひとりで帰ってきた。
「もう駄目だ駄目だ駄目だ、この世の終わりだ、もう駄目だ! もう寝る、布団を敷けぇ!」
父親は荒れに荒れ、母親をどやしつけて布団を敷かせた。
その間、台所に置いてあった日本酒の一升瓶を取るとそれをラッパ飲みして、むせた。
牧雄も彰子も、あまりのことに固まってしまった。
そして、ままごとの椀を持ったままの牧雄と父親の目が合ってしまった。
「てめぇ・・・男のくせに何を女の腐ったような遊びなんかしてるんだぁ!」
父親は大股で歩み寄ると、牧雄を力任せに殴った。
彼は真横に襖まで飛ばされ、派手な音がした。
血を流しながら起き上がった彼は足蹴にされ、また襖まで飛ばされた、
牧雄は、それでも起き上がった。
彼にとって、特に意味はなかったように思う。
ただ、倒されたから起き上がった、それだけのこと。
しかし父親は反抗的な態度と受け取ったようで、また彼を足蹴にしようとした。
そこへ母親が飛んできて、父親を羽交い締めにした。
父親はそれを振り払い、足元に転がっていたユキちゃんの足を掴んで振り上げた。
それを母親の頭に振り下ろしたとき、彰子の甲高い悲鳴が上がった。
今度は彰子が父親にしがみついた。
しがみつきながら、「ユキちゃんが! ユキちゃんが!」と泣き叫んだ。
彰子は祖父に溺愛されていて、そしてその祖父は誰よりも短気で喧嘩早いのを知っている父親は、そこで思い止まったように動きを止めた。
だらりと下げた手にぶら下がったユキちゃんは、片方の前脚が根元で折れかかり、詰め物の藁材が露出していた。
彰子は父親の手からユキちゃんを取り戻すと、部屋の隅でそれを抱えてシクシクと泣いた。
父親は怒りの持って行き先に迷った末に、布団の敷かれた奥の部屋へ引っ込んで襖を閉めてしまった。
牧雄が傷の手当を受けている間も、彰子はユキちゃんを撫でながら泣いていた。
母親は彰子の背中を優しく撫でてからユキちゃんを大事に受け取り、裁縫箱を開けた。
母親は破れたユキちゃんの体を繕い、彰子は鼻をすすりながらそれを覗き込んだ。
ようやく丁寧に繕っても、しかしその痕は醜く残った。
彰子は、包帯をちょうだいと言った。
もらった包帯でユキちゃんの傷痕が隠れるように巻いて、母親もそれを手助けした。
彰子の願いで、結び目はリボン結びにした。
そうしてずっと包帯を巻かれたまま、ユキちゃんは彰子が高校生になっても机の上で彼女を見守っていた。
私もままごと遊びしていて父親に殴られました。
私は息子がきせかえ人形で遊んでいても、止めませんでした。
「それでもあなたの孫は健康な男子に育っていますが?」と言いたい。