大切な何か(右神夜雲)
とあるサイトに、裏川屏風の母親を名乗る方がこんなスレッドを立ち上げた。
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裏川屏風儀、かねてより病気療養中のところ、
十月二十二日午前六時十七分、羚羊病院にて永眠いたしました。
享年十九歳。ここに永年の御厚誼を深く感謝し、慎んで御通知申し上げます。
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まさか掲示板で仲間の死を知らされるとは思わなかった。しかし彼(彼女?)とはネット上での付き合いしかない。顔も、本名も知らない。
お母様の英断がなければ、ぼくは彼(彼女?)の死を知ることもなかっただろう。
そしてこの『震える右手』が書かれることもなかったわけだ。
複雑な気持ちになった。
悲しみや驚きなどと一言では言えないような、やりきれなさを感じた。
この気持ちはどう表現すればよいのだろうか。
ぼくの実力では、何年かかっても描写できないと思う。
同スレッドで卯乃墓参という方が、こんなことをおっしゃっていた。
「屏風さんの小説はいい加減で自分勝手だと思われがちですが、ただ他の作家とは目的が異なるだけです」
長く作家をやっていらっしゃる方だけあって、卯乃墓さんの言葉には感心させられた。
ネット小説とは、ようは趣味である。
毎日死にもの狂いで連載を続けたところで、一円の金にもならない。そのまま投稿を止めてしまえば、それで終わり。何も残らない。
いくらアクセス数が増えても、金にも、名誉にも、自慢にもならない。
それでも書き続けるべきか、という疑心に陥ったとき、呆気なく筆を折ってしまったユーザーも少なくない。
では裏川屏風の目的とは何だったのか。
彼(彼女?)は読者数を競う事もなく、また小説家を目指してもいなかった。そうした“熱血作家”や“勝ち負け作家”達を揶揄したような小説をたびたび書いていた。(ネタだと言っていたが、どう見ても確信犯だった)
全ての小説は恣意的でどんな名作も自己満足に過ぎない事を自覚し、主張した。
それを踏まえた上で、彼(彼女?)はもっと大切な何かを、ぼく達に教えてくれた。
彼(彼女?)が無き今、ぼくは大切な何かよりも、知りたい事がある。
裏川屏風さんて、男? 女? (右神夜雲)