3.祝詞
「今日の神守、何か雰囲気、違くね?」
「美人度、二百パーセント増しだよな。後光が差して見えるぞ……」
窓際の最後列に座っている咲耶を見つめて、クラスの男子生徒たちがヒソヒソと話し合っていた。
背中まで真っ直ぐに伸ばした漆黒の髪に、白く小さめの整った容貌……。切れ長の眼の中に輝く黒曜石の瞳と、細く高い鼻梁に淡紅色の唇……。普段の咲希も美しい少女だが、今朝はそれに輪をかけたように全身から神々しいオーラが滲み出ていた。
それも無理はなかった。今日の中身は、葦原中国におわす神々の中でも随一の美貌を持つ木花咲耶比売なのだ。抑えているにも拘わらず、咲耶の全身からは神威が溢れ出ていた。
「おはよう、咲希……。何か、今日は綺麗ね?」
親友の凪紗が笑顔を浮かべながら声をかけてきた。
『早瀬凪紗よ。あたしの一番の友達なの。凪紗って呼び捨てにして……』
「ふむ……。おはよう、凪紗……」
脳裏に響く咲希の説明に頷きながら、咲耶が凪紗に挨拶を返した。
「いよいよ明日ね……。咲希、どんな服着ていくの?」
「明日……?」
怪訝な表情を浮かべた咲耶に、慌てて咲希が説明した。
『桐生先輩たちと映画に行く約束よ! 忘れないで……!』
「ああ……。映画じゃな。楽しみじゃわい……」
『ちょっと、話し方ッ……!』
「何、そのキャラ……? 変な口調……」
楽しそうに凪紗が笑った。どうやらウケ狙いとでも受け取ったようだった。
「現代の衣服のことはよく分からぬ……」
「そうね……。流行はWEGOだけど、咲希ならGUかハニーズがいいんじゃない?」
笑顔で告げた凪紗の言葉に、咲耶は怪訝な表情を浮かべた。
「ジーユー……? ハニーズ……?」
『JKに人気のファッションブランドよ!』
(JKとな? ファッションとは何じゃ……?)
『JKって女子高生の略! ファッションっていうのは、お洒落のことよ!』
脳裏で交わされる咲希の説明に頷くと、咲耶は自信満々の表情を浮かべながら告げた。
「お洒落ならば、紅色の衣裳に薄紫の領巾じゃろう。それに勾玉の首飾りと管玉の腕輪を着ければ完璧じゃ……」
「はあ……?」
咲耶の告げた言葉の意味が分からず、凪紗が濃茶色の瞳を大きく見開いた。
『キヌモとかヒレって何よッ? マガタマやクダタマなんて、知らないわよッ! 訳の分かんないこと言わないでッ!』
(何じゃ、美的感覚が欠如しておるのう……。貴人の正装と言えば衣裳と領巾に、勾玉と管玉って決まっておろうに……)
『あたしたちは貴人じゃなくて、JKなのッ! とにかく、明日の服は今考えているとでも言っておいてッ!』
(昨日から怒ってばかりじゃのう。若いうちからそんなだと、皺ができるぞ……)
『うるさいッ! いいから、早くフォローしてッ!』
「明日の服は、今考えておる……」
「そ、そうなんだ……。まあ、咲希は美人だから、何を着ても似合うよね。羨ましいな……」
凪紗が顔を引き攣らせながら告げた。明らかに不信感を持ったのは間違いなかった。
「そうかの……。お主こそ、とてもをかしぞ……」
「お、可笑しい……?」
咲耶の言葉に、凪紗は愕然として固まった。その様子を見て、咲希が慌てて叫んだ。
『可笑しいって、何言い出すのよッ! 早く、凪紗に謝ってッ!』
(謝る……? をかしと言ったことが不味かったのか?)
一欠片の反省の色もなく、咲耶がキョトンとした様子で訊ねた。
『当たり前でしょッ! いきなり友達から可笑しいなんて言われたら、馬鹿にされたとしか思えないわッ!』
キン、コン、カン、コン……
その時、始業を告げるチャイムが教室に鳴り響いた。生徒たちが慌てて自分の席へと戻り始めた。
「あたしも席に戻るね……。今日の咲希、何か変だよ……」
そう告げると、凪紗は廊下側にある自分の席へと向かって行った。その寂しげな背中を見つめながら、咲希が文句を言った。
『もう授業が始まるんだから、早く元に戻して……!』
(約束じゃから、仕方ないのう……。授業とやらが終わったら声をかけるんじゃぞ。それまで、私は寝ておる。慣れないことをすると、意外に疲れるものじゃ……)
咲耶がそう告げた瞬間、咲希の意識が海面に浮上するように戻ってきた。代わりに咲耶の意識が心の奥底に沈んでいく感覚があった。
(元に戻った……? 体も思い通りに動かせるわッ!)
鞄から筆箱や教科書、ノートなどを取り出すと、シャープペンを握り締めながら咲希は嬉しそうに微笑んだ。咲耶の意識が支配していた時には、咲耶の目を通してフィルター越しに見えていた光景が、いつも通り直接見えるようになっていた。
自分の体を自在に使えることが、これほどまで素晴らしいことであることを、咲希は生まれて初めて実感した。
一時間目の授業は国語総合だった。猪熊という男性教師が教壇の上から生徒たちを見渡し、欠席者がいないことを確認すると授業を開始した。
「今日から、『枕草子』に入ります。みんな知ってのとおり、『枕草子』は平安時代中期の女流作家である清少納言によって書かれた随筆です。その中でも『春はあけぼの』は『枕草子』の冒頭を飾る名文で……」
(咲耶が悪い人……悪い神じゃないことは分かるんだけど、このままじゃあたしの人間関係は滅茶苦茶にされちゃうわ。さっきだって凪紗に向かって、いきなり可笑しいなんて言い出すし……。咲耶と入れ替わる前に、凪紗に謝らないと……)
猪熊の授業を聞き流しながら、咲希は咲耶のことを考えていた。
「……夏は夜。月の頃はさらなり……」
(でも、いきなり可笑しいなんて言ったことを、何て説明すればいいかな……?)
「……ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし……」
(そうよ、をかしなのよ……。ん、をかし……?)
ふと聞こえた授業の内容に、咲希は顔を上げて教壇に立つ猪熊を見つめた。
「……この訳は、『ほんのりと光って飛んでいくのも趣がある。雨などが降っているのもよい』という意味です。ここで言う『をかし』は現代語とは意味が異なります。現代語では可笑しい、面白いなどの意味で使われますが、古典においては趣がある、美しい、優美である、愛らしいや、優れている、見事だ、素晴らしいなどの意味になります……」
(咲耶の時代は枕草子が書かれた平安時代よりも更に昔の神代……。同じ言葉でも今とは意味が違って当然なんだッ! 『をかし』は咲耶にとって、褒め言葉だったんだッ!)
咲希は咲耶が、『お主こそ、とてもをかしぞ』と告げていたことを思い出した。
(あれって……『凪紗こそとっても美しい』とか、『可愛らしい』って言う意味だったんだッ!)
咲希は凪紗だけではなく、咲耶にも謝らなければならないことに気づいた。
一時間目が終わると、咲希は息を切らせながら凪紗の席に向かって走った。そして机の上に両手を付くと、長い髪を揺らしながら凪紗に向かって頭を下げた。
「凪紗、さっきはごめんッ!」
「え……? まあ、いいけど……。どうしたの、咲希? 今日は何か変だよ……」
咲希の態度に驚きながら、凪紗が告げた。
「うん、分かってる……。ちょっと話があるの。お昼、屋上で一緒に食べない?」
「別にいいけど……」
不審そうな眼差しで咲希を見つめながら、凪紗が頷いた。
「ありがとう。それと、今日の午前中、あたしが変な言動するかも知れないけど、気にしないで……。お昼にちゃんと説明するから……」
「うん、分かった……」
「ありがと、じゃあ、また後でね……」
そう告げると、咲希は逃げるように自分の席に戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、凪紗は首を傾げた。
(ホントに今日の咲希、変よね? さっきと今で、まるで別人みたい……)
二時間目の英語の授業は何事もなく終了した。咲耶はずっと熟睡しているようで、起きる気配がなかったからだ。
(昼寝する神様って言うのも初めて見たわ……。咲耶って、ずいぶんと人間ぽいところがあるみたいね)
大人しく寝ているのならばそれに越したことはないと思い、咲希はそのまま咲耶を起こさずに三時間目の数学を受けた。
数学の授業の終業間際になって、咲耶が目を覚ました。
『はあぁあ、よく寝た……。今、何時じゃ?』
(もうすぐ三時間目が終わるところよ。休み時間が終わったら、次は体育の授業……)
『体育とな? どんな授業じゃ?』
何故か、体育という言葉に興味を持った咲耶が、目を輝かせながら訊ねた。
(運動よ。今日は確か、ソフトボールだったかな?)
『ソフトボール?』
(片手で持てるくらいの球を投げたり打ったりするスポーツよ……)
この説明で合っているのか不安になりながら、咲希が告げた。
『面白そうじゃの。咲希、その授業は私が受けてやろうぞ!』
(ダメよッ! 授業はあたしが担当するって約束でしょッ!)
『先に約束を破ったのは、お前の方ではないか? 休み時間とやらに私を起こさなかったではないか?』
(それは……よく寝ていたから……)
『約束は約束じゃ。だから、休み時間の代わりに私がソフトボールとやらを楽しんでも文句はなかろう?』
(分かったわよ……)
咲耶の言うことの方が正論だったため、咲希は仕方なく頷いた。
『では、鐘が鳴ったら入れ替わるぞ』
勝ち誇ったように咲耶が告げた。
(分かったわ。でも、次の休み時間の間に体操着に着替えないとならないから急いでね)
『任せるがよい。着替えという物にも慣れてきたところじゃ……』
自信満々に言い放つ咲耶に、咲希は不安そうな表情を浮かべた。
キン、コン、カン、コン……
終業を告げるチャイムが鳴り、学級委員のかけ声で生徒たちが一斉に立ち上がった。そして教師に向かって一礼をすると、咲希は右横に架けてある体操着袋を手に取って机の上に置いた。
(入れ替わったら、これに着替えて校庭に集合よ……)
『分かった。では、替わるぞ……』
咲耶がそう告げた瞬間、咲希の意識が心の奥底へと沈んでいった。その代わりに咲耶の意識が浮上し、主導権を握った。
「これに着替えればよいのじゃな……」
体操着袋からTシャツとスパッツを取り出すと、咲耶は机の上に並べた。そして、両手でボタンを外し、恥ずかしげもなく一気にブラウスを脱ぎだした。
『いやああぁあッ! 何してるのよッ……! やめてぇえッ……!』
咲希が驚愕のあまり絶叫した。
(何って、着替えておるのじゃが……?)
上半身に白いブラジャー一枚だけの姿で、咲耶が首を捻った。
クラス中の視線が、咲耶の白い裸身に集中していた。女子生徒は驚愕と呆れの眼差しを送り、男子生徒は興奮と欲望を咲耶の胸元に絡ませた。
『早くTシャツを着てぇえッ! 何考えてるのよッ! バカァアッ……!』
(何を騒いでおるのじゃ? 言われたとおり、着替えておろうが……?)
咲希の焦燥に首を捻りながら、咲耶は机の上にTシャツを広げて置いた。そして、難しい表情で腕組みをしながら、ジッとTシャツを睨みつけた。腕組みをしたことによりブラジャー一枚に包まれた胸の谷間が強調され、男子生徒の視線が突き刺さってきた。
『お願いだから、早く着てッ! 何やってるのよッ!』
(いや……。前と後ろが分からぬのじゃ……)
拍子抜けするほどくだらない理由を聞き、ブチンと音を立てて咲希がキレた。
『左胸に名前が書いてある方が前に決まってるでしょッ! このへっぽこ女神ッ!』
「へっぽこ女神じゃとッ! 黙って聞いておれば、神に向かってよくも暴言をッ……!」
売り言葉に買い言葉で、咲耶が顔を真っ赤に染めながら大声で叫んだ。
その様子を見ていたクラス中の生徒たちが、驚愕の視線を咲耶に集中させた。突然ブラウスを脱ぎだし、ブラジャー一枚の姿で訳の分からないことを喚いたのだ。誰もが咲耶の正気を疑った。
『うるさいッ! 黙って早く着なさいッ! いつまで乙女の半裸を晒してるつもりなのッ! あたしの下着姿を男子に見せておいて、偉そうに説教垂れてるんじゃないわよッ!』
脳裏に咲希の凄まじい怒号が響き渡り、咲耶は思わず両手で頭を抱えた。そして、ふと気づいたように咲希に訊ねた。
(下着というのは見せてはいけないものなのか?)
『当たり前でしょッ! 女が下着になるのは、愛する男の人の前だけよッ! それをクラスの男子全員に堂々と見せるなんて、何考えてるのよッ!』
咲希が激怒している理由を知り、咲耶は急いでTシャツを身につけた。そして、すまなそうな小声で咲耶に謝罪した。
(知らぬこととは言え、悪かった……。許せ……)
『許せるはずないでしょッ! これであたしは学校中の笑いものよッ! 突然、教室でストリップを始めた痴女扱いされるわッ! もう、明日から学校に来られないじゃないッ!』
羞恥と怒りのあまり、咲希は泣きたくなった。自分の意志で体を動かせていたら、本当に涙を流していたに違いなかった。
(悪かった、咲希……。今の記憶、責任を持って消してやろうぞ……)
『え……? 記憶を消す……?』
咲耶が告げた言葉の意味が分からず、咲希は驚いて訊ねた。
(正確に言えば、消すというより、旧い記憶に新しい記憶を上書きするのじゃ……)
そう告げると、咲耶は床を蹴って飛び上がり、机の上に降り立った。
「皆の者、こちらを見るがよいッ!」
天使の歌声とも言うべき美声が、教室中に凜と響き渡った。クラスの生徒たちの視線が、机の上に仁王立ちしている咲耶に集中した。
クラス全員が自分を見つめていることを確認すると、咲耶はゆったりと両手で大きな弧を描き始めた。そして、流れるような優雅さで舞踊とも言える踊りを始めると、神楽の如く澄み切った美声で祝詞を詠み始めた。
「神風の伊勢国祈 五十鈴原の底津石根に大宮柱太敷立 高天原に 比木高知て 鎮座坐掛巻も 綾に尊き天照皇大御神 亦の御名は 撞賢木厳之御魂天疏向津比賣之命……」
優雅な舞と美しい歌声に、咲耶の所作を見落とすまいとクラス中の視線が集中していた。
「亦の御名は 天照大日霊之命の 大朝廷を祝奉を 云巻も畏加禮ど 天津日嗣知食皇命の 大御代を 常盤に堅磐に護り奉給ひ 現き青人草をも恵み幸へ給へる 廣く厚き御恩頼に報ひ奉ると稱辭竟奉りて 拝み奉る状を平けく安けく聞食と 恐み恐みも白す」
祝詞を詠み終えた咲耶の両手には、美しく白銀に輝く<咲耶刀>が握られていた。その<咲耶刀>をゆっくりと上段に構えると、凄まじい気迫とともに一気に振り落とした。
「喝ッ……!」
咲耶を除くクラス四十二人全員が、ビクンと全身を震撼させた。その様子を満足げに見つめると、咲耶はトンと床に降り立った。<咲耶刀>はすでに消失していた。
(これで大丈夫じゃ。私が着替えた記憶は新たな記憶に塗り替えられた。もう、何も心配する必要はない……)
『新たな記憶……?』
(そうじゃ……。この記憶じゃ……)
咲耶がそう告げた瞬間、クラス中から割れんばかりの喝采が上がった。
『な、何……いったい……?』
咲希は、茫然としてクラスメイトの顔を見つめた。次の瞬間、人気グループのコンサート終了直後のように、興奮したクラスメイトたちの歓声が湧き上がった。
「神守、すげえッ!」
「何だ、今の? かっけーッ!」
「咲希、すごいねッ!」
「神守、アンコールッ!」
興奮冷めやらぬとは、まさにこのことであった。男子生徒も女子生徒も口々に咲耶を湛えて、その周囲を取り囲んできた。
『な、何なの……これは……?』
(着替えの記憶の上から、今の祝詞を上書きしたのじゃ。本来、祝詞とは言霊じゃ。私が詠んだ祝詞は、精神を高揚させ、天照皇大御神を崇拝させるものじゃ。皆にとっては、私が天照に見えただけのことじゃ……)
クラス中の喝采に笑顔で頷き返しながら、咲耶が満足そうに告げた。
『それって……。もしかしたら、あたしがクラス全員から崇拝されるようになったってことじゃ……?』
(そうじゃ……。着替えを見られた記憶をなくした上に、クラス中の崇敬を集めるようになったのじゃ。これ以上、望むことは何もあるまい……)
大きく胸を張りながら自慢げに告げる咲耶をジト目で見つめると、咲希はひっそりとため息を付きながら思った。
こいつ、やっぱりへっぽこ女神だわ……。