第1話「恋と性欲は紙一重」①
――思想。それは、人間を人間たらしめる、最大の特徴であると、僕は思う。
人は社会的な生物だ。そして思想は、人の社会を選り分ける重要な要素だ。
例えば、宗教。例えば、政治。人のコミュニティには、思想と言うのが密接に関わり、時にこの思想を巡って争いが起きる。
思想は人間を人間たらしめる、重要な要素だ。しかし、この思想と言うのは、同時に、持つと厄介な物でもある。
世には「政治と宗教の話はするな」と言う言葉がある。つまり、思想の強い人間と言うのは、多くの場合、厄介事ばかりを引っさげてくる、厄介な人間であるのだ。
――そして。僕は、間違いなく、人よりも、余程思想的な人間だ。
幼い頃から、様々なことに想いを巡らせてきた。そうしたことが好きだったからだ。
だけど、もしも僕が、自分の出自を取り決める神の力を得たとしたら。僕は間違いなく、この思想家と言う側面を掻き消すだろう。
なぜなら、思想とは、拗らせると、この世で最も面倒で、危険な物になるからだ。
◇ ◇ ◇ ◇
中学1年の頃。僕はリビングの椅子に座り、本を読んでいた。
そして僕の足元では、中学3年生の兄貴が寝転び、僕の脛の辺りをつねったり、毛を抜いたりしている。僕は兄貴につねられる度に、その痛みに顔をしかめていた。
「やめてって言ってるでしょ、兄貴」
「はー? 別にいいじゃん、こんなくらい」
「いやだから、本読んでるし。あと痛いから。やめてって、マジで」
「こんなくらい我慢しろって」
兄貴は僕の言葉を聞かず、ケラケラと笑いながらなお僕の足をつねる。僕は爪が食い込む痛みに足を動かし、何度も何度も兄貴の手を払いながら、しかし、兄貴はそんな僕に、何度も何度も爪を立ててきた。
そして、ブチリと、僕のすね毛を強くむしり取られた瞬間。僕はカッと来て、思わず怒鳴り散らしてしまった。
「やめろって言ってんだろ!」
僕は強く兄貴の肩を蹴る。兄貴は「痛っ、」と僕の蹴りを受け、しかめ面をした。
僕は瞬間、一気に肝が冷えるのを感じた。そして僕の予想通り、兄貴は見る見るうちに表情を怒らせ、目を爛々とさせて僕を睨んだ。
「お前、いきなり何するんだよ」
兄貴が立ち上がり、僕を見下す。僕は怖くて動けなくなり、だけど、それでも納得がいかず、兄貴に怒った。
「お、お前がやめろって言っても止めないからだろ」
兄貴は何も答えない。しかし、途端、兄貴は座っている僕の太ももを勢いよく踏みつけて来た。
兄貴は空手をやっている。そんな人間の踵が、強く僕の腿に当たる。僕は「ガッ、」と声にもならない痛みで椅子から転げ落ち、踏みつけられた太ももを押さえて床で悶えた。
「あんなくらいで怒るなよ。俺、別に暴力振るって無かったのにさ。お前からやったんだから、俺だってお前を殴っていいよな?」
兄貴はそう言って、僕の足をまた踏みつける。僕は痛みで声を詰まらせ、ぐっと涙目になりながら兄貴を睨み返した。
「お、前……! ふざけんな! そっちからやった癖に……!」
「は? お前が悪いんだろ。何偉そうにしてんだよ。そんなんだからお前はキモいんだよ」
兄貴が僕を見下す。僕は怒りと悔しさで歯を食いしばる。
僕は何もやり返せない。兄貴と殴りあった所で、勝てるわけがないからだ。
と、そんな時、
「やめなさい!」
キッチンで皿洗いをしていた母さんが、僕たちの喧嘩に割って入った。
「あんたたち、また喧嘩して! お母さん今から介護の資格の勉強しなくちゃいけないのに、こう言うことしないで!」
僕は地面に手を付き、椅子に手を付き、痛みを堪えてゆっくりと立ち上がる。僕は母さんの言葉が気に食わず、彼女に反論した。
「あんたたちって、僕もかよ。アッチから先にやったんだぞ、僕まで悪いのはおかしいでしょ」
「あー、もう! アンタはいつもああ言えばこう言う! 喧嘩両成敗! アンタもうるさくしたんだから、アンタも悪い!」
「だから、僕はやられたからやり返しただけだって! それでどうして僕も悪いんだよ!」
「本当、勘弁して。なんでそんな人を責めるように言うの? アンタの言い方だって問題でしょ」
「別に良いだろそんなの!」
僕は母さんにギャンと叫ぶ。と、床で寝転がりYouTubeを見ていた父親が、「お前らさぁ」とわってはいった。
「嫌な気分になるから静かにしろよ。俺今YouTube見てるんだけど」
「あなたは入ってこないで!」
母さんが父親に叫ぶ。父親は母さんに言われ、「あ、ハイ」と言って耳にイヤホンを突っ込む。そして母さんはまた僕と対峙し、言ってきた。
「お願いだからさ、真白。もうちょっと抑えてよ。アンタもう12歳でしょ? 私も明日資格のテストあるんだから、今日勉強しないとまずいの。こんなことでやる気を削がないでよ」
「だから、なんで僕が悪いことになってるんだよ」
「だからそういうところって言ってるじゃない!」
母さんと僕が喧嘩をしている最中、兄貴は舌打ちをすると、そそくさと2階への階段を上っていった。
「ちょっと、バカらしいから、俺上行くわ」
「待ちなさい正斗! まだ話は終わって――」
兄貴は母さんの言葉を聞かず、そのまま姿を消した。僕は息を荒らげて、呆然とその場に立ち尽くし。
と。少しして、母さんはため息を吐きながら、僕の方へと顔を向け、僕を睨みつけた。
「真白。もう、本当に勘弁して。これで試験に落ちたら、アンタたちのせいだからね」
「だから、僕はアイツに……」
「関係ないって。私が大変なことは前から言ってるでしょ? だったら私に配慮しなさいよ。本当、毎回毎回、こんなの、頭おかしくなるわ」
「いや、だから、僕は――」
「そうやってすぐ言い訳をして。もういいから、アンタも自分の部屋行きなさい」
母さんはそう言ってため息を吐くと、またキッチンに戻り、洗い物を始める。僕はしかし納得出来ず、母さんに無理矢理食い下がった。
「だから、母さん。何度も言ってるけど、僕は、」
「もういい加減にして! うんざりなのよ、アンタの話は毎回毎回! お母さん上行きさないって言ったでしょうが!」
「いやでも、だからって納得出来ないよ!」
「そんなのアンタが悪いんでしょ! もうお母さんに迷惑かけないで!」
「いや、だから、だから。……お願いだよ、話を聞いて!」
「うるっさいって言ってんでしょうが!」
母さんは僕に怒鳴り、バンとキッチンを叩く。僕はビクリと体を震わせ、押し黙って母さんの姿を見つめる。
「早く、上行きなさい。アンタももう少し落ち着いて。いい加減、歳なんだからさ」
母さんは言うと、ため息を吐き、小さく「本当、いつもいつも、こっちの身にもなってよ」と愚痴をこぼし、洗い物を再開する。
僕はもう何も言えず、自室に戻ると、部屋の中で、悔しさに独りでしくしくと泣いた。




