三 我を愛する者、即ち我が仇なり
ずっと後になってから、源佐は当時をこう振り返った。
我を愛することいよいよ深き者は、我を攻むることいよいよ力む。その苦楚の状、猶ほ囚徒の訊に就くがごとし。箠楚前にあり吏卒傍らにあり、迫促訊問して応ぜざる能わず。
深く愛してくれる者ほど、いよいよ激しくわたしを責め立てる。その苦しみたるや、己れを打つ木杖の前に引き据えられ、獄吏に厳しく訊問される囚人のような有様で、わたしを問い詰め、屈服させようと迫ってくる。
我を愛すること深き者は、則ち我が讐なり。
わたしを愛する者こそ、わたしに害を為す者だ―――ついにはそう思うところまで追い詰められた。
源佐は、ただ学問がしたかった。書を読み、義理を講究し、聖賢の道を知る。食事の間も外を歩いていても、考える事といえばそれだけだった。寝る間も惜しんで考え続けた。後に斥けることになった朱子の学に没頭し、書を取り寄せてはぼろぼろになるまで読み込んだ。
十歳やそこらの頃には学問好きな賢い子供だと眼を細めて見守ってくれていた家族も親族も、二十歳を過ぎてなお書を読むばかりで一向に身を立てることを考えない源佐を、次第に批判するようになった。
源佐の家は、元々はさまざまな資材を扱う商家だった。だが源佐が十歳の頃には既に店を閉じ、それまでの蓄えを取り崩しながら生計を立てている状態だった。
源佐は長男として、家のことを考えなければならない立場ではあった。だが源佐は再び商いに精を出そうという気も能力もなかったし、医者になるとか、どこかの邸に仕える、芸道を学ぶ、そうした生活の計一切が虚妄だと感じた。
学を講じるにせよ書を出版するにせよ、学問を主に生計を立てる。そんな生き方もありうると認められるようになるのは、もう少し後になってからのことになる。学問は俸禄を受ける武士や公家、商家の隠居らが、生計の道とは別に、教養あるいは道楽として学ぶものだった。
自らを「獄吏に訊問される囚人」と評した源佐は、三十歳を前に、ついに家族の反対を押し切って家を出て、邸から道を四本隔てた場所に家を借りて引きこもった。寝食もままならず、時に原因不明の呼吸困難と胸痛に襲われ、日常の起居にも困難をきたすようになっていた。見かねた友人が、一度家を離れた方がいいと強く勧め、周囲を説き伏せてくれたのだった。
そんな頃、源佐は山崎闇斎と出会った。邸を出て、半年ほどが過ぎた頃だった。