二 旧知 ー山崎闇斎という人ー(四)
「源蔵」
邸に戻る道すがら、源佐は息子に声をかけた。
「待たせてしもうたな」
「いえ」
源蔵はかぶりを振る。
「あのお武家はんの先生、お前覚えてるか」
源蔵は小さく、「はい」と答えた。短い間があった。
「学を講じる声が外まで聞こえてて、どないな方やろて恐ろしかったですけど」
確かに闇斎が講義する声は、邸の外まで筒抜けと言って良かった。源佐は大声で講義をすることも、邸で声を荒げることもまずないので、源蔵にはよほど怖い人に思えたのだろう。横の道を通るだけなのに、源佐の背に隠れるようにしていたことを思い出す。源佐は笑った。
「大きい声してはったからなあ」
「でも父上と道を歩いててお会いした時、ええ息子さんやなて言うてくれはったん、よう覚えてます」
源佐は息子を見た。その時のことを思い出してでもいるのか、神妙な顔をしている。
「………そうか」
「ほんまに真っ直ぐに、じっと見はったんで」
源佐は頷いた。それから、息子に聞かせるともなく呟く。
「子供さんいてへんかったからな」
闇斎に、子供はいなかった。妻もいなかったようで、家屋敷は全て妾に遺したと聞く。
儒学では、家の祭祀は父から息子へと受け継がれる。血脈こそが一族の「気」を伝えるよすがであり、祭祀とはその気の感応による先祖との交感と考えられている。血のつながりのない者に「家」を継がせ、継続させるという考えはなく、男系の近親に適当な男子がいなければ祭祀は途絶え、それは一族の消滅を意味する。かの国において「宮刑」―――男根を切除する刑が死刑に次ぐ刑罰、最大の恥辱とされた理由もそこにあった。
息子も兄弟もいなかった闇斎はその考えに忠実に従い、異姓から養子を取ることなく、きっぱりと「家」を断絶とした。朱熹によって定められた家礼を研究し、そのための神主も作り儒式の祭礼も行っていた闇斎だが、その神主も自ら焼き捨てたそうだ。儒学上の祭祀を絶やすしかなかったことが、儒学の門下たちに複雑な感情を抱かせたであろうことは想像に難くない。
家門を断絶させた闇斎は、心血を注いだ学問の面でも、本当の意味での後継者を持つことはなかったように思う。門下もまた儒学派と神道派、いずれかに属する者がほとんどで、師の門を二つながらに引き継げるような弟子はいなかった。儒学も神道もそれぞれの門下によって伝えられてはゆくだろうが、それがあの男の望みであったかどうか。
『道の前ではみな一人や』
声が聞こえた気がして、源佐ははっと足を止めた。
「父上?」
源蔵が戸惑った様子で見上げている。源佐は小さくかぶりを振り、再び歩きだした。
『迷うてる暇があったら、一行でも多く書を読め。あなたが考えてるような事は、古人がとうに考えている』
口元にかすかな笑みが浮かぶ。
そうやったな。
道の前にはみな一人。
うちにそない言うたんは、他ならぬあんたはんやったな。
☆
家人も寝静まり、しんとした秋の夜長に、源佐は灯りを頼りに書を繙いていた。
松屋の邸へ行くと、同じ学問仲間の壺屋も来ていた。松屋が声をかけたとかで、前回の読書会ではっきりしないところもあったので、よければ一緒に疑問を質したいという。源佐にしても願ってもないことで、三人で本を読みあい、質問しあい教えあい、結局暮れまで話し込んだ。それから軽食をご馳走になり、軽く酒も酌み交わして帰宅した。戌の刻(午後八時頃)にはなっていたと思う。食事の際に出た茄子漬が旨かったので褒めたところ、土産にいくつか包んでくれて、ふさも喜んでいた。
儒の道を学ぶ者として、理解ある家族と、好学の同士に恵まれ、裕福とは言えないにせよそこそこの生活を送ることが出来るようになった自分は、実に果報者だと思う。若い時分、そんな未来を描くことはとても出来なかった。
山崎闇斎と出会ったのは、源佐が最も精神的に苦しかった、三十歳前のことだ。今から三十年程昔のことになる。
『道の前には皆一人や』
源佐の苦しみを、私塾を開いたばかりだった闇斎は、無造作に一言で切り捨てた。九歳年長だから、相手は三十八歳だったはずだ。