二 旧知 ー山崎闇斎という人ー(三)
闇斎の塾は、源佐の邸とは堀川通りを挟んで丁度真向かいにあり、門弟六千人とも囁かれた。さすがにそれは誇張としても、正式に入門せずとも教えを受けたことのある者を数え上げれば、恐らく千は下るまいと思う。京で教えるだけでなく、遠く江戸や会津にまで毎年のように足を運んだ。そこで多くの大名に賓師として迎えられ、居並ぶ重臣たちを前に道を講じたという。武家ばかりでなく、ここ京では公家の中にも門人がいた。『大家商量集』『易学本義』『本朝改元考』など、毎年のように書が出版された。亡くなる一年前にも本が出ていたように思う。数え上げれば四、五〇冊にはなるだろう。
死して後已む―――まさにそんな男だった。
最後まで、歩むことをやめなかった。
偉い人だった。本当に。
「伊藤どの」
呼びかけに、源佐は目を向ける。相変わらず、険しい表情を崩していない。もっとも、源佐の半分の齢のこの若い儒者は、大抵いつも仏頂面というか、厳しい顔をしている。
「先生の教えを受けたことがおありか」
「いえ」
短く否定した。わずかに逡巡して、源佐は続けた。
「うちと山崎先生とでは、学問の筋が違います。ようご存じですやろ」
神道の方は判らないが、儒学者としての闇斎は、「朱子と共に間違うなら悔いはない」とまで言い切った、熱烈で厳格な朱子学者だった。日蓮宗の信者が法華経を信奉するように、闇斎は朱子を信じ、その学を究めることに全身全霊を捧げた。
儒学の正統―――「正学」とされる朱子学は、四百年ほど前、宋代の朱熹によって大成された学の体系だ。現在につながる儒学は千年前の孔子に始まるが、体系性の点では仏教の後塵を拝し、文献解釈と科挙及第のための記誦の学に堕していた当時の儒学を、一個の思想体系として再生した朱熹の功績は大きい。源佐もまた、多くの儒学の経典を朱熹の解釈を通して学んだ。朱子学は論理的で、しかもそれを学んでいくための課程も朱熹によって整えられており、階梯を踏めば誰でも理解出来るように工夫されている。思想家としてのみならず、師としても朱熹はやはり偉大だった。
だが、源佐はやがて朱熹の解釈を通して孔孟―――孔子とその後継たる孟子を読むことに疑問を覚え、直接に「論語」や「孟子」を読み込むという道を選ぶようになった。朱熹の解釈に則った「正統な」儒学と袂を分かったのだ。それは当然、厳格な朱子学者であった闇斎とは、違う道を歩むことを意味した。同じ儒者であっても「学問の筋が違う」とは、そういう意味だ。
相変わらずの不審気な眼差しに、源佐はつい笑みを浮かべた。
「せやけど、偉い先生でした。うちのどこが先生のお目に適うたんか判りまへんけど、学問の筋が違うて判ってはって、わざわざあんたはんら門下をうちに学びに来させましたやろ。そないなこと計ってくれはる先生、そら中々いてるもんやない。自分の門下が他へ学びに行く言うたら、ええ顔せん人の方がむしろ多いやろうに」
源佐は一時期、儒学というより文章に特化した勉強会を主宰していた。浅見は他の門弟と共に、そこへ学びに来たのだった。闇斎から打診はあったものの、本当に来たのかと正直驚いたものだ。一年ほどは通ってきていたと思う。浅見は闇斎の門下になる前にも一度源佐の元へ学びにきたことがあったが、その時は一度来たきりだった。
自分の門下を、自分と違う筋の儒者の元へ学びに行かせる。それは己れに余程の自信がないと難しい。だが同時に自分に足りない面を理解し、他人の優れた点を認め、その上で、心から門下の進歩を願っていなければ出来る事ではない。あの男には、その度量があった。
「偉い学者で、ええ先生でした。うちは本当にそない思うてます」
源佐は言い、浅見に向かって少し頬笑んでから、丁寧に頭を下げた。
「お妨げしましたな。―――源蔵、行こか」
去り際に、源佐は社殿の方にちらりと目を向けたが、さすがにそこに板垣親子の姿はなかった。