二 旧知 ー山崎闇斎という人ー(二)
源佐は少し迷ったが、ゆっくりと浅見に近づいた。源蔵も大人しくついてくる。六尺を越えるがっしりとした身にまとう黒羽織は擦り切れて、袴にも継ぎが当ててある。武家とはいえ主君も持たず、僅かな門人の束脩や伝手による筆耕などで生計を立てていると聞くこの男には、恐らくこれが精一杯の正装なのだろう。年は三十を少し越えたところだったはずだ。
源佐が近づくと、浅見は警戒する目をしながらも小さく目礼した。その目はまだ赤い。
「しばらくぶりで」
声をかけてから、源佐は祠堂に目を向けた。
堂々とした文字で「垂加社」と額が掛っている。「垂加」は「しでます」と読むのだそうで、昨年六十五歳で亡くなったこの男の師、山崎嘉右衛門の「霊号」だ。亡くなってから間もなくここに設けられた小さな祠堂はまだ真新しく、簡素な造りながら、磨き上げられた白木が清々しい。
山崎嘉右衛門は、神道家としても儒者としても門戸を張り、いずれの門にも多くの弟子を抱えていた。先程源佐が赤子のことで相談をしていた若い板垣はかれの神道系の弟子で、この浅見は儒学系の門下だった。その二つの門流の間では、何かと確執があったとも聞く。
儒学者としてのかれは、「闇斎」という号を名乗っていた。
源佐も儒を生業とする者として、儒者「闇斎」に対しては多少理解しているつもりではある。だが神道家としての面は全く判らない。つい一年前まで、普通に姿を見、以前には言葉を交わしもした男が祀られていると思うと、どうにも違和感がある。
元々下御霊社自体が早良親王や橘逸勢といった王朝時代の「御霊」を祀る神社なので、そこに新しい霊社が一つ増えただけ、と言ってみたところで、あの男は御霊、いわゆる恨みを抱いて死んだ「怨霊」ではないし、勿論祟りを為してもいない。
そもそもこの祠堂は「生祠」、つまり、その生前から、魂を祀る社として既に作られていた。生前に一度この境内に設けられ、ほどなく自邸に移され、死後に再び戻されている。つまりこの祠堂が設けられたのは、他でもないあの男自身の意志だということだ。何とも不可解な行為だった。
だが、それでも。
「………偉い先生でしたなあ」
祠堂を仰ぎながら、つい、しみじみとした呟きが洩れた。




