四 邂逅(五)
墨が切れたのか、水差しに手を伸ばした男に、源佐は遠慮がちに声をかけた。
「………あの」
男は手を止め、首を巡らせる。
「何か」
「手、止めさせて堪忍。世話になった上に図々しいんやけど、もし差し支えなかったら―――」
「源吉どの」
遮られて、源佐は口をつぐむ。
また怒らせたのか。
男は、きちんと源佐に向き直った。
「端的に用件を言うて貰いたい。差し支えがあれば断るだけの話だ。それも聞かねば判らん」
口調は厳しいがどこか諭すように言われて、咄嗟に言葉も出てこずに相手の顔を見つめてしまった。
「何か」
男は重ねて尋ねる。
「あの、書棚を―――見せてもろうてもよろしいか。勿論触ったりせんよって」
高価で貴重な書を繙かせてもらえるとはさすがに思わないが、学で身を立てているというこの男がどんな書を揃えているのか。書を好む者なら、せめてそれだけでも知りたいと思うのが人情だろう。
少し間があった。
「題簽を眺めて意味があるか」
言葉に刀身の閃きを観たような気がした。ぞくりと、背を何かが走る。
男は真っ直ぐに源佐を見据えている。
「書は珍しい玉や色鮮やかな鳥とは違う。眺めて有難がるのは時間の無駄だ。やめておけ」
「………っ」
その言葉に、身体がかっと熱を帯びた。羞恥とも、憤りともつかぬ強い感情が肚を突き上げた。
子、曰はく―――
憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。一隅を挙ぐるに、三隅を以て反さずんば、則ち復びせざるなり。
理解したいともがく者でなければ導かない。質問しない者には助言しない。四面の一つを示せば他の三面を問う、そういう者でなければ二度と教えない。
言い捨てて文机に向かおうとする男に向かって、源佐は必死で声を絞り出した。
「あの」
男は動きを止め、再び源佐に向き直る。
厳しい眼差しは不思議な熱を帯び、源佐の言葉を待っていた。用件を―――望むところを言え、と。
この男は、火だ。
言葉が喉につかえた。膝の上で拳を握り、源佐は二度、大きく息を吐く。
題簽を眺めて有難がる。勿論、本当に望むのはそんなことではない。書を読みたいという気持ちもさることながら、学ぶ事では決して人後に落ちぬと自負してきた自分が、そんな風に見下げられるのは屈辱だった。
源佐は褥の上に正座し、真っ直ぐに男の目を見て頼んだ。
「書を、拝見できませんやろか」
男は相変わらず身じろぎもしない。
「半端な物言いして恥ずかしい思うてます。うちは学問に生きたい。もっと書を読みたいんです」
不思議な高揚感があった。
学問をしたい。長年そう願ってきた。
だがこんなに真っ直ぐに、相手に対して主張したことがかつてあっただろうか。
頬が熱い。
短い間があって、男は口を開いた。
「わたしは程朱に学んでいる。そちらは」