短編「袖を引っ張るくーる」
残念ながら期末テストは散々な結果であった。
結果が散々であれば当然、補習と追試を言い渡されるのである。
日の入りも早まるこの季節は、わずかの間に電気をつけていない廊下を暗くしていた。
「あぁ……勉強とか意味分からん……帰って家の手伝いした方がまだマシだわ」
誰もいない事を良いことに、独り言が大きくなる。
思いの他響く声が面白く感じる。
しかし、響く声が1人分ではない事にも気がついてしまった。
浅く早い息遣いがどこかから響いていた。
気味悪さを感じつつも、若しくはと好奇心で声の方向へと近づく。
声の主は、階段にいた。
それも青白い顔色で、座り込む女生徒だった。
リボンの色から先輩であることは分かり、階段でうずくまっている彼女は、壁に寄りかかるようにして浅い呼吸を繰り返していた。
「だ、大丈夫ですか?」
声を掛けると反応はするが、視線は交わらず虚だった。
顔色は悪く、手足の震えと意識が朦朧としている。
「失礼します」と断りをいれ、先輩を抱え上げる。
流石に異性のぐったりとした人間を抱え上げるのはいろいろと緊張しつつも、自身の多少恵まれた体格と、家の手伝いで鍛えられた力に感謝しそうになった。
抱え上げると、先輩から小さな声がする。
「なに……を、する……の」
小さな抵抗なのか、上げられた腕は袖を掴む。
「とりあえず、保健室に運びます」
「あな……た……は……?」
「通りすがりの後輩です」
「そう……」
2度のやり取りで、先輩は声を出すのも辛いのか、浅い呼吸へと戻る。
幸いにも、保健室は空いていた。
「先生助けてください!」
声をいくら掛けようとも、返事はなく無人だった。
仕方なく奥のベッドへと彼女を運び寝かせる。
寝かせ終え立ち上がろうとすると、また袖を引かれる。
「行かないで……」
うわ言の様でもあるが、その手はしっかりと袖を握りしめていた。
「えっと……先輩?」
「ひとりにしないで……」
弱々しい声色はやはり体調が悪そうで、一刻も早く何とかしてあげたいと思えた。
「でも、先生とか呼ばないと」
「いやぁ……」
離してくれそうもなく、どうしようかと悩んでいると、保健室の入り口から声がする。
「あら?誰か来ているの?」
助かった。誰か来たらしい。
「すみません。こっちに倒れていた先輩を運んだんです。手を貸してください」
その声に、慌てた様子で駆けつけてくれた。
顔を見ると、やって来てくれたのは保健室の先生だった。
先生は横になっている生徒の顔を見ると、ひとまず落ち着いた様子で、机の引き出しから小さな器具と飴のような袋を取り出した。
彼女の横に立つと小さな器具を彼女の指先で何かしており、結果を確認すると頷く。
「彼女ならこれを舐めさせてあげたら大丈夫よ」
そう言いつつ、先生は袋を開き先輩の口元へラムネの様な見た目の物を近づける。
「自分で舐められそう?」
先輩は小さく頷き、口を開くとラムネを受け入れる。
「君も1つどう?」
「え、薬じゃないんですか?」
先生はにこりと笑うと、1つ渡してくる。
「大丈夫よ、ブドウ糖たっぷりのラムネだから」
言われるままに口に入れると、小学生くらいによく食べていたリスのパッケージのお菓子を思い出した。
「彼女ね、良くある事なのよ。でも念のため担任に伝えて、お家の人にも連絡しておくから、もう少しだけ見ていて貰えるかな彼氏くん?」
「それは良いんですけど、彼氏では無いんですが……」
「あら、それもそうね。彼氏なら体質の事も知っていそうだし。でもそんなに袖掴まれて無関係だなんて、あなた……なかなかやるわね」
やけにニヤニヤとだらしの無い顔をした先生を怪訝な目で見てしまう。
「でもまぁ、ここまで連れてきた君は良い子だろうから、悪いけどもう少し見てて。それで彼女の口が空になったらもう何個かラムネをあげてね。それで落ち着いてくるから」
ラムネを袋ごと渡されると、そのまま先生は出て行ってしまう。
ゆっくりと口の中で溶かしたとしても、数分も有れば溶けてしまうラムネを、また1つと口に運んでいるとペットに餌をやっている気分になってきた。
そんな気分になると、好奇心からか彼女の状態が気になるのである。多少血色の戻りつつある先輩は透き通るような肌で綺麗だった。
気がついて気になることが生まれる。
「先輩はそんなに病弱な感じなのにどうして1人だったんですかね」と小さく疑問をつぶやく。
「いつも……夢中で……絵を……」
絵を描いていて、あんな風に廊下で倒れる状況が全然分からない。
「絵ですか?」
「そう。好き……なんだ」
「そうなんですね。どんな絵を描くんですか?」
「私の好きなもの」
「好きものですか?」
「クジラが好き」
「へぇ、クジラですか。今度先輩の絵見せてくださいよ」
絵というものにあまり興味は無かったが、クジラと聞き少し興味が湧いた。
さっきまでの弱々しさから抜け出したであろう先輩とようやく、しっかりと視線が合う。
「お礼に、好きなのあげる」
「いやいや、絵とかよくわからないですし」
「じぁあ……教えてあげる。明日の放課後第二美術室に来て」
「補習があって……」
「終わってから来て」
虚だった目は幾分焦点が合い出しており、透明感のある瞳はNOと言わせない圧力があった。
「わ、分かりました」
「待ってる……あと……」
「あと何ですか?」
「ラムネもう一つ」
彼女の小さく開かれた口はどこか艶かしい。
さっきまではペットの餌やりと思っていたことが急に気恥ずかしく感じる。
しかし、そこで動揺を見せては逆に意識しているようで、手が震えないように意識して口へとラムネを運んだ。
ゆっくりと口の中で溶かす彼女は、軽く微笑む。
「ありがとう。君は優しいね」
「いや、そりゃ廊下で倒れていれば誰でも……」
年齢的には1歳程度しか変わらないはずだが、飾らない言葉と薄幸の美少女という表現が当てはまる見た目に直視できなくなっていた。
「いつもなら保健室に行けたんだけど……今日は間に合わなくて……このまま誰も来なかったらってって思ってた」
「あのままなら、どうなってたんですか?」
「どうにかなってたかもね」
なんて事はない様に話す先輩は真っ直ぐな視線を向けつつも、次の瞬間には消えてしまいそうな儚さがあった。
何とかしないとーーーー。
そんな衝動に駆られる。我ながらちょろいと言うか、引かれそうな行動を取ってしまう。
「これ!俺の連絡先です。何か困ったら連絡ください。すぐ助けに行きます」
「あのね。スマホがカバンの中で今なくて……」
あぁ、これは断る時の良くある手段だと、やってしまったという気分に辛くなる。
スマホを持つ手を下げそうになると、先輩は上体をゆっくりと起こして、俺のスマホを持つ手を両手で包み込むと画面を覗き込む。
「うん、このIDだね。覚えたから大丈夫」
女の子から手を握られるような行為と、本当にスマホを持っていないだけだという状況に顔が一気に熱くなった。
「私スマホって全然持ち歩かなくて……後で必ず連絡するよ。私は須直 久遠、それで……君の名前を教えて?」
「鯨井 和保」
顔の熱さを隠す様に少しぶっきらぼうに答えてしまった。
「クジラ……?」
「はい。鯨井ですけど、海のクジラです」
「そっか、君も……」
小さな呟きは後半聞き取ることができなかった。
「何か最後言いました?」
先輩は小さく首を振る。
「何でもない、よろしくね。かずくん」
いきなり愛称呼びとは、この先輩の距離感のバグり具合に振り回される。
「先輩初手で下の名前呼んでくるなんてすごいっすね」
「何か変だった……?私ちゃんと学校通ってなくて、何か変だったら教えて」
何か訳ありなのは察していた……「いや、良いと思います。悪い気はしてないので」
「良かった」
白い透き通る肌で、消え入りそうな雰囲気だとしても、そこには確かに目の輝きを放つ不思議な女の子だった。
そんなやり取りをしていると、先生が戻ってくる。
「須直さんの荷物持ってきたわ。私帰るついでに送っていくから、君もどう?」
「いえ、自分自転車なんで大丈夫です」
「そうなのね。じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「はい」と短く返事をして帰ろうと荷物を持ち上げると。
またしても、袖を引っ張る力に止められる。
「またね。かずくん」
先生が見ている手前恥ずかしいが、見上げる先輩には敵わなかった。
「はい、先輩もまた明日」
空いた手を軽く上げて手を振る。
中高と女子生徒と触れ合うなんて事の無かった自分は、これからやってくるトラブルなど考える余地もなく、少し舞い上がりながらその日は帰路についた。
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昨夜は本当に先輩からメッセージが届いた。
『今日は助けてくれてありがとう。明日待ってます。』と言う短いメッセージになんて返そうか1時間は悩み『また困った事があれば連絡ください!どんな絵か楽しみです!』と送るとその日はそれっきりだった。
追試の勉強もしなければならないが、勉強が嫌すぎるため、家の手伝いと言う名の稽古に勤しみ、教科書を枕にその日は就寝した。
翌日は授業中の睡魔と戦い恐らくたぶん善戦した。しかし授業の記憶はない。
それでも追試の勉強内職はきっと進んだ。
放課後も続く補習と追試は、だいぶ難易度を下げられギリギリ合格ラインを獲得した。
「期末テストだからコレで許すが、学年末は進級無くすぞ」と担当教師からお叱りを受けた。
教室を出るとメッセージを送る。
『追試終わったので、これから第二美術室行きます。』
正直美術室に第二がある事なんて昨日までしらなかったが、一応存在している事を昼休みに確認した。
第二校舎の最上階の奥とか、遠過ぎなんだが?と思いつつ足取りは軽い。
美術室の前にたどり着くと入り口は閉まっており、わずかに光が漏れていた。
中に誰がいるか分からないため、念のため呼吸を整えてノックする。
ノックから10秒。
返事はない……。
1分は優に経った頃、痺れを切らして扉に手をかける。
「失礼しまーす」
目の前に飛び込む光景に思わず息を呑んだ。
両手を広げるより大きなキャンパスに広がる世界は、幻想的に広がる宇宙の海を、シロナガスクジラの親子が優雅に泳いでいた。
素人目には既に完成していそうな絵画の前には、未だに一心不乱に筆を動かす先輩がいる。
「すげぇ……」
見たこともないスケールと飲み込まれそうな宇宙の海を前に、青年はただただ茫然と声を漏らした。
絵を隅々まで見たいと思う欲求もあるが、筆を動かす先輩に目が止まる。
昨日のように顔は白く、少し息が上がっているように見えた。
「先輩……?大丈夫ですか?」
手を伸ばせば触れられそうな距離なのに声は届かず。
しかし、その透き通った眼差しは真剣で、触れることはできなかった。
邪魔にならない様に、近くの椅子を持ち出し座る事にした。
ポケットを触ると、昨日保健医から貰ったラムネがいくつか入れたままだった。
彼女に食べさせた方が良いのではと思いつつ指先で袋をいじる。
10分……20分……飽きやすい自分なのだが、じっと目を離さず見ていた。
一際大きなクジラの瞳を描き上げると、彼女は筆を置く。
「……できた……」
そう呟くと、彼女がフラつきだす。
思わず体が動く。
スローモーションで動く世界で、さらにゆっくりと崩れ落ちそうになる彼女に駆け寄る。
もつれ込みながらも、後ろから抱き止める様に座り込んだ。
「大丈夫ですか……?」
見上げた先輩と視線が合う。
「かずくん……?」
「そうですよ。保健室行きますか?」
先輩小さく首を振る。
「カバンにラムネ……」
「それなら……」
ポケットに入れていたラムネを取り出す。
肩口に顔を預けた先輩は小さく口を開く。
距離の近さに体は強張りつつも、努めて冷静にラムネを口に運ぶ。
しかし、わずかに操作を誤った指先は、先輩の柔らかな唇に触れてしまう。
「す、すみません」
先輩は何に謝っているのか分からずに視線が合う。
「かずくん……悪いことしてない……よ?」
どこまでも無防備な先輩に毒気は抜かれていく。
「気にしてないなら別に大丈夫です」
そこからまたいくつかラムネを与えると、顔色も呼吸も良くなっていく。
先輩の具合が良くなると共に、小柄ながら整った顔とスタイルの女の子を、股の間に座らせ抱えている状況に恥ずかしさを感じ始めてしまう。
「先輩。調子戻ってきたなら普通に椅子に座りませんか?」
「嫌って言えばこのままでいてくれる?」
普通に断られないと思っていた提案をあっさりと跳ね除けられ、押し黙ってしまう。
「……恥ずかしくないですか?」
「誰も見ていないから平気。それとも、重たくて嫌?」
羽のように軽いだとか、どこもかしこもふわふわしているだなんて感想が頭の中を駆け巡るが、結局口から出たのは一言だった。
「大丈夫」
いったい何が大丈夫なのか。混乱した頭は追試よりもパンクしそうだった。
しかし、優しげに目を細める先輩がこちらを向けている事に気がつくと、邪な気持ちはどこへやら。
1度目を閉じて息を吐く。
「気が済むまで背もたれになりしょう」
嬉しそうな先輩から伸ばされた手で、クシャッと髪を撫でられる。
「いいこ」
子供のように撫でられた事が嬉しくも気恥ずかしく、目の前に広がる圧倒的な絵の世界に目を向ける。
絵なんて学校の美術くらいでしか接したこともないし、これまで何の感想も持ってはいなかった。
それでもこの絵がすごい事は直感で感じられる。
今にも動き出しそうなクジラと、平面なのにどこまでも広がっているかのように錯覚させる宇宙の海。
自身の貧相な語彙力ならば「ヤバい……」とだけ改めて声が漏れた。
「絵に興味でた?」
「そうだな……初めて興味持ったかも」
「良かった。今度かずくんにあげる用に1枚描くね」
「えっと……こんな大きいのは飾る場所が……」
「わかった」
やる気に満ち溢れたような表情の先輩は、フンフンと楽しそうだった。
「やる気なところ申し訳ないですが、こんなに倒れるほど描かないでくださいね」
「絵がね。早く完成させてって訴えかけてくるの」
芸術家の感性という物だろうか。
「そうなんですか?ちなみにコンクールとかに出すんですか?」
「来週発表して、きっと誰かが買っていくよ」
学生の絵を買う人がいるんだなぁと思いつつも、この絵に値が付くのは素人でも納得する。
「良い人のところに行くと良いですね」
「君は値段とか聞かないんだね?」
「お金出しても欲しくなる絵だなぁとは思いますけど、絵の価値とかはよくわからないので」
「そっか」
何か返答でも間違えただろうか?
先輩はうつむく。
「君には小さいサイズでとびきりの絵を描くね。飾ってくれる?」
「絵の飾り方とか分からないので、それも教えてもらえます?」
先輩は少し顔色の良くなった顔で頷く。
儚げな印象でも、柔らかな笑顔を向けてくれるととても魅力的だった。
少し赤い顔でこちらを見上げる先輩。
「顔が赤いですけど、お疲れのようですから今日は帰りますか?」
首を振る。
「違うの。君を見てると顔が熱くなってきて……この気持ちは絵を描いてる時と一緒なの」
先輩の小さな手が袖を掴む。
「クジラみたいにおっきくて優しい君と出会えて嬉しい。良かったらこうやってまた会える?」
ひどく近くにある整った白い先輩の顔は真っ直ぐに見つめる。
しかし、掴まれた袖は微かに震えていた。
こんな事を他人に言うのは緊張するのだろう。
じゃあどうやって答えたら先輩は喜んでくれるだろうか?
安心してくれるだろうか?
「大丈夫です。先輩がいるならいつだって駆けつけますよ」
その声を聞くと、先輩の震えはおさまり、掴む手は優しく寄り添う手に変わっていた。
病弱な袖を引っ張る先輩と出会ったのは、色のない暗い放課後の廊下で、これからの2人は色鮮やかな日常を描いていく。
いろいろ設定を考えていたにも関わらず、上手く引き出せず締め方に困り下書きに残ってしまっていました。
今年も宜しくお願いします。




