短編「紫陽花の似合うクールな君に」
梅雨入りの雨の日に思い出すのはこのイヤリングだった。
青い紫陽花をモチーフにした、彼からのプレゼント。
あの日は何の記念日でも無ければ、そもそも知り合ってまだ数日だった気もする。
彼はデザインのフェスに友人と参加していたらしい。
そこでたまたま目についた物がこのイヤリングだったそうだ。
「瑞々しい透明感を感じさせる青い紫陽花を見たら、君に渡したくなった」と言われた時には、思わず私は目を丸くしていた。
まったく彼と言う人間は、最初から私の気を引くのが上手かった。
彼との出会いは別段興味もなければただの撒き餌で連れて行かれた合コンだった。
後から聞いた話では、男達は私が来ると言う事で集まったそうだ。迷惑な話である。
最初の30分ほど冷たくあしらった所で、男達のターゲットは別の人々へと移っていた。連れてきた女の子達ともそれで良いと事前に打ち合わせしていたため、どうと言う事は無かった。
ようやく面倒な返答をしなくても良くなり孤立し始めた頃、男側にも同じような人物がいる事に気がついた。
恐らく数合わせと言う奴だ。
にこやかに聞いている様に相槌を打つが、彼の目線はひたすらに目の前の日本酒と煮魚に注がれていた。
一口食べては日本酒を舐める。
そうして美味しそうに息を吐く。
小洒落た店には似つかないが、そんなことはどうでも良いのだ。
少し真似してみたくなった。
小さな声で尋ねる。
「少し貰っても良いだろうか?」
彼は無駄に人数分来ていたお猪口から一つを手に取ると、注いでくれる。
「少し辛いから飲み慣れて無いなら気をつけてね」
彼の声を初めて聞いた気がする。優しげで心地よかった。
正直に言うと日本酒はこの時が初めてだった。
彼の様に舐める様に軽く口に含む。
するとどうだろう。舌の上に華やかな味わいが広がる。当然そこそこ度数も高く喉は焼ける様な感覚はあったが嫌いじゃない。いや、むしろ好ましい。
「美味しい……」
「イケる感じだね。この魚とっても合うから食べてみて」
言われるがまま、彼が綺麗に食べ進めていた煮魚に箸をつける。
甘辛い味付けが飲み物を欲する。
欲するままにお猪口を煽る。
「これは……初めてお酒が美味しいと感じる」
「気に入って貰えたならなにより」
それからは取り止めのない話をしていた。
しばらくすると周りが二次会の話を始めたため私は切り上げる事にした。
飲み会なんて余計な出費だといつも思っていたが、今日はそんな風に思うことは無かった。
真っ直ぐ駅に向かう。しかし、休日の夜も遅い時間で、酔っ払いや二軒目を目指す人々でごった返し進みにくかった。
突然腕を掴まれた。
「ねぇ1人?1人なら遊ぼうよ」と軽薄そうな2人組が声をかけてきた。
「ナンパなら他をあたってくれ」
普段通りに歩き出せば済む話だった。
だが、今日はアルコールを摂取し過ぎていたことで、振り返ろうとした所でよろけた。
「何?お姉さん酔ってるの?危ないじゃん休憩できるとこ行こうよ」
あぁ鬱陶しい。
「貴様の様な男に興味も無ければ、触られたくもない失せろ」
つい口調が強くなり過ぎた。これでは面倒な事になる。
「なんだよ。優しくしてやってんのに生意気な女だな」
掴まれた腕に痛みが走る。
あの楽しかったの気持ちはどこへやら。最悪だ。
そんな最悪を振り払ったのは彼だった。
「あの、この子うちの合コンの連れなんで、横取りやめて貰えますか?」
彼はどこからとも無く、人混みから顔を出す。
ささくれだった心が落ち着きを取り戻し、とっさに腕を振り払い彼の手を取り歩き出す。
「ありがとう。助かった。少し足元が覚束無いらしい」
「言ってくれればついて行ったのに」
「いや、君は二次会に行くみたいだったし、私はさっさと帰りたかったんだ」
「同じく帰りたくてね。適当に言い訳して帰ってきたんだ」
彼は屈託のない笑顔で、さらりと言いのけた。
少し先ほどの場所から離れ、別の駅の入り口の前にたどり着く。
「帰れそう?」
「恐らく大丈夫だ」
繋いだままの手を頼りに歩いている気もするが、出会って数時間にしては頼り過ぎだと自分を律する。
「どの電車乗るの?」
「中央線の下りだ」
「それなら一緒だから駅まで送るよ」
「助かる」
同じ大学なのだからその可能性を考えておくべきだった。
最終的には同じアパートなのである。
彼との付き合いはその日からだった。
翌日はお礼も兼ねて昼食を作って持って行った。
「君の好みが分からなかったが、飲み会の翌日だからあさりのお味噌汁と卵焼きを作ったんだ。良ければ食べて貰えないか?」
考えてみれば、これは完全に私が落ちていないだろうか。
まぁ実際のところそれを自覚したのは、最初に話した雨の日なのだが。
家の呼び鈴は唐突に鳴る。
インターホンを覗いた先には彼が立っていた。
「今少しだけ良い?」
「あぁちょっと待ってくれ。すぐ開ける」
私は鏡の前で少しだけ前髪を整えてから玄関を開く。
「どうしたんだ?」
「ちょっと今日は遊びに行っててね。これ似合うと思って」
そうして渡された言葉と青い紫陽花。
目を丸くした私はとりあえず彼を部屋に招く。
「どうだろう?似合うか?」
普段それほど装飾品を身につけない私だが、青い紫陽花はしっくりと馴染む。
彼は思った通りだと言う様子で「可愛い」と言ってくれた。
嬉しく気恥ずかしく、思わず舌が滑る。
「紫陽花の花言葉を知っているか?」
「いや?知らないな」
「紫陽花の花言葉は、『移り気』や『浮気』なんて言葉だ」
「別にそんな意図があったわけじゃ……」
分かりやすく狼狽える彼が愛おしかった。
「すまない。まだ続きがあるんだ。青い紫陽花の花言葉にはな、『辛抱強い愛情』なんて花言葉もある」
彼は少しホッとした。
「私にぴったりだな。君となら深い愛情を辛抱強くいつまでも持っていられる気がするよ。ありがとう、一生の宝物にさせて貰う」
彼は照れた顔を隠す様に頭を掻く。
そんな彼が視線を上げ口を開く。
強まる雨にかき消されないように、真剣な彼の言葉を聞き届けた私の耳は、青い紫陽花を赤く染めるほど赤くし、彼の言葉を受け入れるのだった。
紫陽花って色ごとに花言葉があるそうです。
話の中で出した悪い雰囲気の花言葉の他に、もちろん良い花言葉もありまして、『和気あいあい』や『団欒』と言った、紫陽花らしい密の良い部分をイメージさせる言葉があるそうです。




