短編「雨が運んできたくーる」
天気予報が嘘をついた午後は、自分しか乗っていないバスの窓に滝の様に雨を打ち付けていた。
「傘持ってないなぁ。まぁ帰るだけだし良いか」
ずぶ濡れで帰る事に憂鬱な覚悟を決めていると、バスは自分の目的地でもある終点へと到着する。
簡素な小屋になっているバス停に降りると、1人の同い年くらいであろう女の子がいた。
この辺りでは見たことのない人物だった。
その子はベンチに寄りかかり、雨の降る空をじっと見上げていた。
その空を見上げる横顔は、白い百合を思わせるような上品で可憐なたたずまいであった。
高校ですれ違うどんな女子生徒よりも魅力的で、吸い込まれる様な淡い瞳の色をしていた。
不躾にも見つめてしまっていると、彼女は首を傾けこちらを向く。
「私に何か?」
「いや、あの、……そうだね。この辺じゃ見かけた事なくて」
「1時間くらいバスに揺られていたら、ここが終点だと降ろされたものでね」
彼女は自嘲するかの様に笑みを含ませる。
「降ろされたって、ここが目的地じゃないってこと?」
彼女は前傾姿勢になり俯く。
「どこでも良いから遠くに行きたくてね。まぁ……初めての家出って言うものをやってみたんだ」
「思春期の突発的な衝動みたいな?」
彼女は少し困ったような可笑しそうな雰囲気で、「そうかもしれない」とだけ呟いた。
「言いたくなければ別に良いんだけど、何があったの?」
彼女の上げた顔に、視線が重なり合う。
「家の問題を誰かに相談なんてした事が無いのだが……今日は聞いて貰いたいかもしれないな。きっと同じ年頃の見ず知らずの異性なら、自分とは違う視点が見えるかもしれないし……」
語尾は小さくなりながらも、話してくれそうな彼女の横に座ろうと思うが、少し気恥ずかしく、彼女から1つ席を飛ばし横に座る。
「僕で良ければ話聞くよ。雨で帰るに帰れないし予定も終わったしね」
彼女はまた雨が降る空を見つめる。
「君は突然10個以上年の離れた婚約者を紹介されたらどう思う?」
「相手によるとしか言えないけれど……家出するほど酷かったの?」
「そうなんだ、思わず家を飛び出してしまったよ」
淡い瞳は、空の色を写し出すように少し曇って見えた。
「というか、今時婚約者を親が決めることなんてあるんだね」
「我が家は少々特殊な家柄で、両親は家の存続が何よりも大切らしい」
きっと複雑な家庭というやつなのだろう。
「私も家の存続が必要な事は分かってはいるんだが……」
「どんな相手だったの?」
少しだけ目を鋭く細める。
「清潔感が無く、28になるのに家の財力にあぐらをかいてわがまま放題な人だったよ。使用人には当たり散らし、私を見る目はどこまでも邪で、虫唾が走るとはあの事だろう」
少しだけ想像してしまい、残念な気持ちになる。
「私としては10個離れようと、その人がそれなりであれば家の為とも思えたが、あれは酷過ぎる」
「今日初めて会ったの?」
彼女は軽く頷く。
「朝一で初めて顔を会わせて、午後は2人で出かけて来いとの事だったが、気づけば私は一人ここまで逃げて来てしまった」
綺麗だと思っていた瞳に、更に陰りを感じ、僕は「んーっ」と一瞬考える。
「逃げ出したい時に逃げ出せるってすごいじゃない」
彼女は不思議な物を見るかの様に目を丸くした。
「逃げる事は、妥協とか諦めた様に受け入れるより、よっぽど自分で選べて偉いねって思うよ」
「でも……1度逃げたら次も逃げてしまうかもしれない」
そう言うと、唇を噛み締める様にキツく閉ざした。
「次もダメかもしれない、また同じような事があるかもしれない。でも……そうじゃないかもしれない」
キツく締めた唇を少し緩め、顔をあげる彼女へ僕はふわりと笑いかける。
「もし、次が無かったら?」
「別の人にして欲しいってお願いして次を作ろう」
「そんな無責任なこと……」
「責任なら自分で取っちゃえば良いよ。ダメそうな婚約者なんて見限って、自分が1番活躍できる相手を見つけよう。他人を変えるより、自分が変わる方がずっと楽だよ」
陰りを洗い流すかのように、彼女の目から涙が溢れ始めた。
「なんだろうなこの気持ち。今までに感じたことが無いほど軽やかになっていく気がする」
止まらない涙と彼女の重い思いがはらはらと流れ落ちていく。
「良ければ使って」
晴れやかな泣き顔を見せる彼女へとハンドタオルを差し出す。
彼女は素直に受け取り「すまない」と涙で震えた声でお礼を言った。
しばらく目を抑える様に涙を拭い続けると、泣き腫らした目をこちらに向けた。
「もし……家のことが済んだなら、またここに来て相手をしてもらえるだろうか?」
「何にも無い田舎だけど、空気は良いから気分転換にいつでもおいでよ」
赤くした目元を細め、鈴を転がす様に小さく彼女は笑う。
「勘違いの無いように言っておくが、君に会いたくてまた来るよ。家の言いなりでは無く、自分自身の意思で」
彼女の言いたいことが多少は理解できた事で、僕は熱を持ち始めた事を誤魔化す。
「出会ってまだ1時間も経っていないのに、そんな期待させる様な事を言って君は悪い女の子だねぇ」
「私は自分が思った以上にわがままだった様だからな、悪女にだってなれるさ」
お互いに笑みが零れる。
次のバスが来るまで数時間。
お互いをより知ろうとするおしゃべりは、近づくバスの音に気がつくまで止まらず、出発したバスは虹のアーチをくぐる様に彼女を送り届けた。
ーーそれから数ヶ月
いつかと同じ雨上がりのバス停に、日に数本しかやって来ないバスが停まる。
バスから降り立った人物は、相変わらず白い百合のような上品な雰囲気を纏わせた彼女だった。
「君にやっと会いに来れた」




