記された名前
静かな空間。
あたりは真っ白で何もない。
いや、何も見えないのか?
とても……とても静かだ。
少年はまっ白い空間をフワフワと揺蕩っているような感覚を覚え、思う。
ああ、もう……死んじゃったのかな?
もうどうしようもないくらい眠くなってきた。寝ても起きていても同じだろう。誰も居なければ何が起こるわけでもない。体の感覚すら怪しいのだからどうでもいい。服も、手錠も、鎖も自分自身の体もないように思えてきた。
『―――』
なにか聞こえる。
何も見えないここには不釣り合いな音……いや、声?
『―――』
空耳ではなかった。
少年はその聞こえそうで聞こえない音に頭を向ける。
その音は少年に向けられたものか、そうでないかは分からなかった。けど、やっぱり聞こえる小さな音に体はひかれる。
その音に引っ張られる少年の体は真っ白の空間を抜け出した。瞬間、体の重みを覚え、耳は周囲の喧騒を捉え、目の前には見知らぬ天井があった。
木製の高い天井と、一定間隔で吊らされた白熱電球。
少年はベットに寝かされていて、左腕から一本の細い管が伸びていた。何かの入れ物につながっている。その入れ物は『ブドウ糖』と読めたが、少年には解らなかった。
『ブドウ糖』とは何か分からなかったが、妙に見覚えのあるような管と景色に、なぜだか危険なものではないと分かった。以前にも、同じように管を繋がれていたことがあったような……。
周囲を見ると少年の寝ているのとは別に五つほどのベットがあり、だれもいなかった。
少し広めな部屋は計六つのベットが楽々入り、少年はそのうちの一番端っこ、窓際のベットに寝かされていた。
窓の外は青い空に白い雲が所々に浮かんでいて、少年がいた荒野のような寂しい青色をしていなかった。
少年は体を起こして窓の外の風景を眺める。空は白い雲が浮かんでいて優しい青色。窓のすぐそばには茶色い土が広がり、所々に低いながらも木が生え、花が咲き、その大地を控えめに彩っていた。
地面がすぐ近くにあるので少年のいる部屋は一階にあるのだろう。少年は遠くまでは見えないが、近くの地面はよく見えた。
少年のいる部屋からは見えないが、少し離れたところには白いさざ波を立てる海があった。深い青色の海から離れたところにある建物に少年は居る。
建物は円柱形の空にまっすぐ伸びた大きな塔のようなものだった。周囲の自然に不釣り合いな灰色の塔は何もかもおさまりそうなほどの大きさで、運動グラウンドが一つ丸ごと入ってしまいそうなほどの幅をしていた。
よく見ると外側は鉄でできている。海風に吹かれ続けた表面には塩がびっしりと張り付いていた。その塔は天を支える巨大な塩の柱のようだった。
少年が外の景色を眺めていると窓の反対側にあるドアが開いた。ドアを開けたのは十五、六歳くらいの男だった。男は少年のベットまで歩いてきて、呼び掛けた。
「おい、気が付いたか?」
少年は振り向かない。ベットのわきに立つ男は少年の肩を掴んで体を揺さぶる。
「おい、生きてるのか? 返事しろよ」
少年は振り向いて外の風景を見るのと同じような目で男を見る。
「俺は、ナコルだ。お前、名前は?」
少年は言われて初めて気が付く。
名前……? 生まれた時につけられるもの。
少年は自分の記憶の奥底の深くまで探るも名前は見つけられなかった。
答えない少年に痺れを切らしたナコルは溜息をつく。
「お前、名前ないのか? そんなわけないだろ。忘れたのか?」
答えられない少年に肯定とナコルは受け取る。
そして腕を組み、ナコルも黙り込む。少年はしばらくナコルの悩む顔を見ていたが、すぐに飽きて外の景色に目を戻す。
外は相変わらずの優しい景色だった。少年がいた雪の街や廃墟、荒野にあった寂しさがなかった。
ただ、何かが足りないとも少年は思ったのだが……。
「えっと、ラーファでいいか?」
ナコルは唐突にそう言った。少年は不思議がって男を見る。
「名前がないのは不便だ。お前の名前は今からラーファだ」
ラーファ。少年は聞きなれない単語に頭をひねると、それは名前と結び付いた。
名前、ラーファ。少年は二つの単語を頭の中で反芻し、やがてそれらは自然と一つにまとまり心の中に落ち着いた。
「どうだ? これ、お前の名前じゃないのか?」
ナコルは少年の服をまくって一つの文字列を指さす。『rapha』と書かれてあり、その先は霞んで見えなくなっている。
ラーファ。
文句なんてもちろんない。不満なんてない。あるわけがない。
少年は首を縦に。少しだけ動かして、自分の意志をナコルに伝えた。気が付きそうにないほど小さな仕草だったがナコルは見逃さなかった。
「よし、ラーファでいいな。もう一度言うが、俺の名前はナコルだ」
少年はまた首を縦に動かす。ナコルはそれを確認するとさっさと部屋から出て行ってしまった。
少年は窓の外に視線を戻す。けれども、胸の中が少しだけ満たされるような感じがして、外の景色を先ほどのように見ることができなかった。
そのことを思うだけで少年の空っぽな心の穴が少しだけ満たされるような感じが胸に渦巻いて、外の景色どころではなかったのだ。
その後、ナコルが白衣を着た初老の男性を連れてきた時も、腕につながった管を引き抜くときも、初老の男性が何かを話しているときもそればかりが頭に渦巻いて何も少年に入ってこなかった。
ラーファ。
少年は自分の名前を頭の中で反芻する。
僕はラーファ。
夜、ナコルが「明日の朝に迎えに来る」と言って出て言った後、思ってみる。
すると、あの少女と居た時のようにやさしい感触に包まれたような気がして、目を閉じることができた。
ラーファは優しい暗闇にその身を投じた。