既視感
強烈な既視感に襲われ、視界がグラッと歪んだ。
いや、これはあの日の記憶。忘れるはずがない記憶。
あの日、ここで目の前にいる男にミルが連れ去られた。その時自分は、何もしなかった。何もできなかった。ただ見ていることしかできなかった、悔しく、苦い、無力な自分を証明する記憶。
「やー、アテも何にもなかったけどな。もしかしたらここに来るかと思ったら、ドンピシャだ。俺って結構ついてるかもな」
「何しに来たのよ! わたしは絶対に戻らないんだから! あっち行って!」
ミルが叫ぶが、男はまともに取り合わない。
「そう言われてもなぁ。お前ら二人は脱走兵。このまま手ぶらで帰るっていうのもなぁ……」
「あんたのことなんか知らないわよ! 絶対に、ぜーーったい戻らないからね!」
「そっか、じゃあ……」
「――ッ!?」
男が動いたと同時に、ミルは横で立っているラーファを自分の背中に隠す。
前はラーファを人質に取られてしまい、二人は別れてしまった。同じ轍は踏まない。
「はっはっは、そんなビビらなくてもいいじゃないか。腰に手を当てただけじゃないか」
「そんなこと言いながら、銃の安全装置外してるじゃないの。いつでも撃てるようにして」
男から距離をとり、マツダの横にまで後ずさる。
「マツダ。ドア開けて、ラーファは先に車に入ってて」
ミルは男に聞こえないようにして、ラーファを半ば強引に車に押し込む。
本当は今すぐにでも車に飛び乗って逃げたいのだが、タイヤを撃たれたら大変だ。迂闊に動けない。
じゃあ殺す? 殺すか? 自分なら簡単だ。できる。
でも、いやだ。
ミルは人間兵器として改造され、人一人を殺すには十分すぎるほどの武器を持っている。だがそれゆえに、あんな姿を好きな男の子の前で見せたくない。人間離れした姿も、人を殺す姿も。
「軍はすでに追跡隊を編成し、捜索を始めたらしいぞ」
「私を捕まえるためでしょ?」
「それと、そこの坊主と車のためだ。無論、生死は問わない」
「え? なんで? ラーファは5番隊でしょ!? 例外じゃない!」
「確かに5番隊は脱走罪は問われないか他よりも軽い。だが、そこの坊主は例外だ」
「なんでよ!?」
男は困惑するミルの持つノートを指差す。
「そのノートは読んだんだろ? じゃあ分かるだろ」
「嘘だッ!!」
「嘘じゃない。なんなら確かめてみるんだな」
男は言うだけ言ったと踵を返し、バイクのエンジンをふかす。
「……私たちを捕まえないの?」
「なんだ? 捕まえてほしかったか? 俺はその任務に就いてないからな。死にそうになってまでやろうとは思わない」
「じゃあなんでここに来たのよ」
「忘れ物……だったんだけどな。後処理? 趣味みたいなもんだな。うん」
微妙に答えになっていない言葉にミルはさらにいらだちを募らせる。
「はっきりしなさいよ!」
「自分の作ったもんに興味を持っただけだ。じゃあな、ミカエル」
「このッ――!? さっさと行け!!」
足元の石を投げるも、その前に男は去って行った。的を失った石はそのまま地面に落ち、二つに割れてしまった。
男の去って行った方を睨むが、あるのは舞い上がった砂埃だけ。胸にたまる塊をぶつける場所はどこにもない。
「マツダ、行くよ! 西の港へ!」
「やっと終わったか。ルートはどうする? あとなんで西の港だ?」
「西海岸の南の方に大きな貿易港がある。そこから民間船に乗って極東に行く」
「ごくとぉ? まぁいいけどさ。んじゃ……大渓谷のルートで行くぞ」
「お願い。その方が追っ手に捕まりにくい」
男とは反対方向に車は走り、廃墟を抜けサバナに出る。少年は窓越しに辺りを見渡すが、地平線の上にさえないもない。簡単に舗装された道をマツダは走る。ラーファは微細な揺れに体を任せ、追っ手のいない安心感に浸る。
隣の助手席に座るミルは固い顔のまま、ぎゅっと両手でノートを胸に抱く。
ラーファは体を背もたれに預け、首だけを動かしてミルを眺める。ミルはシートベルトもせずに何やら考え事をしているようだった。
上部の少しだけ開けた窓から風が車内に流れ込む。ラーファとミルの銀髪を撫でると、ラーファの目が少しだけあらわになった。それが偶然、ミルの視線と重なる。
「あ、はは……なんでもない。大丈夫だよ」
笑顔を作りながら言うが、すぐに嘘だと分かった。ミルの涙袋が膨れていた。
ラーファが人差し指で自分の目元を指す。
ミルは窓に顔を向け、片手で目元をぬぐう。一回、二回。それでもミルがラーファに顔を向ける事は無かった。泣き顔を見られたくないのだろうという事はラーファにも察すことはできた。
こんな時はどうすればいいのか?
ラーファは泣いている人をなぐさめる方法なんて知らない。かけてあげる優しい言葉も持ち合わせていない。
それでもミルに笑ってほしい。悲しんでほしくない。
「マツダ。ちょっと速度ゆるめて」
マツダは返事をしなかった。ゆるゆると速度を落とす車。揺れが落ち着いたところで、ラーファはシートベルトを外した。そして、ミルと背もたれの間に体を滑り込ませる。
「えっ!? あ、ちょ……」
シートベルトをミルの上からかけて、助手席に二人重なって座る。
ミルの後ろから手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめる。
「あぅ……う……」
突然のラーファの行動に顔を赤くするミル。涙なんてすぐに止まった。
ラーファは口をミルの耳の近くに寄せ、一言。
「だいじょうぶ」
吐息交じりの小さな声に、ミルの心臓がはねる。くすぐったい感覚に耳まで赤くなる。こそばゆい気持ちは胸にとどまって無性に走り出したい気分になった。
「あああああり……ん、ありがとう」
上ずった声を飲み込み、精一杯心を落ち着かせる。ふーっと息を吐き出して、体をすべてラーファに預けた。
暖かい手に包まれている。手を重ねて、もっときつく体を絞める。
「ありがとう」
もう一度、何度言っても足りない言葉。
さっきまでの不安が嘘のように消えてしまった。
このノートには大事なことが書かれていたけれど、必要なものではない。ミルはノートを後部座席に乱暴に投げて、書かれたことは全部忘れた。
「ひゅーひゅー、熱いねぇ」
「マツダうるさい! 早く港に行ってよ! あとしばらく喋んないで!」
マツダが茶化し、ミルが怒鳴る。
一台の赤い車は荒野を西に駆けていく。




