クラリスの過去
ラーファとクラリスの試合の後はナコルとテオの試合だ。だが、ラーファは自分の試合が終わるとすぐに外に出て行ったクラリスを追いかけ、演習場から出て行った。
出て行く前、演習場の入り口で振り返ったラーファはフィールドの上でテオと対峙するナコルを一瞥して、少しだけ笑った。そして、少し名残惜しそうにクラリスを追いかけ、外に出た。
ナコルが負けるはずが無い。日々の練習でも、ここに来たとき始めてナイフ戦をしたときも、ナコルの腕はすごかった。すばやい動きに力強いナイフ。的確な身のこなしと常にギリギリでナイフを避ける体。どれをとっても強い彼が、負けるはずが無い。
演習場を出ると、少年兵たちの歓声が一気に消えて嘘みたいな静寂に包まれる。人ごみの喧騒よりも静かな空気のほうが好きだ。
演習場の出口の左方向に、一瞬だけクラリスの背中が見えた。ラーファはクラリスの後を走って追いかけた。クラリスが消えた曲がり角まで着くと、今度はその先のT字路を右に曲がるクラリスがいた。そのまま追いかけると、クラリスは階段を上ったり、入り組んだ迷路のような道を右へ左へと進んでいく……。
彼女がたどり着いたのは……武器倉庫。
武器倉庫のまえの扉でクラリスは立ち止まった。
「何でついて来るの?」
曲がり角の影からラーファは体を出してクラリスの後ろに立った。
「どうしてここにいるの?」
質問を質問で返す。
クラリスは武器倉庫の扉を開けて中に入っていった。ラーファの質問には答えようとはしない。
ラーファも倉庫に入ろうとしたところで中からクラリスの声が聞こえた。
「なんでもないよ。心配させることは何もないから」
ラーファは扉の前で立ち止まった。中に入ろうと思ったが、入っていいのか分からない。中ではクラリスが何かの武器をいじっている音がするが、一体何をしているのか見当もつかない。
そういえば……クラリスは何で勝ちを譲ったのだろう? クラリスにも願いがあるはずだ。だからこそここまで勝ち上がってきたんだし、真剣に戦った。それなのに、自分で叶えるといってラーファに勝ちを譲った。
ラーファは胸に浮かんだ疑問を彼女に投げかけようと思って扉に手をかけた。
中ではクラリスが緑色のリュックサック、軍の支給品でないリュックサックの周りにいろいろなものを整理していた。ハンドガンと予備の弾倉、弾の入ったケースにどこから手に入れたか携帯食料。まるで、どこかへ逃げ出す準備をしているようだった。
「クラリス……どこかに行くの?」
「いいえ、私はどこにも行かない。この塔に用があるんだから」
「そう……」
会話が途切れる。
あまり人と会話したことのないラーファは沈黙には慣れていたが、これを打ち破るのは苦手だ。
しばらく沈黙が流れるうちにクラリスの作業は終わり、リュックを背負って出て行こうとした。
「あの……」
「何? 今やっている二人の試合は見なくていいの? 行ったほうがいいわよ」
「それより、なんで僕に勝ちを譲ったの……?」
「……あぁ、そのこと」
クラリスはリュックサックを床に置いた。座るようにラーファを促し、クラリスも床に座る。
ラーファから見たクラリスはちょっと笑ったような顔をしながら話し始めた。
「ちょっと長くなるかもしれないけど……いや、あなたならそうでもなさそうね」
「わざと負けたの?」
「そうよ、あのまま相打ちでも良かったけどね。殺しは無しだからね。あなたも引く気はなかったようだし」
なんでもない顔で相打ちなんて口にする。もし、殺しのルールが無かったら刺されていたのかもしれない。首元に触れる冷たい金属の感覚を思い出す。あと一センチでも動いていたら……死んでいた。
「それに、あなたには私と同じにおいがしたから」
穏やかだけど、どこかマイナスな感情を秘めた笑顔で話し続ける。温もりが消えてしまったかのような笑顔。
ラーファは何もしゃべらない。黙ったままクラリスの話に耳を傾ける。
すると、クラリスは上着を脱ぎ始めた。その下に着ているシャツの袖をまくって肌が露になる。そして、左腕をラーファに突き出した。
「見て、ここ」
突き出された腕をよく見ると、無数の赤い小さな点があった。一見しただけでは数え切れないほどの数。同じように出された左腕にも同じようにいくつも赤い点があった。
注射の痕だ。何回も何回も針が皮膚を突き破った痕。
「私はね、研究所にいたの。研究所……知らない?」
知らない……と言おうとした言葉は寸前に止まった。奇妙な夢を思い出したのだ。白衣を着た男たちとリノリウムの床と縛り付けられる自分の夢。
既視感のある不思議な夢がラーファの口を閉ざす。頭にちらつく夢の中のシーンがだんだんとはっきりしていく。
「まぁいいわ。続けるわよ?」
「うん」
ラーファは自分の目を左手で抑えながら頷いた。確かに自分の目のはず……何も変な事は無い自分の目のはずなのに、ラーファには確信が持てなかった。
これは僕の目だ。今まで普通に見えた目。あの夢は夢で、現実じゃない。だけど、この妙なはなんだ?
「これはね、私の改造の痕。改造って言うのはなんだか変かもしれないけど……ウイルスとかの感染症にならない体にされたのよ。なんだかよく分からないものをたくさん打たれたわ。あぁ、その前に体力とか、回復力みたいなこといって、他にも色々いじられたけどね。」
クラリスは脱いだ上着を着る。
「でも、直接戦場では役に立たない改造結果。研究所にとって用済みの私は、ここで普通に兵隊やっているのよ。今頃研究所とここの医療室にはワクチンがたくさん並んでいるんだろうね。私を実験台にした成果かしら」
服に腕を通しながらクラリスは自分の秘密を打ち明けた。最後は自嘲気味に笑いながらだったが、どこか悔しさがあるような後を引くような声で……
「私と一緒に実験された子達は全員改造と実験に耐えられなくなって死んだ。私以外全員……十人くらいかな? 私は途中で別施設に移動したからよく覚えてないわ」
これだ。これがクラリスの胸にある記憶……妙な後を引く原因だ。
そのままクラリスは自分が普通じゃないこと、研究所で改造されたこと、改造されるためにここに連れて来られたなど泥を吐き出すように話した。
ラーファは聞きながら、自らの疑問と格闘していた。何度思って打ち消しても何度でも何度でも浮かんでくる……自分の目のこと。自分の目、奇妙な夢、クラリスの改造、研究所……。
頭の中をぐるぐる回る夢のシーンとたくさんの単語。認めたくない、自分じゃない、関係ないものばかり――
「……どうしたの?」
頭を抱えてラーファは叫んだ。クラリスは話をやめてラーファを気にしたが、すぐにラーファの口を押さえた。ここは武器倉庫。大きな声を出しては誰か大人の兵がやってくるかもしれないし、ここにいることを咎められるだろう。こっそりここにやって来たクラリスにとってそれだけは避けたい事態だった。
「……落ち着いた?」
ラーファの口を押さえたままクラリスは聞いた。首を縦に振ると、クラリスは手をはずした。
「まぁ、さっきまでに話したことが私の今までの話よ」
「今までの?」
「そう、そしてこれからは……研究所と、この軍のトップと幹部たちに復讐する。できないかもしれないけど、一矢だけは報いてやりたい。私たちを人間だと思わないで勝手に弄繰り回して、いらなくなったら捨てる連中が許せない。命を命だと思わないで戦争に勝つことしか頭にない連中に私の友達は殺された。元E班のみんなも殺された。だから私は復讐する」
彼女の目はまっすぐラーファを見ていた。芯の通った彼女の意思の表れに、ラーファは驚いた。言葉に出さないが、クラリスの言葉に少しだけ怯んだ。
「うまくいけばこの軍は崩れるかもしれない。そうすれば大きすぎる国が弱くなったことですぐに戦争も終わるでしょう」
「戦争を終わらすことなんて……できるの?」
「うまくいけばの話。それに、私がいつ復讐するなんてのもまだ分からないしね。研究所を壊すだけになるかもしれないし、もしかしたら何もできないかもしれない。けれど、その気持ちだけははっきり持っているわ」
彼女は一気にしゃべった後、立ち上がった。
「腕を出して。どっちでもいいわ」
突然のことにラーファは戸惑いながらも右手をクラリスに伸ばした。クラリスはラーファの手をとって袖をまくった。そしてそのまま顔を近づけてラーファの腕を噛んだ。小さな痛みが腕を走り、ラーファの顔が少しだけ歪む。
そのまま数秒間、クラリスはラーファの腕に八重歯をつき立てた。顔を離すとラーファの腕には小さな赤い血のあとがついていた。クラリスはリュックサックから絆創膏を取り出して噛んだところに張った。
「いつか役に立つよ。あなたがここから逃げるときに……ね」
「逃げる?」
「あら? そのつもりじゃないの? まぁいいわ、そのつもりじゃなくてもさっさとこんな所からは逃げなさい。居場所がないならどこかで作ればいい。ここじゃないどこかでね」
ラーファは黙ったまま噛まれたところをに目を落とす。絆創膏の下の傷が血でにじんでいる。
顔を上げると、クラリスはすでに武器倉庫から出て行った。リュックサックもない、彼女が持っていったのだろう。
少しホコリっぽい武器倉庫に一人。タイミングを見計らって外に出た。大人の兵に見つからないように第一演習場へ戻ると途中の食堂が賑わっていた。試合が終わって昼食なのだろう。この後は普通に訓練があるので早く食べないと体が持たない。急いでカウンターからいつものメニューの昼食を受け取り、ナコルやアルを探す。……いない。既に食べ終わったのだろうか? 仕方がないのでラーファは一人で昼食を済ませてからグラウンドに向かった。
その日の午後、ナコルともアルとも一言もしゃべらないまま訓練を終えた。明日対戦する敵だから今から気を張り詰めているのだろう。ラーファから声をかけることもないので黙ったまま与えられた訓練メニューをこなしてその日は終わった。
次の日。朝起きると、ナコルもアルも黙ったままラーファを置いてさっさと部屋から出て食堂へ行ってしまった。アルは少しこちらを気にしたような、申し訳なさそうな顔をしてラーファを一瞥したが、すぐにナコルについて食堂へ行ってしまった。
いつもなら必ず『おはよう』くらいは言うアルですら何も言わずに行ってしまった。少し違和感を覚えながらもラーファは着替えて食堂へ向かう。
食堂の前にはいつも通り対戦表の張り紙があったが、昨日で既に対戦相手は知れ渡っているので誰もいない。ラーファも何も気にせず張り紙の前を通り過ぎる。
『決勝戦
テオドール(A班)― ラーファ(B班)
終わり次第最終戦』
視界の隅に映った文字はラーファの足を止めた。見間違いじゃない。そこには必ず決勝戦に進出すると思っていたこの名前が無かった。
ナコルが負けた?
全くの予想外の対戦表に、ラーファはしばらくそこで立ち尽くしてしまった。




